行き過ぎた性教育とやら

雑報 星の航海術

ときにこのようなタイトルに即したことについて書くとブログが荒れるということは重々知ってはいる。

だが、彼の吉田松陰先生も仰っているではないか。

 かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

奴がれは大和ではないので、ここを鶏林あるいは青丘と読み替えていただければいいのだが、いずれにしたって「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも」ですよ。

東京都立七生養護学校の性教育を過激だとして「都議から不当に非難された」裁判において、東京高裁は1審を支持し、原告・被告双方の控訴を棄却した。至極最も。

事の発端は、七生養護学校の知的障害をもつ生徒同士が当人の好奇心の赴くままに行動したためか、セックスをしたことに始まった。
これを受け、教員や保護者らが協議を重ね、独自の教育プログラムを開発した。

内容はといえば、性器の名を織り込んだ「からだうた」や人形を使った身体教育だった。
これが過激だとして都議や新聞が「調査」に入り、「具体的でないと分からないというなら、セックスもやらせるのか。体験を積ませて学ばせるやり方は共産主義の考え方だ」という都議の暴言まで出る始末。

はて、過激の中身とはどんなものかと言えば、たとえば「からだうた」は、こういう歌詞だ。

 あたま、あたま、あたまのしたには首があって
 肩がある、肩から腕、ひじ、また腕、手首があって
 手があるよ(右と左を繰り返す)。
 胸にオッパイ、おなかにおへそ、おなかのしたが
 ワギナ(ペニス)だよ、背中は見えない、背中はひろい、
 腰があって、お尻だよ、ふともも、ひざ、すね、足首、かかと、
 足のうら、つまさき(右と左を繰り返す)、おしまい

何のことはない。自分の身体ってなんだろうということを歌っているだけだ。
人形を使った性教育と言ったところで、「こうすれば子どもが生まれる行為になりますよ」というだけで、きわめてふつうのことを説明するに過ぎない。

精通と初潮を迎えた人ならば、セックスをするのも不思議はないことで、当たり前のことを当り前に教えたら「過激」とは、是如何?

異性、同性を問わず、恋人や妻やパートナー、あるいはそのときしたいと思ってしまった人と行うことが「過激」だとしたら、過激でないセックスをしていない人がいるのだろうか。

吹き上がりと形容しても、そうそう的外れではない都議や新聞メディアの所業は、「行き過ぎたジェンダーフリー」と「過激な性教育」を結びつけ、「ジェンダーフリーは過激な性教育を行うもの」というバッシングを遂行したいがための、ためにする「調査」であったと僕は感じている。(この辺りについては、評論家の荻上チキさんの「七尾養護学校の件について」を参照ください)

ジェンダーフリーを「性差をなくす」運動だと決めつける論調がある。バックラッシュというやつだ。

その手の論者は従来のジェンダーについて疑義を抱く人たちについて、男らしさ女らしさをなくす意図を逞しくする亡国の、伝統を重んじぬ、左巻きの、国を愛さぬ徒輩の、天然自然の男らしさ女らしさを踏みにじる 天に唾する不届きものよと詰る。

なんだかこうして連ねて綴ると、「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この丘に」みたいに長歌じみてしまうが、たぶん非難の根底に関する要約としては間違っていないだろう。

それにしても嗚呼男らしく・女らしくと喧しいことだ。

男と女とでは身体が違う。だから役割が違う。したがって本質的な違いというものがある。
ホップ、ステップ、ジャンプというには、あまりに歩幅のちょこまかした、こけつまろびつの三段論法だが、このように人間の機能から人間のデザインを、本質を決めたがる人がいる。


どうも僕らは、ある特定の社会や文化がもっている男と女の考え方や振る舞いへの期待を「人間の本質に基づいているもの」と勘違いしてしまえる、とても都合のいい考えをもってしまう傾向があるようだ。

錯覚していることに気づけないと、性あるいは性差を強迫的なまでに実体的なものとして取り扱ってしまうらしい。
だから差という距離を測定可能な物理的なものとして安易に捉えてしまう。

男女を直線上の両端として捉えれば、その差は測定可能に表向きは見える。
しかし男女の差はレイヤーの重なりが空間に展開する“何か”の濃度の違いではないか。

僕はインターセックスの友人に「性自認としてはどちらなの?」と愚かしい質問をしたことがある。
彼/女は「いや、本当にわからないんだよね」と答えた。

くだらない質問をしたと僕は顔を赤くした。猛烈に恥じた。

「性とは両極のものだ」と思っているから、そういう質問をしたのであって、そもそもその質問の外に生きている彼/女にとって答えようのない問いだった。
僕は自分の価値観に即したことを聞いただけで、自分の外に広がる未知について蒙昧野蛮な態度で臨んでしまった。

本質を尋ねているつもりで、本質を予め決めてかかっていることは大いにある。
以来、僕は本質とは「名付けられないもの」の別称なのだと考え、本質に迫っていると思える思索が、実は性急な短絡である可能性を疑うようになった。慎重になった。

人間というデザインは、人間の手によってなされたものではないのだから、人間の認識できる局内の機能によって、デザインは決定されない。
常に認識できる以外の何かが私たちを形づくっている。これを忘れたくない。