日帰りツアーで刮目したこと

雑報 星の航海術

先日、旅行会社の企画した日帰りツアーに行ってきました。

なんでも「りんごと梨もぎ取り食べ放題&約2kg入る箱に詰めて土産に持ち帰れる」上に「キャベツ・サツマイモ・人参・ナスなど高原野菜を詰め放題」。
さらに地元の肉屋の直営店で牛・豚・さくら肉のしゃぶしゃぶ食べ放題だという。しめて約8000円。

こういうツアーに参加したことがないので、行楽のシーズンだし、ものは試しでポチッと予約ボタンを押したわけです。
 行きのバスはノリノリでした。3時間あまりバスに揺られてりんご園に到着。
バスから降りるや、わーいわーいってなもんで、りんご園に乗り込み、ひとつふたつともぎ始める。その時点の僕は、りんご園で採った果実を詰めて持って帰れるとてっきり思っていた。

だから、40人あまりの団体客の背後で農園主が「ひとつずつ採ってください。食べ切れないから」と制するようなことを言うのをさほど疑問に思うことなく、聞き流していたわけです。

みっつくらい採り、ふたつほど食べた時点で、農園主から梨も出されたので、それも食べてみようと、手元に残ったりんごをリュックに入れようとしたとき、農園主が近づき、「ダメダメダメ。そういうことされたんじゃダメだ」という。

はて?と思い、「これ、詰めて持って帰っていいんですよね?」というと、彼はそれに答えず、りんごを僕から取り上げた。

どうやら詰め放題は、ここではなく別の場所で行うらしい。
つまり、採ったりんごはここで食べ切るというシステムだということを、僕は理解していなかったのだ。

そこで農園主に「じゃあ、それもここで食べますよ」と言ったら、彼は「いや、そういうことするならもういい」と手を振って拒絶した。

それからの僕はさきほどまでのウキウキもどこへやらで、ズーンと落ち込んでしまった。

その後、駐車場前のひなびたマーケットでどうがんばってもりんごが4、5個しか入らない箱を渡された。あらかじめ揃えられた虫食いのあるりんごや梨を「詰め放題」できるという趣向なのだった。

なるほど。団体客を迎えた農園主が当初から腕組みをしつつ、なんとなく監視するような顔つきで、まったくウェルカムな感じではなかった様子に合点が行った。あそこのりんごは価値が高いので、あまり食べて欲しくないものだったのだな。

歓迎されてはいない存在としてハナから見られている内容がツアーの道行きだということに、「なんかもう帰りたい。布団にくるまりたい」と思うくらい気分が落ちた。

昼食はパーキングエリアに隣接した食堂に、さまざまな団体客が詰め放題にされる中、食べ放題のうたい文句の肉を鍋に入れるや、たちまちにして大量のアクが出放題の肉の鮮度具合に、板尾創路よろしく「ナンセンスなんじゃい!」と言い、テーブルをひっくり返したくなったが、そうするのも大人気ない。

早々に食事を切り上げ、駐車場前に設えられた屋台の珈琲ショップで珈琲とアイスパフェを注文した。

心中、渦巻くのは「何なのだろう、このやり口」だった。

昔、伊豆や熱海に家族で旅行に出かけた際の、ホテルや観光施設の食事や対応に感じた「適当にあてがっておけばいい」というサービスにそっくりだった。

前世紀では、そういう観光地のホテルでは食事中にハワイアンショーが行われたり、やたらでかい浴場に魚の泳ぐ水槽なんかが据え付けられていて、まったく意味不明なことが多かった。
どこかに出かけてお金を使うこと自体がイベントとして成り立っていた時代ならではの「ぞんざいさ」を物語る風物詩として過去のものだと思っていたら、南信州にありましたよ。

各地の観光地の寂れには、こういった商法をしていた店が淘汰されたことも含むだろう。
そういう意味では、この日帰りツアーの因業さは、昭和の頃とまったく変わらない商法をそのまま流用することで、旅行会社のビジネスモデルのひとつとして仕立てていることであり、そのことに気持ちが沈んだ。

「どうせ詰め放題とか下品な文句に釣られてんだろ?文句言うなや」と言外の蔑みを、客と旅行代理店、農園だのレストランだのとのあいだに挟んで企画が成り立っているんだと知れた。(だから、野菜詰め放題スポットにいたっては、あらかじめビニールにでかいキャベツが入れられていて、「決してそれを出さないように」人参や玉葱を詰めろと言われても驚かなくなっていた)

陰鬱な気持ちになる中、珈琲を啜ると「あれ?」と思うくらい美味い。パフェに入っているりんごジャムは手製らしく、底に敷かれたコーンフレークもシスコーンやケロッグではなく、歯ごたえがあって美味い。
誰目線かわからないけれど、「ちょっと君、東京で店をやってみない?」って言いたくなるくらいレベルが高かった。珈琲とパフェに気持ちを救われた。

さて、ツアーはといえば、謳い文句と落差ある内容をなるべく考えさせないようにするためか、やれパワースポットのある寺だなんだと連れまわした締めとして中途1時間ばかり立ち寄った温泉で湯を浴びることになった。何を供応したいのかわからない施設だなと思ったら、案の定、第三セクターだった。

帰りの車中、僕は自分の落ち込んだ理由は、コミュニケーションが誰ともまるで行われていないことにあると気づいた。
最初の農園主は、最初から僕らを招かれざる客と思っていた。

僕のように誤解してりんごを採る人の多さにうんざりしてそうなったのかもしれない。
「フルーツ狩り・詰め放題」のコピーを額面通り受けったことによる行動だったが、僕はそれを旅行会社の説明不足に求めない。

ただ、コミュニケーションはそのつど訂正すれば、新たな局面が切り開かれていくはずだが、そこを彼は「いや、そういうことするならいい」と会話を断ち切った。

ツアーの何もかもがディスコミュニケーションに貫かれていた。それがパッケージツアーというものであって、その枠の外に出ることはあらかじめ個々の客には期待されていないのかもしれない。

でも、僕はあのときコミュニケーションを諦めるべきではなかった。
「いや、そういうことするならいい」の農園主の後に「なぜです?僕は誤解していたかもしれませんが、ツアーではこの農園ではいくら食べてもいいとされています。それをなぜあなたは阻止するのですか?」と。

「客としての当然の権利」とか、そんな大上段の物言いではない。齟齬があったら訂正すればいい。そのために言葉があるんじゃないか。当たり前のことを試みるべきだった。
だってあんなにダサい環境の中で美味しい珈琲やパフェをつくる人がいて、彼らだって諦めてないんだ。

コミュニケーションを諦めちゃダメだ。
そのことに気付かされたお代が8000円だとしたら、それはそれで安いものかもしれないなと思った。
でも、「行ったほうがいいよ」と決して勧めないけど。