タイへ行く、その1ー接触編

自叙帖 100%コークス

熱帯雨林の乱伐を知ったことで、にわかに世界経済のダイナミズムがもたらす環境破壊や強烈な貧富の差といった海の向こうの出来事がリアルなものとして感じられるようになったものの、仕込んだばかりの知識でコタキナバルやサラワクの現状を語ったところで、現場で起きていることをまるで知らないのだから、憂いや悲憤の情を述べる域を超えるものではない。

これはいまなお大いにありがちだけれど、単純にネットや書籍、人づてに知ったことを世界の姿と取り違え、「これが真実だ」ってな具合に思い込むのは、「いま目覚めることできました」というような思春期めいた報告で頗る恥ずかしい。

そこで僕ら大学生協組織部アジア交流委員会(以下、アジア交流委員会)のメンバーは、まずは現場に精通した人を訪ねることにした。
ボルネオを軸に熱帯雨林保護や育成、現状調査などを行っている大阪の老舗NGOにレクチャーがてら相談しに行ったわけだ。
「どうしたらボルネオに行けますかね」と。いまにして思えば、「よくもまあのこのこと」といった風情であったと思う。

なんせNGOにしてみれば、僕らは説教するにはうってつけのボンクラだった。「身の程知らずの無謀なプランに付き合うほど、私らは暇ではない」と認識の甘さを1時間あまりみっちり指摘された後、どよーんと落ち込んで帰宅した。

あまりにショックが過ぎたのか。僕の記憶の中では、なぜかその後の顛末をまるで覚えていない。気づいたら一年後にはボルネオからタイへ調査旅行に出かけていた。2週間あまり。

気づいたらというのもひどい話だが、当時を振り返るに
1、大学生協の職員が僕らのへこまされ具合を見て、生協の運営する旅行代理店に相談。

2、経緯は不明だが、エコツーリズムを企画している旅行代理店に相談が及び、代理店の社長がタイでエコツアーのガイドをしている日本人と知り合いであった。

3、社長としては、たとえデクノボウの学生ではあっても、現状を知りたいと思っているところに意気に感じた模様で、「それだったらまずは日本ともビジネスの関係が深いタイで起きている環境破壊などを見ることで見聞を広げたらどうか」という提案をしてくれた。

4、僕らはそれに乗った。

それにしても、確か往復の飛行機代プラスαくらいで2週間近い旅行をしたのだが、それ以外のお金は大学生協の予算から捻出されたはずで、やはりこれもバブルの余沢があってのことだろうと思う。アジア交流委員会が、というより旅行代理店が企画したのは、タイ北部のチェンマイ、チェンライを中心にした、現地のNGOと組んで農村の援農事業と少数民族の村でのエコツアーだった。

新たな開墾地で地元の子どもらと記念撮影

チェンマイの農村は稲作を中心とした、ほぼ自給自足の暮らしをしていたそうだが、80年代初頭に日本の商社の進出により、ステビアという甘味料を栽培することになり、現金収入を得るようになった。
ところが商社のステビア事業の縮小なのか、より人件費の安い場所に替えたのかわからないが、ともかく、その村との取引がなくなってしまった。
現金収入はなくなった。十分な米をつくることもできなくなった。モノカルチャー化の招いた弊害だった。そこで僕らは新たな開墾地のための手伝いを行うことになった。

結論から言えば、僕らは、というか僕は何の役にも立たなかった。
鉈を振るって雑木を切り、運ぶという単純な作業が幾日か繰り返されたが、夏のタイの暑さは尋常ではない。

ものの30分と経たぬうちに汗だくになりバテてしまい、作業をしては木陰に入り、打って休んでのカスタネットの如き作業行程は、昼下がりになると“休んで”のほうが多くなり、つまるところ現地の人がいちばんよく働いていた。

農村での滞在で思ったのは、知識よりも意欲よりも体力がないと始まらないということで、タイくんだりまで来て「筋トレが目下の課題ではないか?」という、アホ丸出しの個人的総括に至った。

象の背中は思っていたより大きかった

次に僕らが訪れたのは、チェンライのラフ族の村だった。乗合タクシーで山中の泥濘でぐちゃぐちゃの道を走り、その後、象に乗って渡河と山林の踏破を幾度か繰り返す。象使いは竹の棒で道草をしようとする象の頭をポカポカ叩く、象の毛は強くチクチクする。

象に揺られて1時間あまり、山間の鋭角に扇状に広がった村が突然視界に現れたとき、「こりゃ弥生時代だ!」と思わず口に出してしまった。弥生時代に生きたことないけど。

ラフ族は焼畑から定住耕作に移ろうとしていた

緑濃い山を背景に高床式の住居が点在し、村内に裸同然の子どもが駆けまわり、犬は吠え、豚が鳴く。赤の目立つ彩色の民族衣装を着たラフ族の村だった。
村はラオスとミャンマー国境に近い、黄金の三角地帯という麻薬の密造で世界的に有名な地域に接していた。その村でも取引があったのかマリファナが栽培されており、老爺が寝そべってアヘンを吸う姿も見られた。

村落には電気、水道、ガスはない。水は岩清水、明かりは菜種か何かわからないが、煤の出る油か月光。煮炊きは伐採した木か炭だった。
トイレの下には豚がいて、排泄したそばから食べていた。起きるのも寝るのも自然の運行に任されていた。

僕らは村内で現金を使うことなどなかった。むろん、トレッキングツアーが成り立っているということは、現金が彼らに払われているのだろうし、貨幣が彼らの村落経済の一端を形成しているのだろう。

一週間あまり過ごした中で見た限りでは、村内には住人が自身の暮らしを営む上で買うものもなく、その必要もないように見えた。村民は食料も煮炊きに必要なエネルギーも自前で賄っていた。

次第に僕も裸身、裸足をいとわなくなった。モミアゲカットは80年代風

だが、ある住まいにコカコーラが1本置いてあったことに僕は驚愕した。たまに訪れる外国人向けに売られているのか。それとも彼らが飲んでいるのか。

コーラは何に付随してここに運ばれてきたのか。焼畑を営む彼らだ。多少なりとも貨幣に触れる暮らしが始まっているとはいえ、まだまだコーラが嗜好品として必要な生活様式と隔たりは大きい。竹で編んだ床に無造作に置かれたコーラ1本が緩やかに流れているはずのこの空間を割くように感じられてならなかった。

コーラにピリッとした緊張感をつかの間覚えたものの、時刻表めいた時間の過ごし方を忘れた僕は、毎日を白昼夢を見ているかのような心持ちで過ごした。

朝は鶏の声とともに起き、昼に村をうろついていた鶏は、夕餉に供された。夜の暗さは太古の闇を思わせた。

滞在して何日目かの夜、満月を迎えた。山峡に注ぐ月の光は、凄まじいまでの明るさで僕らを照らした。

タイでは、“ピー”という精霊の存在が信じられている。村にはピーの声を聴くシャーマンがいた。
最後の夜、彼は家に僕らを招き、笛を吹き、踊った。そして、僕らにも踊るよう促すのだった。僕も踊り、火を中心にぐるぐるまわる舞に酩酊した。

翌朝、シャーマンは町に用事があるとのことで、彼の息子を伴い、僕らとともに山を数時間かけて降りた。中途、彼らは車から降りた。親子が踏みしめたのはアスファルトだった。彼らは裸足だった。

振り返って手を振ったが、彼らは微動だにしなかった。ふたりは信号機が青に変わるのをじっと待っていた。