骨まで愛して

自叙帖 100%コークス

1987年晩秋、母が入院することになった。

僕が生まれて以来、幾度か入退院を繰り返していたが、最後の退院を機に隔週くらいのペースで自宅から通院する方針に切り替えていた。
一回の診療は4、5時間かかるというもので、体力の衰える膠原病の身にとってはつらいものだったろうが、そこでほぼ10年ぶりの入院の必要を告げられたわけだ。

入院の前日の夕食時、母は「こんど入院したらもう帰って来れないかもしれない」と言い、唐突に泣き出した。最後の食事は確かチンゲン菜のホワイトクリーム煮だった。

高校の授業が終わると、一日置きくらいのペースで僕は見舞いに行った。
母はうれしそうに、決まって僕に「売店で何か買ってきたら」とお金を与えた。僕は無邪気にジュースや菓子を買いに行った。
そのときの自分の一連の行動は、いま思うと信じられない。
体内に水がたまり心臓や肺を圧迫するということで、一日の水分摂取量が制限されていた母の前で、喉を鳴らしてジュースを飲んでいたのだから。

個室から僕を見送るエレベーターまでの距離が母の一日の歩行のほとんどだった。
彼女の日を追うごとにゆっくりとしていく歩みにあえて衰えの兆しを見なかったのは、いまにして思うと「いずれよくなる」という現実を直視したくがないための根拠のない予見越しに容態を見ていたせいだろう。

年が明けて1月15日、病院に呼び出された。
胸にたまっていた水を抜いたところ、腹部をはじめ全身にむくみをもたらせていた水が胸に一気に集まり、心臓を圧迫。一時、心臓が止まり、意識不明となった。

幸い意識は回復したが、この一件で「高度な医療」の内実の一端を垣間見た気がした。
それは「全体に水がたまっているのだから部分の水を抜けば、そりゃそこに水は押し寄せるだろう。そんなこともわからなかったのか」と、呆れる思いが半分。
残りの半分は、医療に絶対のセオリーがあるわけではなく、手探りの作業であり、蓋然に満ちた行為であるはずだが、なぜか医師と患者といった関係性の中では、それが浮かび上がらないらしいということだった。
信頼というものはこちらの勝手な思い込みで成り立っているのだと気付かされた。

ともあれ、1月15日を境に母の立って歩く姿を見ることもあまりなくなった。
それから一ヶ月近く経った2月10日、僕は高校の修学旅行で信州に出かけた。前日、母を見舞った。「元気でね」と言葉を交わした。
14日、帰宅すると、旅行中に母が個室から集中治療室に入ったことを聞かされる。

さっそく父とともに病院に向かった。
酸素マスク越しに母は「大丈夫か?」と尋ねてきた。てっきり僕らのことを聞かれたと思った。

帰りの車中、父は「あれは“自分は大丈夫なのか?”という意味だろう。あんなことを尋ねたのは初めてだ。悲しいけれど、ママは覚悟しているのかもしれないな」

なお、我が家では巌みたいな顔したむくつけき父をパパ、シヴァの妃パールヴァティーよろしく憤怒相をたたえることもある母をママと呼んでいた。どのツラ下げてという感じだが。

修学旅行の疲れもあり、早めに食事を済ませ、風呂に入った。いつもはそのまま髪を自然に乾かすのだが、なぜかその夜に限って、僕はいつでも出かけられるようにドライヤーでセットしてから寝た。なぜかわからない。

そして、夢を見た。誰かが向こうに行ってしまいそうになる。非常ベルのようにけたたましくどこかで電話が鳴り響いている。

兄がドアを開けて飛び込んで来た。と同時に目が覚めて起き直った。「病院から電話があった。ママが危篤だ」

兄の車に乗って病院へ。一足先に到着した父とともに集中治療室に入ると、医師から「たいへん残念ですが、あと30分もすれば心臓が止まります」と言われる。心臓図の波形は次第に弱くなっていく。

兄はいつぞやに書いたように、母の死に目を避けるべく、「親戚に報せなきゃな。ちょっと家に戻るわ」と去ってしまった。

父は号泣しながら母の耳元で「おい!千恵」と呼ばうと、意識のない母の目尻から涙が溢れ出した。

本当に30分すると心臓が止まった。予告された通りに終わりが、そして看護師がやって来、母の病院着を脱がせると清拭を始めた。

自宅の居間に安置された母は、いつの間にか微笑みをたたえていた。
言葉を交わせない彼女を前にすると、あまりの手持ち無沙汰に僕は意思の疎通をはかりたい思いに駆られ、彼女の額に自分の額をくっつけてみた。

ひんやりとしていて、すこし硬い感じ。何かが在るんだけど、無い感じ。
何が無いかははっきりわからないが、もはや無いものがここに在るという感じが悲しいくらい確からしく感じられた。

葬式が終わり、斎場で炉から出て来た母の肉が掻き消えている姿を認めたとき、「無い」ということのもたらす不穏さに心がくしゃくしゃと丸められるように感じられた。
長年のきつい投薬により、骨がほとんど原型を留めずボロボロになっていたことに衝撃を受けた。

よくいままでがんばってきたね。
そう思うと同時に、彼女の抱えてきた虚ろさを何ひとつ理解しなかった自分に気付かされた。

母という役回りを除いたときの、ひとりの女性としての姿を僕はまるで知らなかった。知ろうともしていなかった。

確かに在ると思っていたものが無くなったのだが、彼女が在ったときから、彼女が培い、刻んできたものを知らなかった。
何かはとうに失われ、そのことを僕が知ることは永遠にない。もう何が無くなったのかすらわからないのだ。

ただ、彼女の病の起因が夫婦の対の関係によってもたらされたと感じていた僕には、死によって彼女は開放されたにも見えた。

四十九日の法要の朝、父は禿頭をカミソリで丸めていた。
僕はその気合の入れ方が母の気持ちと呼応していないように感じ、演出めいて感じられた。

法要後、墓が除幕された。脇に墓碑があり、そこに「我が最愛の妻 千恵 ここに眠る」云々と刻まれていた。
その衒いのなさ、むきだしさ、イノセンスさに僕は恥ずかしくなった。その愛というものが彼女の生を重くしたかもしれないのに。

霧雨の降る中、僧侶の読経も終わり、骨壷を納める段となった。
父は跪いて壷を墓前に置くと、やにわに蓋を開け、骨片を取り出すと人目をはばかることなく、それを口中に入れ、食べた。
僧侶は酢を飲んだような顔つきをした。

さっきまでの苦笑いを僕は改めた。
「それほどまでに愛していたのだな」との思いに打たれたわけではない。
父の愛は歪んでいたかもしれない。自分の考え、思い、感情の寸法に他人を縮めていく行為が到底、愛だとはまったく思えない。

ここに来ての父の振る舞いは「病膏肓に入る」とも言えるが、彼の本気の裏に張り付いたものがたとえ愚かしさであっても、愚かしいものであるがゆえに、それを俯瞰で眺めて笑うことはできない。

シャリシャリと骨を噛み砕く音を聞きながら、そんなふうに思った。