フィッシュマンズをくちずさむ

雑報 星の航海術

夏を思わせる陽光の射す日にフィッシュマンズのTシャツを取り出した。
しわくちゃになった少し草臥れた生地にI’M FISHのロゴ。

このところフィッシュマンズの「LONG SEASON」ばかり聴いている。
最後のツアー“男達の別れ”に行った人はかつてこう話した。
「あのライブは本当に凄まじくて、LONG SEASONを演奏しているとき失神している人がいたよ」

音楽を聴いて失神するなんて大袈裟ではないかと思う人もいるかもしれない。
でも、本当にあるんだよ。

数年前、world’s end girlfriendの ライブに行ったとき、腿にぴったりと張りついたスキニーのデニムが震えるくらいの凄まじい爆音が奏でられていたのだけれど、高みに昇ろうとするツインドラムにもっていかれ、気がついたら膝が落ちた。どうやら眠ってしまったらしい。周りでふたりほどが昏倒し、屋外に運び出されていた。

そのとき僕は「“男達の別れ”で起きたのは、こういう現象なんだろうな」とぼんやりと思った。

フィッシュマンズを聴くというのは、音そのものを体験するということだ。

ミュージシャンにとってもフィッシュマンズは鬼門というか、影響を受けてしまわないよう敢えて一時期聴かなかった人もいるようだが、その気持ちもわかる。90年代後半の音楽シーンで彼らは圧倒的過ぎた。

そして、佐藤伸治はあまりに遠くへ行き過ぎて、還ってこれなくなってしまった。

くちずさむ歌はなんだい? 思い出すことはなんだい?

そう歌う佐藤伸治の声に、何か大切な情景や思い出に呼びかけられている気がする。
けれども、そこで思い出すのは一度も行ったことのない景色であり、一度も過去にあったことではない、過去であるかのようなもの。

彼方から「かのようなもの」に呼びかけられている心地がする。
人が言葉に実感を覚えるのは、その言葉を自分で唱えるからだ。
たとえ“それ”が自分を否定する言葉であっても人はその言葉を暗唱する。

“それ”を唱えることを欲望する。人は、つまり身体は絶えず実感を求めている。

くちずさむ歌はなんだい? 思い出すことはなんだい?

君の暗唱しているもの、君が望んでいるもの、君の実感はなんだい?
言葉に実感を覚えるとは、唱えた言葉に、過去に縛られることでもある。

それだけ人にとってのリアリティは現実の出来事と関係ない。
記憶とはその人だけの身体的実感の別称だ。

夕暮れ時をふたりで走ってゆく 風を呼んで 君を呼んで
東京の街のスミからスミまで 僕ら半分 夢の中

僕が呼び、呼びかけられるものはなにか。そして口ずさむ歌はなにか。
それが本当はなんなのかわからない。