名前の理由-その3

自叙帖 100%コークス

大学生になって、僕は初めて女性と付き合った。これまで交際した中で唯一の在日コリアンだ。
兄にずっと言われていた「どうせおまえみたいなブサイクな男は見合いでもせな、女の子と付き合われへんやろな」という呪いの言葉を払拭することができたわけで、これは人生を画する一大事件だった。ラオウよろしく天に拳を突きあげたいくらい。

彼女はコリアンの密集地である生野区の猪飼野と称される地に住んでいた。最寄りは鶴橋駅だった。
初めて街に足を踏み入れたとき、カルチャーショックを受けた。

アホ丸出しのことを言うが、僕は街というのは自分の住んでいるようなそれが標準的、つまりは日本全国津々浦々に見られる光景なんだろうと、なぜか疑うこともなく思っていた。
たとえばメインストリートはアスファルトではなく敷石であるとか。後年、東京に来て代官山に来たとき、まるで違和感がなかった。つまり、それだけ世間知らずだったのだ。

いまでは生野界隈はコリアンタウンなどと言われ、テレビや雑誌で取り上げられる際は、済ました顔をしているし、ここに店を構えたお好み焼きの風月なども、おしゃれな風味で全国に店舗展開している。

だがしかし、駅頭に立った僕の鼻を襲ったのはニンニク臭であり、それはコリアンタウンといった横文字の催す語感から甚だ遠い、隠し立てしようもないくらいに剥き出された朝鮮人街であった。

1980年代末葉、デオドラントグッズも商品化され始め、生活の中から立ち上がる匂いが臭みとして忌避されるようになった時節に同調して生きてきた僕にとっても、猪飼野の街の佇まいは異様に感じられた。

路地を行くと旋盤の立てる音と熱を帯びた鉄の発する臭い、工場の排水と生活臭とが煮詰まったような匂いを放つ川に張り付くのは、トタン屋根の長屋だった。

そのときの僕の街の印象を正直に言えば、「ゲットーじゃん!」であった。(住民のみなさんごめんなさい)

彼女は細民街の外れに住むお大尽の娘だった。
彼女は街の子たちとは街の言葉を話し、それにふさわしいくだけた態度をしたが、僕と話すときとは色合いが異なった。僕はそれをおもしろいと感じた。

街の言葉は大阪弁というベースに何かスラングめいた、符牒めいた言葉をまぎれさせているような、そんな膨らみを感じた。
それは日本人がタンベ(煙草)、パチキ(頭突き)といった朝鮮語を知らず取り込んでしまったような、そんな言葉の操られ方にも似ていた。

彼女の家の表札は日本名で、彼女自身も家庭の中では日本名で呼ばれていた。
しかし、街の子たちは、彼女を韓国名で呼んだ。(そう、仮に彼女の名を美樹とすれば、家ではミキ、街ではミスといったふうに)

僕らは互いに韓国名で呼び合った。さりげなく、ぎこちなく。

僕の性分なんだろうが、恋人に限らず、例外をのぞき、友人についても名を呼び捨てにできない。
とりわけ恋人には決まって「◯◯さん」という。そのままの名を呼ぶことに座りを悪く感じてしまうためだが、彼女に限ってなぜ名を呼ぶことができたのか。ぎこちなさを消すための距離の取り方だったのだろうと思う。

地域の公立小学校では土曜日の放課後、在日コリアン児童を中心に「民族学級」が設けられていた。言葉や歌舞音曲を通じ、コリアンとしての自覚を促そうというもので、彼女はそこでボランティア講師をしていた。

民族的な自覚なぞ、とんと持ち合わせない僕だったが、彼女に誘われて講師をすることになった。といっても、子どもたちの遊び相手をするだけのものだったが。

民族学級には、日本人の児童も参加していた。彼らは普通の学校生活では、あまり勉強ができないという評価をされていたのだが、なぜか韓国語を覚えるのに熱心だったり、農楽の練習にも積極的だった。
何かというとまとわりついてくるのだが、そうして触れ合って遊んでいるうち、ふと「家に帰っても誰もいない」と問わず語りのものいいに出くわし、民族学級という場がいろんな子どもたちの受け皿になっているのだなと思ったものだ。

土曜日の放課後、その教室にいるあいだは、普段の学校生活で日本名を名乗っている子も韓国名を名乗ることになっている。そういうきまりがあった。

あるとき、子どもらがふざけあい、「やめろよ、平山」「呉本のほうが悪いんやろ」といった具合に、つい普段の交友関係そのままにしゃべり出した。
ベテランの講師は「情けない」といった面持ちをしつつ叱った。「ここの場と時間はそういうためにあるんではない」と。

その日のミーティングで、僕はベテラン講師にそれについての違和感を伝えた。

子どもたちのリアリティは金でも呉でもなく、平山なり呉本なりに宿っている。なぜそれを頭ごなしに否定するのかと。
そういう否定の仕方が正当ならば、彼らが平山なり呉本として肌や耳や目で感じ、総身で培っている感性は本来のものではなく、是正の対象でしかないのか。

「せめて民族学級の時間は、日本名ではなく、本来の名を名乗らせてあげたい」と、その講師は言った。

詰問するつもりもなかったので、彼の弁を聞いて、僕はそれ以上言わなかったのだが、「名乗らせてあげたい」という思いは、どれほど子どもらの機微、心の襞に寄り添っているのか。

自覚は導かれるものであって強いることはできない。ましてそれに正解があるわけでもない。

子どもたちは年に一度、小学校内で歌や踊りのお披露目をする。
普段の付き合いとは異なる姿を同級生の前であきらかにすることに、彼ら彼女らは高揚とそして、かすかな怖れを抱いているようだった。
その振幅の中で、擦過傷をいたるところで負っていくだろう。

人は痛めつけられ過ぎると、本当にダメになってしまう。仕立てられた自尊心のために取り返しのつかない傷を負うのは愚の骨頂だ。

「膝を屈して生きるくらいなら立って死ね」と酔いに任せて放言した先輩がいた。その人は卒業後、就職活動にあたって日本名で通した。
後年、僕は本当に就職差別というものがあるのかどうか試してみないとわからないと思い、本名でエントリーした。

彼が膝を屈したとは思わない。僕が志操堅固であったわけでもない。

本来の名を名乗らないとは、誇りがないからとは限らない。
引かずとどまらず生きていく上で、仮初の名を掲げることもまた生きる智恵にほかならない。