雀鬼との再会

雑報 星の航海術

雀鬼こと桜井章一さんを知ったのは、いまから10年ほど前だ。
政治家や企業の社長に代わって大金の掛かった勝負を行う代打ち、ようは裏の麻雀だが、その世界で20年間無敗だった人だ。

ひょんなことから縁がつながり、『「育てない」から上手くいく』という本のお手伝いをした。
はじめて取材したとき、インタビュー中に発熱し、膝が震え出した。帰りの電車に乗る頃には、高熱が出た。でも不快ではなかった。
熱源は桜井さんだったと思う。それくらい圧倒的に密度の濃い人だった。

桜井さんはたくさんの本を出しているが、本作はあまり言及してこなかった子育てに関するもので、取材の中で僕はいったい成長や成熟するとはどういうことなのか?を考えさせられた。

成長することは、何かが「できるようになる」ことだ、と思われている。

赤ん坊が笑えば、親も周囲も喜ぶ。這えば「よくできたね」と褒め、立てば「すごいね」と褒める。
初めのうちは、生まれたての生命が存在していることに喜びを感じ、彼や彼女が「何かができる」よりも、ただ生きている表現をその子なりにすることに、思わず祝福したくなって「よくできたね」と褒めるのだと思う。

それは赤ん坊を評価するというのではなく、「まっさらの生命がここにこうしてある。生きていてくれてありがたいな」という感覚がどうしようもなく身の内から溢れてしまったから出てくる表現なんじゃないかと思う。
子どももいない僕が言うのもなんだが。ただ、23歳違いの弟が生まれたときや知り合いの赤ん坊に接してそう感じた。

けれども、いつしか存在しているよりも、「できること」を彼や彼女に求め始める。
「はやく靴を履きなさい!」「こんなこともできないの?」「なんど言ったらわかるの?」と、「できないこと」を日々数え上げられる。できないことは、「いけないこと」だと身体に刻みつけられる。社会の中で要請されることをできないことが、あたかも人間性の問題かのように扱われ、その考えがいつしかしっかりと根を這っていく。

桜井さんいわく、そうしたメッセージが子どもに不安を、そして恐怖を与えるのだという。

「できることばかり注目されているけれど、本当にそれが良いことなのかい?できることを評価されて、それで世の中でトップの位置についたとして、現にそういう人たちを見なよ。無責任で人を人とも思わない奴らばかりじゃないか。そういうことができるってんなら、俺は“できない”ってことを大事にしたい」。そういうことを話された。

とても個人的な経験で、どれほど妥当するかわからない。ただこれまで数多くの人にインタビューしてきた中で、いわゆる「できる人」、社会的ポジションの高い人に会ってきた。

そういう層には、たしかに切れ者はいるけれど、存在自体で魅力を放っている人はあまりいない。
思考のエッジの利き方に関心はする。だが、だからこそ、その直線的で奥行きのなさに訝しい思いをする。その人の目に映じていない事柄の多さに驚くからだ。

さらに特徴を言えば、特に政治家に多いが、首や腰の回旋がままならない人。骨盤が硬くなっているせいか、座ると足が開いてしまう人。生き物のしなやかさが感じられない人が多かった。

できることの怖さは、できないことを恐怖し、その恐怖がよりできない他者を罰するほうに向かうことだ。
自分の怯えに向きあうことをごまかすとき、他人は恐怖の対象になる。守りの姿勢が常態となれば、当然のように身体も硬くなる。

昨夜久方ぶりに桜井さんにお会いした。
「ライターをつけることができないんだ。これ点けてみなよ」。そう言って、ライターを手渡された。

子どもの誤用を防ぐため、最近のライターは着火ボタンが非常に硬くなっている。点けようとすれば、かなり親指に力を入れないといけない。不自然なまでに。

桜井さんはそのライターが点けられない。親指に不自然な力を入れることがどうしてもできないからだ。

牌をもつ際に「手でもってはいけない。もったら次の動きができない。変化を殺す」という感性からすれば、ライターを点けるには、ごまかして、部分の力に頼って「できるようになる」努力が必要になる。

だからといって、点けられないことが正解ではない。
どこまで自分をごまかさず、自分に努めることができるか。またしても、そう問われたと感じた一夜だった。