レビュー『アンアンのセックスできれいになれた?』

雑報 星の航海術

アンアンのセックスできれいになれた?』北原みのり著(朝日新聞出版社)

文化人類学の講義を始めるにあたって、講師は話の枕としてか、先ごろ発売された「アンアン」を話題に取り上げた。その内容は覚えていないが、彼が口にした特集タイトルだけは鮮明に覚えている。

「セックスで、きれいになる」。1989年春のことだ。

当時の僕は覚えたてのセックスに埋没はしていたものの、自分の行なっていることが「きれいになる」につながるとは到底思えなかった。
きれいさよりは、快楽が問題だった。

むろん自分だけの快楽を求めるようなセックスなど論外という認識はもっていた。「相手のことを考えないセックスはマッチョさの証であり、時代遅れだ」という考えくらいは持ちあわせていた。

だが所詮は考えに過ぎない。
19歳の自分のセックスは幼いものだった。自分の思う快楽を恋人から引き出す。

つまりは己の抱く妄想を当てはめる以外の何物でもなく、恋人の身体が何を欲し、感じているかについて尋ねることもなければ、想像することもなかった。
現実にセックスをしておきながら、女性の性について、身体についてまともに考えてはいなかった。「セックスできれいになる」に対置する言葉を男は、というより僕はいまなお持っていない。

それだけにいまにして思うのは、「セックスで、きれいになる」という言葉の切実さだ。
それは観念越しではない、セックスと欲望について語ろうという意気込み以外のなにものでもなかったのだ。

本書は作家であり、女性向けのセックスグッズを販売している著者が1970年の創刊以来、「アンアン」が折に触れて言及してきたセックスの取り上げ方の変遷と時代の推移とを読み解いたものだ。

セックスを語るという革命の時節

「この国の女たちは、セックスに何を求めているのだろう」。
著者が冒頭、そう述べつつ紐解く「アンアン」の船出はひどく華やかだ。
フランスの女性誌「ELLE」の日本版として発行された背景もあり、巻頭を駐日フランス大使の祝辞が飾り、執筆陣は澁澤龍彦に三島由紀夫、また数々のクリエイターたちが結集して制作していた。

「それまでのファッション誌といえば、洋裁を専門的に勉強した人たちによる型紙付きの実用的なものが中心だった」中で異色の雑誌だった。

カウンタカルチャーがまだ熱気を帯びていた時代、「アンアン」もまたドラッグ、反体制、ウーマンリブといった現象を好奇心の赴くまま、自由への希求を示すものとして取り上げた。

とりわけセックスに関して積極的だった。クリエイターのカップルから読者、妊婦、さらには未婚の母を選択したことでバッシングを受けていた加賀まりこのヌードが誌面を飾った。「返本率は40%ちかく」だったというから、この斬新さに読者はついてこれなかったろう。
しかし「それでもアンアンは惑うことなく、力強い女のヌード、男のヌードを見せ続けていた。それはまるで革命の旗を振り続けるかのように」。

何を目指す革命であったか。ウーマンリブ誕生の経緯が革命の気運を代弁しているだろう。学生運動の時節、共に戦う仲間であった女性に期待されたのは、男の後方支援であった。

「男のためにおにぎりを握ることが『私たちの戦い』だった女たちが、難しい『革命用語』ではなく、自らの言葉で『私』を主語に語り、『女』であることを見つめ、声をあげはじめていた」。

「『女』であることを見つめ」たとき、浮かび上がってきたのは、企業に勤めたところで、「女性は25歳定年が当たり前の社会」であり、結婚以外にサバイバルの手段がほとんどなかった実情だ。

セックスの違いによって社会に進出する術は制限され、男とのつがいによって命脈を保たれる自分を見つめるとき、「私たち自由な存在なんだ」の叫びは、セックスを自らに取り返す行動として現れる。

セックスは誰かに決められるものでもなく、また自分自身でもはっきりと確定できないような、もっと奥行きがあるものではないか? だからこそ「アンアン」は<今年はレズビアンを体験してみることに決めました><結婚とSEXは関係ないでしょ>といった挑発的なテーマに取り組んだ。

主語のないセックスから「私」のセックスへ

80年代に入ると「アンアン」は欲望についてより積極的に語り出し、「これまでになくはっきりと『SEXしたい』と言いはじめる」。
日活ロマンポルノでデビューした美保純をはじめ、セックス業界で働く女性たちの声をすくい上げた。著者曰く「自分の延長線上にいる女として知ろう」としてのことだ。

なぜセックス業界で働くことが他人事ではなかったか。
1986年、男女雇用機会均等法は施行されたが、実態は均等とは言い難かった。後年、渋谷のアパートで殺害された「東電OL」が入社後、湯のみを洗うことを業務としてこなし、男性社員に比べて昇級に明らかな差があったように、能力を評価されることなく、お茶くみか結婚かという選択は、均等法施行以後も命脈を保っていた。

