脱線した感想「恋の罪」

雑報 星の航海術

園子温監督の最新作「恋の罪」を観た。

本作は1997年に起きた「東電OL事件」をモチーフにしている。
あらすじを述べるとこうだ。

慎ましく夫に仕える生活を送る主婦、菊池いずみ(神楽坂恵)。最高峰の大学国文学部で助教授を務める尾沢美津子(冨樫真)。
そして、事件を捜査する刑事の吉田和子(水野美紀)。
20紀末の渋谷区円山町ラブホテル街でマネキンと繋ぎ合わされた女性の死体が発見される。殺人事件を追う刑事の吉田和子(水野美紀)の捜査が進む中で、大学エリート助教授、尾沢美津子(冨樫真)と人気小説家を夫に持つ主婦、菊池いずみ(神楽坂恵)の存在が浮かび上がる。

映画を評するならテーマがストーリーの中で十分展開されているか。
作者の意図は何か。
それをどのように読み解くか。

等々の技が必要だが、そのような力量は僕にはない。たんなる感想以上のものは書けないだろう。

だから映画をはみ出たところについて書きたい。「恋の罪」について書くのではなく、「恋の罪」を通じて。

単純に楽しめたのなら、あるいはそうでないのなら素直に感想を書けばよいはずだが、このようなこだわりをもってしまうのは、
この作品が「東電OL事件」を下敷きにしているという前口上があるからで、いずれ自叙帖でも書くだろうが、僕は何度か渋谷であの事件の被害者の女性に遭遇したことがある。ただならぬ気配の持ち主だった。

だから彼女をモデルにした美津子(冨樫真)がいずみ(神楽坂恵)に「私のところまで堕ちて来い」と言い、
愛する人とのセックス以外は金を介在させなきゃダメよ」と彼女なりの倫理を語った。それにも関わらず、堕ちた地になぜ金が介在する世界が開けているのか。それを解く鍵が映画の中では語られていなかったことを不満に感じた。

それはこの作品に要求することではないかもしれず、つまりは被害者の女性の記憶が作品を引きずりすぎているだけのことかもしれない。
だからこうしてぼんやり考えながら書いてみる。

「愛のないセックスならば金をとる」。このようにセックスに経済を導入する掟は淪落、退廃、不道徳、罪と考えられている。

では、なぜ愛あるセックスに経済が介在しないかといえば、セックスは親密な間柄で行われる、外部化、市場化される必要のない行為と思われているからだろう。

そもそも「愛する人とのセックス以外は金を介在させなきゃダメよ」自体がすでに園子温監督のロマンチシズムで、愛がなくたってセックスはできる。「愛がなければ」という文言が「誰かに必要とされなければ価値がない」という脅迫に感じられることもあるだろう。

「愛のないセックスならば金をとる」。
では、金をとらないセックスがあるとすれば、それは愛がある場合で、無料を担保するのは愛の無償さだろう。

愛は無償であり、愛は報酬を要しない。
(余談だが、なぜ「償」という「損失に見合うものを返す」という贖いを示す文言が決まって愛につきまとうのだろう。
予め償うべき収奪を他者に対して行なっているという人の存在のもつ後ろめたさを示唆しているようにも思えてくる)

繰り返すと、愛のあるセックスは無料だ。なぜなら愛は見返りを求めないから。
そこで上記のことを「見返りを求めないセックスは無料」と言い換えると同義反復にしかならず、愛とセックスと代価について何も語っていない。

いったいセックスを通じて、人は何を交換しているのか。交換であるならばなぜ外部化されてはいけないのか。
こんなぼやぼやしたことしかいまの僕には思いつかない。