愛という名のもとに

自叙帖 100%コークス

先日、『困ってるひと』の著者、大野更紗さんにお会いした。
いわゆる闘病記が進行する病への抵抗の物語なら、『困ってるひと』はそういう類いの書ではない。

医療や保険という制度を明確な敵としてターゲットにするには、僕らはあまりにもそれらの問題の側に与して生きている。

だから自身と関係ない病理としての社会を描くことなどできない。
目前にある現実を生きるとは、難渋するほかない社会をそれと知らず生きているということでもあるからだ。

『困ってるひと』は客観的な立場などという幽霊のような視点からではなく、難を生きる中で綴られた書物であり、読み手は大野さんが自分の肌に文字を刻んだものを写し見ている気にさせられる。

書評や感想には、大野さんのユーモアを讃える言辞が多い。
僕は思う。難を転じて笑いに換えるのは知性のなせる技というが、呪詛に換えることなく通過させるにあたり、それがどれほどの孤絶の中でもたらされたものかと。
出版不況といわれる時世にあって12万部も刷られているというが、分断された状況をかこつ人たちの思いが背景にあるようにも思える。

大野さんは自己免疫疾患系の難病である皮膚筋炎、筋膜炎脂肪織炎症候群などに罹患されている。おそらく日常の暮らしの中で、僕にとってはどうということのない所作であっても、それを行うにはひどく困難なこともあるだろう。そう想像された。

想像の外にあることに関しても、想像するほかない。

比較にもならないが、自身の経験からいえば、かつて髄膜炎を患った頃、歩くことも立つこともできなくなり、どうということのない階段を上ることが千日回峰行に匹敵するかに思えたことがあった。千日回峰行やったことないけど。

自分がいてもいなくても関係なく進行していく世界からひとり括り出されたとき、満腔を怨の一字が浸すように思えた。それに関して大野さんはストイックだ。

他者の生き難さへの想像の、我が身以外の源泉は母だ。
母もまた膠原病の一種であり、自己免疫疾患系の全身性エリテマトーデスを患っていた。現代では完治できない難病だ。彼女は常に倦怠感、微熱に襲われ、骨粗鬆、光線過敏に見舞われていた。

治療薬であるステロイドの副作用から精神的に不安定になったことが、母をして僕の首筋に包丁で峰打ちをさせたものだろう。

僕が生まれた直後に母は病気になった。
膠原病の発症は原因不明とされているが、過日書いた通り、結婚生活のストレスが限度を越えて、彼女に病をもたらしたものと睨んでいる。

父は自分の思った通りに物事が運ばないと全身を震わせて怒る。高天原で暴れるスサノオよろしく、彼にとっては些細なこととして看過できるものなど何ひとつないのだ。結婚生活は快闊だった母を次第にびくりびくりとした心持ちにさせたろう。

たとえば冷蔵庫にいますぐ使わないなものが入っているとする(そのための貯蔵なのだが)。そういうものが増えて行くと、中には賞味期限の切れたものも出て来るだろう。

清潔好きというよりは、自分の観念で現実を刈り込むこと以外の世界が信じられない父にとっては、期限切れの食物がストックされているということは、彼の信奉する「修身斉家治国平天下」という儒学の宇宙論への挑戦でしかなかった。

いやしくも家庭をもり立てる(斉家)身ならば、賞味期限を過ぎたスジャータを看過するなぞ何事であるか!(修身がなっていない)という話になるわけだ。

たった数ミリグラムの内容量しかもたない「褐色の恋人 スジャータ」は一大ページェントに発展し、いまや彼の宇宙論の進行を妨げる敵とみなされ、時は来たとばかりに銅鑼は打ち鳴らされ、吹き流しは翻る。

そのクライマックスは決まって大晦日に訪れ、演目は冷蔵庫の中身をめぐっての一幕。怒号のはてに一切合財が捨てられる顛末になっていく。
幼い頃は、この騒動に右往左往していたが、いつしかカタルシスに向けて祝祭の色合いを帯びて行くことに気づくと、本気で制止することもなくなった。

観念や考えの理解を強いることは始終行われていたが、言葉を交わす中での共感や共鳴はあったか。

話せばわかる。
この言葉に得心した経験が僕にはない。僕になかったが母にはあったのか?

想像してみよう。
女性とまともにつきあったこともなく、赤貧の中で参照すべき家族のロールモデルも持ち合わせていない男がそれでも高度経済成長期のファミリー形成熱に煽られて結婚し、経済的に上昇することを家庭の幸せと定めたとき何が起るか。

持ち前のバイタリティに任せて仕事をすることが家庭を守ることに思えたか。
だが、それは自分の性格の偏りをいっそう強調することに力を注ぐ道行きであり、その偏向に母はひしがれていったのではないか。

恐ろしいことに、父はそれを愛だと思っていた。いや、いまもなおそう思っている。
あるいは母もそれが愛というものだと思っていたかもしれない。

「これを愛とせよ」というものが愛であると。

正確にいえば、そういうものとして受け取る努力をしていたのかもしれない。
ときは結婚というものが、女性にとって死活をわけるサバイバルの主たる道だった頃だ。それを愛と呼ばずして何とて到底自分の人生で出会ったことのない、規格外の男と暮らすことができようか。

底意地の悪い目で見ていると思うだろうか。
だが僕には、母が病という形で「愛」と呼ばれるものの、その受け取り難さを総身で表現していると見えてならないのだ。