男性の期待する性を軸にした生き方を強いられる。この自覚は当然、セックス業界への共感へと向かうだろう。

抑圧されることなく生きたい。自分の身体を、セックスを主体的に生きたい。その思いが結実するのが89年「セックスで、きれいになる」というわけだ。

著者はこう指摘する。「『セックス』が新しかったのではない。『きれいになる』が、とんでもなく新しかったのだ」。

すでにセックスの情報は数多くあった。しかし、「誰のためでもなく、自分のために」語る媒体だけはなかった。
大学在籍時にAV女優となった黒木香は「セックスで、きれいになれるの?」という編集部の問いにこう答える。

「運もマラも自らの手でつかむといった野心にも似た闘争心」が必要だと。

つまり、「きれいになる」とは、あなた好みの容姿を目指すのでもなく、自分の身体を慈しみ、全的に認めることそのものと言えた。

90年代に入っても「アンアン」の勢いは続いた。<頭がよかったり、ファッションセンスのがいいのは自慢できるのに、SEXが上手なのを堂々と誇りに思えないのはなぜなんだろう>と問いかけ「女から誘う」ことの当たり前さ、快楽を味わうことの喜びを謳う。

愛という経路を辿る欲望だけが正しい?

だが、転換は97年に訪れた。突如、「アンアン」は<愛あるセックス>こそ最高なのだと言い始める。
アジア通貨危機、山一證券の倒産、東電OL事件が陸続と起きた。とりわけエリート社員の「転落」は、時代の荒廃を物語る格好のエピソードとして扱われ、被害者である彼女は死後もなお貶められた。

性を謳歌することの危険を察知したのか、「アンアン」は「愛のないセックスは自分を惨めにするだけ」と断言し、曰く<愛される体質になる><恋の奴隷になりたい><「男に愛される体」のつくり方>などと言い募るようになる。

愛という経路を辿る欲望だけが正しい。
そして、2000年に入ると「今年こそ、“恋愛の勝ち組”を目指すぞ!」と、他人の欲望を生きることの効用が熱心に繰り返されるようになる。

援助交際や家庭崩壊、年間3万人を超える自殺者、リストカットといった話題がメディアを賑わせる中、セックスの位置づけもまた変化していった。
「セックスは簡単にできるが、でも、セックスで幸せになれるわけじゃない。出会い系で女子高生たちが社会問題化していくなか、『セックス』は気持ちよい自由なものではなくなっていった」。

幸せになりたいのであれば愛されなければならない。愛のないセックスでは満たされない。愛を失わないためのセックスが必要だ。そのため「アンアン」は具体的にこのように指南し始める。

「射精後のペニスを『お口でキレイにしてあげ』ましょう」。

さらにはエッセイストにこう言わせもする。
「“女であること”を実感でき必要とされる最後の砦がセックス。そこで存在確認をしてみたされないと、女としての自分が揺らいで不安になってしまう」。

セックスはいつしか不安定な自己の承認を得るための手段であり、伸びやかに欲望を発露することは、痛々しさと捉えられるようになっていた。

セックスを自分のものにする自由

愛のないセックスは自己を損なう。セックスでは心は満たされない。そのような考えの一端を象徴するのが飯島愛かもしれない。

07年夏、著者のもとを飯島愛が訪れた。「本格的な女性向けアダルトグッズショップをやっていきたい」という考えを彼女は披露したという。しかし、それは実現されることはなく、彼女は逝った。

著者曰く彼女がつくったバイブは色がなく、「すべて黒と灰色と白だった」という。色合いのなさに飯島愛のセックス観が表れているように見える。
比べて飯島愛が「これ、すごいカワイイ!」と反応したものがあった。
それは「I LOVE YOU」と記されたポストカードだった。

セックスが痛みしかもたらさない。そんなふうに傷ついている世代がいる。それに呼応すれば、「男に愛されなければ無価値である」というメッセージの強化につながるかもしれない。

「女の人は、もっと自由でいられればいいのに、と思います。自分のためにセックスしてほしいと思います」と著者は言いつつ、このような言明がもはや「古典」であって、若い世代に響かない言葉になっているかもしれないと漏らす。

たしかに自由でいるためにはタフさが必要で、「自由でいられればいい」と口にすることは、この先の時代において孤絶感を募らせることになるかもしれない。

けれども著者はいう。
「『私だけの孤独』も、言葉にすれば、共感しあえることが増えていく。(略)『私のセックスはね』と、語ることが、セックスを自分のものにすることなのだと思う」

「セックスを自分のものにする」とは、孤独であっても私の孤独さを他人の考えに容易に委ねないことだろう。孤独さを「愛されないと無価値である」といった審級の言葉に占有させないことだろう。

創刊時から考えれば、「アンアン」の現状は迷走しているように見える。
しかしながら「愛のないセックスをしようが、後悔をすることがあっても、私のマンコを愛する力を女が失わない限り、言葉は消えない」かもしれない。

展望は相変わらず見えない時代の中では、誰もが手探りで語るほかない。
「アンアン」の発するセックスについてのメッセージは、今後も読み手の様々な感慨を喚起するだろう。それが希望になるかどうかはわからない。

だが、「この国の女たちは、セックスに何を求めているのだろう」を示す座標であり続ける限り、ひとつの灯明であるかもしれない。