タイへ行く、その2ー青春の蹉跌編

自叙帖 100%コークス

最初のタイ行きは90年。バブル経済の絶頂期だった。
株に土地に絵画にと、なんでもかでも投機の対象で、世の中が浮かれに浮かれまくっていた時代だ。うちもその例に漏れず、連日のように証券会社から電話がかかってきた。

タイからの帰国後、手に取った食品のラベルを見るようになった。そこに甘味料のステビアを認めるたびに、僕は商品作物をつくることによって荒れてしまった農村を思った。
自動販売機でコカコーラを見るたびに、焼畑で山を開いて移住していたはずのラフ族が森林伐採を制限する政府の施策により定住し始めたことを思った。

当時、ずいぶん焼畑が敵視される見解を目にしたが、いまでは二次林を伐採する持続可能な耕作だという見方が定着している。

そもそも小さな村落の行う焼畑より、企業の伐採する大量の木材のほうが圧倒的に問題だった。
日本は建築資材や紙に必要な木材の約80%を海外輸入に依存しており、タイの施策も、僕の目にする乱痴気騒ぎを可能にするがゆえのことなのかもしれなかった。

ラオス国境を流れるメコン

この豊かな地に安閑と暮らすことが誰かの生活を挫き、損なうことになっているかもしれない。そう思うと、自分が罪深い存在のように思えてならなくなった。なんだかわからないけれど、自分を罰したくてたまらなくなった。生きているだけで不義を為しているような心持ち。

アマゾンの蝶の羽ばたきが、シカゴに雨を降らせる。海の向こうの不幸と僕の暮らしの関係は、バタフライ効果よりも目に見えやすいかもしれない。

けれど、あちらとこちらを自責の念によってのみ結びつけてしまう手つきは、事の次第を明らかにするためというよりも、青春の蹉跌を味わう「ためにするところ」が強く、僕は自らの安穏さを罰するためだけに、ことさらタイでの見聞を利用していたようだ。

日本での享楽=タイでの悲惨と、図式的ではあっても「いまの暮らしはつながっている」という認識をもっていながら、実は態度においては、海外と日本とでの「いま」をわけて考えていた。

つまり、自責と自罰にエネルギーを注ぎ、向き合わなくてはならない課題から目を逸らし、いまの自分を装うことにかまけたのだ。
もしも自らの幸と他者の不幸が連関しあっていることを真実に知ったのなら、感傷に浸ってはいられなかったろう。

だが、センチメンタルな気分をあいだに挟んでいたということは、僕は日本でのいまと海の外のいまを切り離して考えるだけの余裕を自分に与えていたことになる。
思考のレベルでは「いまの暮らしはつながっている」と思っても、存在のあり方として自他を分離していた。いまを改めることを放棄していたのだ。

そのツケは翌91年に再びタイを訪れたときまわってきた。
二回目の旅では、ラオス、カンボジア国境のウボンラーチャターニーからミャンマー国境のカンチャナブリの東西を往来した。

ウボンラーチャターニーの村では昨年に続き、援農活動を行った。昨年の暑さにやられた経験から大きな麦わら帽子を被っての田植えだった。だが伏兵がいた。赤蟻だ。

巻きスカートのような衣装をまとっての苗を手で植えていく作業はむろん裸足で、畦に置いた苗を取りに行くと決まって赤蟻が足を這って来、噛む。これがめっぽう痛い。ホントに痛い。

場合によっては、現地の人でも熱をもち体調が悪くなるという。
田んぼのあちこちから「イテテ」がこだまし、日本からやって来た学生連は、蟻への対応でまともに作業ができない。

捲土重来を期すべく臨んだはずだったが、蓋を開ければ昨年に続き、やはりもっとも働いたのは現地の住民で、しかも僕らが植えた稲は列もガタガタで密集したり疎らだったりと、惨憺たるものだった。

地元の小学校を訪問

村の人たちと話す機会があった。「トラクターを買いたいし、もっと豊かな暮らしがしたいよ」。
小学校の教師もそうした豊かさを体現している日本を手本にあげ、子どもたちに勉強に励むように促していた。

僕はひどく混乱した。
いまとなっては、それは先進国の豊かさの引き起こす問題を見出し、予見通りの発見に「それみたことか」と自分を罰する気持ちを逞しくするための来訪だったからだと整然と言える。だが、当時はその捻くれた感情を言葉にできなかった。

「戦場にかける橋」で有名な橋を徒歩で渡った

旅の終わりは、カンチャナブリの泰緬鉄道の見学だった。「戦場にかける橋」の舞台となった鉄道は第二次世界大戦中、タイとミャンマー間の路線をつなぐべく、日本軍が連合軍捕虜と現地の住人を投入し、突貫工事でつくらせたもので、数万の死者が出た。

現地を訪れた際、「最近になって新たな遺骨が見つかった」という報道が話題になっていたが、その辺りを掘り返したら砕けたコーラ瓶と白い小さな骨が出てきた。歴史は無味乾燥なものではなかったし、それは無造作な形で露わになっていた。

戦争博物館で行き合わせたのは、イギリス人かオーストラリア人だろうか。僕をじろりと見た。
たぶん僕を日本人だと思ったのだろう。

林を下り、当時の連合軍捕虜から「ヘルファイアー・パス」(地獄の火の峠)と呼ばれ、昼夜問わない重労働が課せられた切通の難所に向かった。

工事の難しさを思わせる崖に張り付いた木造の橋

その日は特別、暑くて40度をとうに越えていた。汗みずくになり、谷底に降り立ち、廃線の後を見た。

何も言えなくなっていたし、何も考えられなくなっていた。考えるべきことはいろいろある気がしたけれど、何も言葉が浮かばなくなっていた。

ただいま現在の暮らしで僕が蒙っている豊かさ。その豊かさが与えている影響。
僕の享受している繁栄ある地が過去に行ったこと。その行ったことは、僕とは関係ないかもしれないが、日本で生まれ育ったからには、無関係とは言えないだけの関係性がある。

よくわからない気持ちを抱えて帰国したら、あまり人とうまくしゃべれなくなっていた。