車内の邂逅と瞑想

自叙帖 100%コークス

このところ上座部仏教の瞑想に関する文献を読んでいる。先日、その本を京王線の電車内で読んでいた。

読み進めつつ、僕はこの読書というものがひどく浅はかな行為に思えていた。
瞑想という行について書かれた本を読んで理解に努めるなど、どれだけの回り道をしているのだと感じたからだ。

行は行であり、その価値は行いの中にのみ存在する。行について書かれたことは、行の射影にほかならない。本体を見ずに影を見て何かを学ぼうという了見は、そもそもおかしい話だ。

いまでは正道とされている文字を読んでせっせと知的理解に勤しむやり口というのは、真の理解への迂回にほかならず、袋小路に迷い込むことに他ならない。そんな予感を抱きつつそれでも現代教育の申し子であるので律儀にページを繰っていた。

僕は本を読むと首筋の左から肩、左手の親指にかけて痺れが起き、ひどいときは熱をともなう。
首の位置が悪いのか。はたまた本をもつ手がおかしいのか。あれやこれやと姿勢を変えてもいっこうに痺れは去らない。だからあまり集中して本が読めない。

そもそも集中できない自分が瞑想について書かれた本を読もうとしているのだから、これはもう何重にもおかしな行為だ。

明大前駅から学生らしき人が乗り込んで来、どっかと僕の隣に座った。その際、彼の右肩が僕の左肩にガツンと当たった。人ひとりが座るには、十分に余裕があるのに、その空間の規矩を越えてまで占有しようとする思惑がダイレクトに僕の左肩に注がれたようで、実際に肉体に当たった衝撃よりも、その意図するところの不快さが全身にめぐるように感じた。

せっかく仏教について書かれた本を読んでいるのだから、心穏やかにいたい。波紋を広げる心のうちをなだめるように、何事もなかったように過ごそうとした。
「何事もなかったように」という時点で「何事かがあった」を前提にした認識であり、「何事もなかったように」を強調すればするほど、自分の中に立ち込める不穏な心持ちを無視できなくなる。それを手放したいと念じた。

その本には呼吸について触れていたことが、僕に落ち着きをもたらした。だからといって、僕は特別な呼吸法を行うことで気持ちの安楽を得たわけではない。

呼吸法について書かれた本は多い。
呼吸法と言われるものの世の理解の多くは、呼吸そのものや呼吸の仕方に着目しているが、いくつかのテキストを読んで思うのは、名だたる僧や瑜伽行者らは、むしろ息をしているときの、まさに活き活きとしている全身を味わえと述べているように思える。
息ではなく、息をしてい生きている己が生命を生きよと。

だから呼吸に注目するとは、スーハーしていることではなく、自分に注目することに他ならないんじゃないか。そう思い、僕は左肩から全身に広がろうとする嫌な感覚も含め、いまの自分の感じに着目することにした。

すると、自分の左肩はどうにも前にのめる癖があることを発見した。癖を放り出したままだと痛みが生じる。そこで左肩を自分の身体になじませるように後ろに引いてみた。胸が開き肩が落ち、痛みが消えた。

驚いた。これまで痛みが癖によってもたらされているとは知りつつ、それがどのような姿形をとっているのかわからなかった。それがほんの数分のうちにわかってしまったからだ。

無作法な隣の若い男は身動ぎをしている。席に座ることが耐えがたいように感じてならないようだ。
僕は彼のせわしない動きを左半身で感じつつ、何かの縁を見て取った。

以前、取材した僧に聞いた「聞法因縁五百生 同席対面五百生」を思い出した。五百生の解釈はいろいろあるようだが、僧は「五百回生まれ変わる」として解し、「大昔から真実を聞く機会を与えられていたけれど、その正しい法を知る縁がいま目の前の人との出会いにおいて花咲いている」と説明した。

その伝で言えば、昼下がりの電車の中で僕と隣席の男性との出会いは、生まれ変わりの五百回前に出会いにつながる種が蒔かれ、それがこうしていま芽が出て、花が咲こうとしているということになる。

ここからは僕の解釈だが、同席した中で知る「法」というのは何か。
電車の中で出会った男性はメッセンジャーで、法という何か特別の真理を告げるために現れたのではなく、両者が出会った。この事実がすでにして法なのだ。

「袖振り合うも他生の縁」というが、これは「聞法因縁五百生 同席対面五百生」と同じ内容を指しているのではないか。
袖がわずかに触れることすら、理由はわからないが、何か深いつながりがあってのことであり、しかも、そのときにしか起こらないことだ。

刹那のことがらは、人間の認識では及びようもない深い因縁があって起きている。この生きているということの不可思議さに触れることそのものが「聞法」、つまり真実を知ることにつながる。

そして「聞法因縁五百生 同席対面五百生」は、「昔の縁が五百回生まれ変わったいま実現している」というだけでは半分の理解でしかないはずだ。
「五百生」とは過去の出来事のみを意味しているのではなく、いまこうして生きていることが果てしない因縁の絡みあいのただ中にあるということの喩えであり、つまりは、いま自身がどのように在るか。生きるか。たった今からどういう種を蒔くのかによって、この先に咲く花は変わってくる。

過去のおかげでいまがある。そのような振り返りだけでなく、いま何をするかが問われているのではないか。
電車が調布駅に着き、男性は降りた。僕は彼に感謝したい気持ちになった。