1986年8月、僕はアメリカへ旅立った。これから始まる約1ヵ月のホームステイに胸躍らせていた。
息子には見聞を広めて欲しいという親心が発露されたのか、前年に兄がアメリカへ渡ったのだが、持ち帰った写真を見て、僕はクラクラしてしまった。
ホストファミリーの邸内にあるプールサイドでの朝食、カリフォルニアの抜けるような青空、すらりとした四肢を海辺で見せる女性たち。
マジで? リアルわたせせいぞうじゃん!
とりあえず僕の脳内には「君は天然色」が流れた。
僕もオレンジを齧りながら、フリスビーとかしてキャッキャしたり、海辺を「あはは、追いかけてごらんなさい」とか言いたい。そこで父にアメリカに行かせてくれろとせがんだわけだ。
当時の中曽根政権下、「国際化」がしきりに叫ばれていた。
アメリカとの間で進む貿易摩擦では、「日本は不当なダンピングで輸出攻勢をかけている」といったバッシングもあり、そうした対日感情の悪化から、もう少し海外の、特に英語圏の国情を知ろうという気運が高まっていた。
ただし、その頃のグローバル化というのは、今日日のビンタを見舞わせるように暮らしを脅すようなものではなく、一国の首相が「海外の物産を買って国際化に役立てよう」と、万年筆を買うパフォーマンスをしていたくらいだから、稼いだお金の振り分け先を海の外に向けるという意味に近かったように思う。
とにかく国際化という語が冠につくスローガンをよく目にした。
そういう潮流もあってか、通っていた高校は、いま思えば文部省の研究開発学校に指定されていたらしく、イタリア系フィリンピン系アメリカ人やドイツ系アメリカ人、視覚障害をもつ英語教員などが次々と採用され、英語にやたらと力を入れていた。
もともと中華街の南京町が校区にあり、クラスに必ず華僑がいたこともあって、文化の違いを知るとは、ある種の緊張をともなうことだと体感していたのだが、上から降りて来た国際化というスローガンはややもすると、民族の違いからくる微妙な心理の彩の影を消し去るように異文化理解を強調していたように思う。
軒の深さからくる和室の陰りではなく、それはカリフォルニアの日差しのような。
僕はそういうのも悪くないと思った。差別という軸で人と向き合うことに飽いていたのもある。
とまれ、まだ舶来という言葉が健在であり、それは憧れと同義だった時代だった。あちらとこちらを分ける隔たりは広く、海外旅行というのは敷居が高かった。
身近な海外旅行のサンプルがあまりなく、だいたいが団体旅行であったが、これの評判があまりよろしくない。
とりわけノーキョー(農協)の団体ツアーに関する苦言についてよく耳にした。
おそらく、いま日本の観光地で話題となっている中国人や韓国人観光客を笑えない珍道中がパリやニューヨークで繰り広げられていた。
たとえば、美術館や映画館で写真を撮りまくる。ホテル内をステテコで歩き回る。浴槽の外を水浸しにする。室内で魚を焼く。
風呂は、かけ湯を常とする人には使い方がわからなかったのも仕方ないし、魚を焼いてスプリンクラーが作動したというのは、本当かなと思うけれど、とにかくお金をもった新興国というのは、洋の東西を問わず、文化や教養を欠いて見える。これは仕方ない。
かつてのパリジャン、パリジェンヌにもアメリカ人の振る舞いは不品行に見えたそうだし、誰もがいつか来た道だ。
いつか来た道というのは本当で、訪米の3年後、三菱地所がロックフェラーセンターを2200億、ソニーがコロンビアピクチャーズを5000億、安田火災海上が58億でゴッホの「ひまわり」を買収するなどし、日本脅威論が本格化するが、86年当時もその予兆はあり、いわば日本の存在が棘のように感じられ始めていた。
アメリカにおける日本の姿を、いま僕は日本での中国や韓国像に見る。
そんな時期にサンフランシスコの空港に降り立った僕は、ニール・アームストロング船長のような少し上ずった調子で、それでいて心模様は、さしずめ遣欧使節団のようだった。
つまりは、日本という国の評判を汚さぬよう振る舞うべきであるという思いを心中に逞しくしていたのだ。
がしかし、そういう意気軒昂さというのは、ホームステイ一日目にして挫かれた。
砂漠の縁に位置するなにもない街の平屋の住宅を見たとき、スーツケースを運ぶ手にだるさを覚えた。
さようなら、白亜の邸宅。プールサイドの朝食でのカリカリに焼いたベーコンとスクランブルエッグ、オレンジジュースをいただく夢よ。
ホストファミリーの構成はおやじさんと奥さん、娘3人と男ひとり。
ちなみにおやじさんは警察官で、車でドライブするときは割と信号無視をしていて、「はは、ノープロブレムだよ!」と言う陽気な人だった。
午後5時のLAの空はまだまだ明るく、案内された部屋に落ち着く間もなく、「いらっしゃい」と呼ばれたテーブルには、紙の皿に載った手づくりのハンバーガーとポテトチップス、それに水。
席につくとホストファミリーはお祈りを始めた。おやじさんが「お腹が減っただろう。食べなさい」と言う。
「ははーん、アメリカではおやつがハンバーガーなのだなぁ」と思っていたら、これが夕食だった。
食生活に関しては仰天の連続だった。
たとえば、昼は近くの学校に英会話の勉強に出かけるのだが、奥さんがサンドイッチをつくってくれる。それを映画で見たことのある、スタンドで見かけるような典型的な茶色の袋に入れて、もたせてくれる。ありがたいことだ。
最初はツナとかベーコンだったが、だんだんジャムが多くなって、最終的には袋の中には、ピーナッツバターサンドとニンジンが一本になった。
わしゃ馬かと。お腹減っているから生のニンジンを食べたけれども。
ほかにも蛍光グリーンのケーキなんてそれまで見たことなかったし、食べ物に関してはいろいろ不満はあったけれど、アメリカの暮らしは、おおむねおもしろかった。
出会う人たちみんな陽気だったのもあるけれど、何より良かったのは、空気を読まないで暮らせるところで、それが清々しかった。
いちど町中で議論している風景に出くわしたのだが、その主張の相容れなさ加減は、英会話能力が低くても見て取れたけれど、互いの態度が「理解できない相手が理解できないことを言ってやがる」であっても、「それはそれとして聞き置くけどな」という姿勢があったことで、これはたいへん感銘を受けた。
これを相手の意見の尊重だと短絡することはできないけれど、他人というのは自分の思いでどうこうできないものなんだという了解が行き渡っているように感じ、そこが僕にはひどく開放的に見えた。
感化されて、はっちゃける気分になってしまい、いままでだったら着ないような服なんかも買ってみたり、サングラスをしてみたりと、すっかり色気づいてしまった。
自分を客観視できなくなる方向への自己主張というのは恐ろしいもので、帰りにハワイに立ち寄ったのだが、ダイアモンドヘッドを前に撮った記念写真を見ると悶絶しそうになる。
そこには“NINJA”のロゴとプリントの入ったノースリーブのカットソー(言い訳させてもらうなら、当時アメリカではショー・コスギブームだったんです)にケミカルウォッシュのジーンズ! そしてリーボックのハイカットを履いてピースする己の姿。
万死に値するな。