先日、「海は海自身を感覚することができない。海は自分を知るために魚を生み出した。いわば魚は海の感覚器官」説と「魚は自分のヒレを動かしているというよりも、水を動かして泳いだり、方向転換をしている。つまり外の空間をグワーンと動かしている」という話を聞いて、なんだか興奮してしまった。
自分じゃなくて、空間を動かしているから動けるってすごくないですか?
魚は目が両脇にあるから、自分の視野に自分が映り込まないだろう。だから「自分の身体」という意識が人間に比べてかなり希薄なんじゃないか。
いや、「自分の」という意識などないだろう。
というより、そもそも人間が思うような意識をもちあわせていないだろうから、魚が自分や世界の理解の仕方について、推論するのは見立てを超えるものにはならない。
というか、そもそも魚が自分と世界という分類で見ているとは思えない。
魚について考えた途端、結局は人間の間尺に合わせたことしか言えないので、何を言っても偽りにしかならないのだけれど、ここはひとつ魚になった気分だけでも味わうために、類推を重ねてみたい。
いつもだったら、頭ン中だけで「ああでもないこうでもない」と考えるんだけど、そろそろ身体性といった語を使うのやめたい。身体性ではなく身体。身体について考えるんじゃなく、身体で考えることが必要なんだ。
そう思ったので、魚みたいに目を両脇にすることはできないけれど、目で見ている風景と自分とが等しいと思えるような装置ってなんだろう?と考えたとき、やはり自分の身体が視界に入ってこないようなマスクをすればいいんじゃないか?と思いついたわけだ。
絵心という表現に即するなら、さしずめ僕は「ものづくり心」に欠き、子どもの頃から図画工作の評価は最低だった。
とりあえずA4のコピー用紙をくりぬき、これを顔にあてがい、その上から輪ゴムでとめるという、およそ創意も工夫もない面をつくったのだ。写真を見てもらえばわかる通り、失笑は必定だろう。
が、その完成度の低さを嘆くよりも、まずはこの程度のものであっても自らつくったということにいたく感動してしまった。
ついで、自分の身体が見えなくなったことがもたらす空間の認識の違いにアガった。
「自分が何かを見ている」というのではなく、「見ているものがすべて」で、そのすべてに自分が含まれている感じ。
腹ばいになって手を使わず、寝返りをうつ要領で転身しようとすると、「首だとか胴体を動かす」というような「自分を動かす」という意識は後退するようで、それよりも外の環境が優位になって、やっぱり外の広がり、空間をこちらに引き寄せたり、遠ざけたけたりするような感覚のほうが滑らかに動ける。
いちばんおもしろかったのは、壁に向かって歩んだときで、いつもだと「迫ってくる」という圧迫、切迫した感じがあるのだが、それが希薄なのだ。
なんというか「目の前に立ちはだかる障壁」という理解ではなく、ただの空間を構成する一要素で、物理的にそこをすり抜けたりすることはできないけれど、接近が切迫にただちに結びつかない。
目の前に壁はあるけれど、そこ以外の空間の広がり、自分の頭上、足元、横、後ろには、壁と自分とのあいだなど問題にならないくらいの自由な空間が広がっている。そのことへの信が自分に余裕を与えているように思えた。
人は遠近感と遠近を取り違えているのかもしれないな。そんなふうに思った。
「まるで魚になった気分だよ」とフィッシュマンズは歌ったけれど、そう、そんな感じだった。
ひとしきり動いて興奮をなだめるために横になったら、なんだか眠くなった。
というわけで、僕は深海魚みたいにマスクをかぶったまんま昼寝をしたのだった。