名前の理由-その1

自叙帖 100%コークス

小中高の同窓会に招かれたこともないし、招かれたところで「誰だっけ?」と言われるのがオチの、級友にとってきわめて印象薄い僕だが、もしも「おー、ひさしぶり」などと話がはずむことが万一あるとしたら、その人はきっと「ナカムラ」と呼びかけるだろう。

そう、僕は大学に入るまでナカムラ・タケヒロ(中村雄大)という名で暮らしていた。
(ちなみに父も母も“タケヒロ”と呼んでいた)。

「中村」というのは、いわゆる通名というやつで、金田や張本ならまだしも、こんなあたりさわりのない名前だと韓国人だと知られようもない。
創氏改名にあたっての役所の担当者が中村さんだったからそうなったという噂を聞いたことがあるが、まあ事実かどうかわからない。

名前を中村から尹にしたのは、大学に入学してからのことなのだが、それについて話す前にひとくさり。

僕が大学に入学したのは1989年4月のことで、専攻は哲学科だった。東洋哲学を学びたいと思ったのだ。
バブル経済に世の中が浮かれまくっていた頃、巷ではネクラ(根暗)やネアカ(根明)という言葉が流行っていた。
そんな時節においては哲学なんぞ学ぼうなどネクラの最たるものだった。

おまけに高校の教師には「就職先なんてないぞ」と言われたけれど、グローバリゼーションを迎えたいまと違い、どだい在日コリアンが日本の企業において就職するのは、よほどの高学歴でもない限り難しく、哲学を学ぼうが学ぶまいが関係なかった。

ネクラな上に将来も暗い。
それでもなお哲学を選んだのはなぜかというと、バブル経済が本格的に始まる前の86年あたりから突入した第一次思春期のせいだった。

万年思春期という話もあるが、第一次においては、盗んだバイクで走りだすことも、校舎の窓を壊すこともなかったものの、自分の生まれ育った環境というものにどうも馴染めないというか、サイズの合わない服を着ているような感覚が拭い難いまでに増してきた。

己の実力で獲得したわけではない経済力によって、よい暮らしをしていることに幼少より身の丈の合わなさを感じていたものの、その一方で富を十分利用した生活を堪能し、驕る気持ちも厳然としてあり、そのさもしい性根のシナジー効果に内心辟易としていた。

そこに居直って、「一期は夢よ ただ狂へ」コースでもよかったんだろうけれど、『史記』や『平家物語』を読んだ身に明らかだったのは、栄耀栄華というもののあまりの短さで、狂の一字に酔うには、頭でっかちでありすぎて、開き直りもそこからの逸脱もできなかった。

この身の不全感を精神によって克服すべく、ひところ仏教関係の書に入れ込んだ。
中でも禅に興味をそそられ、「将来は禅の坊主にでもなるか」と思い始め、いろいろと本を読んだり、良い師はいないものかと探してみたのだが、グルと呼べる人はどうにも見つからない。

そうこうするうちに王陽明の「伝習録」を読む機会を得て、なおかつ陽明学の左派がどうも禅に近いと知り、しょうがないから大学にでも行って勉強するかとなった。

関西で哲学を学ぼうと思うなら、結局のところ京大へ行くしかないのだが、そんな頭も持ち合わせていなかったので、キャンパスの綺麗さだけが売りの、関西学院という大学に入ることにした。

大学に入学してまもなく、大学の事務に呼び出された。
なんでも在日コリアン系のふたつのサークルが「君に連絡を求めている」というのだ。

ふたつのサークルとは、韓国文化研究会と朝鮮文化研究会で、それぞれ母体が韓学同(在日韓国学生同盟)、留学同(在日本朝鮮留学生同盟)という。

最近、日本にやって来たニューカマーと違い、いわゆるオールドカマーである在日コリアンで本名を名乗る人は少ない。
韓国に関するものが「韓流」などという文言でコマーシャリズムに乗って、日本の市場で競争力をもつなど想定できなかった時代のことだ。この土地で生きるには、出自を隠すことがサイバルの上でのひとつの智恵であった。

必然的に民族名を名乗る学生もまた少ない。
コリアンとしての自覚を得られないまま過ごすことの多い学生に、アイデンティティについて肯定的に捉える機会を提供したい。そういう考えをサークルはもっていた。

その姿勢とプライバシー保護を謳う大学当局との話し合いの結果、大学が学生にまず意思を確認した上でコンタクトを取るという段取りがとられていたというわけだ。

それまで僕は在日コリアンのコミュニティとまったく無縁で暮らしていたので、そういう接触に新鮮さを感じた。

韓国文化研究会と朝鮮文化研究会、それぞれのサークルの先輩たちとのファーストコンタクトは、昼ごはんを食べる中で行われたのだが、僕が興味をもったのは、後者のほうだった。

日本人の多くに馴染みのない組織だろうけれど、僕にとっても最初はそうだった。
朝鮮文化研究会というのは留学同(在日本朝鮮留学生同盟)と関係した組織だと先述したが、留学同とは、いまの日本では徹頭徹尾ネガティブな印象しかない朝鮮総連の下部団体で、組織的に言えば、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を支持する立場にあった。

日本人拉致事件の発覚を機に、決定的に評価の低落した北朝鮮だが、89年当時の僕の印象はといえば、かつての大韓航空機爆破事件やラングーンでのテロなどがあったこととから、よいイメージを持ちようがなかったし、過去において総連で活動家をしていた父の話を聞くにつけ、「民主主義人民共和国」を名乗ることは噴飯ものだという考えを持っており、その点についてはいまも変わらない。

だけど朝鮮文化研究会に集う人たちは、一党独裁どころか天皇制のパロディにも見える親子独裁のグロテスクなありようと、その権力維持に奉仕するイデオロギーについて、はっきりと反対の意を示していたし、それについて自由に論議していた。
あとで知ったのだが、そうした姿勢は「行き過ぎた自由」として、上部組織や他大学の人たちには快く思われていなかったようだ。

比べて、韓国文化研究会の人たちは、韓国支持の立場と思いきや、かすかに残っていた社会主義に対する憧憬からか、意外にも北朝鮮の体制に理解を示していた。

それは当時の韓国が軍人のクーデタによって樹立された政権であったという背景もあるのだが、イデオロギーに対する距離の取り方からすれば、北朝鮮を支持する団体の下部組織に連なる朝鮮文化研究会のほうがニュートラルに努めようとしていた。
これは組織の図表を見ただけではわからないことだった。

何より僕が朝鮮文化研究会のメンバーに好感をもったのは、「あそこの店の何がうまい」とか「どういうタイプが好みなのだ」とか、「藤波と長州についてどう思う」だの、かなりどうでもいい話の積み重ねの中で、互いのことを知っていくプロセスが重んじられたことだ。

主義主張ではなく、人と人との交わりの中で生まれる何を大事にしようという気風が部室にあった。

コミュニケーションに主義や制度の言葉は必要ない。自らをそれらの言葉に委ねない。
そうした大事さを知らせてくれたのが、朝鮮文化研究会という場だった。