「最大多数の最大幸福」

自叙帖 100%コークス

1989年に大学生だった人たちは、あの当時をどう眺めていたのだろう。バブル経済についての評価が定まった現行だけに、なおさら思う。

あの頃、キャンパスの内も外も毎日がそりゃもう大騒ぎだった。
この年の春、「anan」は「セックスで、きれいになる」特集を始めた。地上げにリゾート開発、そんでもってボジョレーヌーボー解禁、カフェバーでのソシュールがノマドして、ガタリが千のプラトーするみたいな、衒学をひけらかす語らいと肩パットの入りジャケット、ワンレングスにボディコンシャス、道路に溢れるはホンダのプレリュードと日産シルビア。

かくいう僕も兄との共用を前提にあてがわれた車に乗り、「学生は学業が本分だからバイトなどするな。金の使い方を学べ」という父に抗することなく、生活費と称する小遣いを毎月貰い、何不自由ない暮らしをしていた。

生活の心配に追いまくられるのもつらいが、ぼんやりとした日々をただ生きるというのも苦役に近いものがある。
「ボンボンが贅沢な悩みだ」と人に言われたこともある。そのときは何も言えなかったが、後年、破れかぶれ気味にこう言えるようになった。金持ちには金持ちの苦労があるんじゃ、ボケと。

「一期は夢よ ただ狂え」というほどの、人間どもの同意と月並みな世の楽しみへの徹底ぶりもなかったのは、狂騒する世とそれに伴走した己がいながら、とにかく世の中にこうして存在しているという事実を霞ませてしまう乱痴気騒ぎの、その向こうに本当のことがあるに違いないと思っていたからだ。

生きているってどういうことなのかを体感したかった。

親のスネをかじる暮らしを満喫している一方で、幼い頃からいつも胸底に横たわる「このようなことはいずれ終わるのだ」という終わりの感覚もあって、だから毎日が低温で炙られるような痛みをもたらしてもいた。

それは「このようなパンとサーカス、薔薇と酒の日々はいずれ消え去るのだ」という、儚さの感覚だけでなく、たまたまの巡り合わせで享受しているこの暮らしは、いったい何によってもたらされているのかがわからず、その不気味さに耐え難かったからだ。

いつの時代も「努力すればかなう」を強調する人がいる。
成功者は自身の経験を、まるで世界の謎を解く答えを知っているかのようにこう言う。「オレのように生きろ」と。

そのとき成功者が忘れているのは、経験の本質は当人が自ら獲得したと思っている解にはないということだ。
経験の重さは、常にその人が経験しなかったことを視野に繰り込むときに現れる。

個人が経験したうちの、意識できなかったことがその人の経験を支えているのだ。

だとしたら、努力も経験もせずにのんべんだらりと生きていられるということは、この暮らしを支える富の獲得が誰かの、何かの犠牲によってではないのか。手元にある豊かさの根拠が見えないことに不安を覚えた。

そんなとき、聴講した講義で教授はこういった。
「尼崎の空がきれいになったのは、マレーシアの空が灰色になったからです」。

大気汚染で集団訴訟も行われた工業地帯である尼崎は、僕の子どもの頃は、灰色の空として知られていたが、長ずるにしたがって少しは空は空らしくなっていった。

教授曰く、それは工場の海外移転によってもたらされたので、根本的な問題解決になっていないという。
なるほどと腑に落ちた。目の前の現実を構成しているものが背景にある。現実とそれとの関係性を見ない限り、皮膜の向こうの風景は見えないかもしれない。

自分の暮らしの背後には、苦を強いられた他人がいるかもしれない。そんなことを思うようになったときにキャンパスで目が留まったのが、大学生協だった。

学生や教職員といった組合員の出資により、学内に食堂や書店を運営する組織として多くの人に知られているだろうが、僕の生協に対するイメージは、「ひとりは万人のために、万人はひとりのために」「最大多数の最大幸福」を目指す団体だというもので、いまどきの若い衆がソーシャルビジネスに期待を寄せる気持ちに近いものがあったように思う。

なんせ「最大多数の最大幸福」です。しびれます。

児童労働、プランテーションによる環境破壊、アンフェアな取引と搾取、「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」な生活を再生産するシステム。どうやら世界には悲惨なことが溢れており、先進国がそこに寄与する役割大だと知ったとき、この国の社会を構成する一員として、ただ豊かさを安閑として享受していることは、罪なことなんじゃないかと思うようになった。

そこで僕が入部したのは「大学生協組織部アジア交流委員会」というやたら名前の長いクラブだった。
もとは学生から「大学生協の食堂で提供されている割り箸は環境破壊につながらないのか?」という意見書があったことを発端に、森林資源の乱伐について考えようと始まった組織だった。

つくられたばかりのクラブは、「実際にボルネオに行ってみようじゃないか」という若干どころか、かなり無謀な計画を何の目算もないままに立てようとしていた。そのときの僕はボルネオがどこにあるか、しかとは知らなかった。