駅の階段を上がる中で

雑報 星の航海術

僕は韓氏意拳という武術をやっていて、先日、韓競辰先生が来日されたので、東京駅までお迎えにあがった。

当然ながら意思疎通に中国語は欠かせないわけです。
そういう経緯からニンテンドーDSを買い、「中国語三昧」で学習し始めたのだけれど、途中からラブプラスに夢中になりはしたものの、「終わりなき日常」が醍醐味のゲームのはずなのに、彼氏力のアップに血道を上げることがだんだん煩わしくなり、僕は彼女(姉ヶ崎寧々)の誕生日を前に電源を入れなくなってしまった。それに伴いDSを使うこともなくなった。

つまりは何が言いたいかというと、僕の会話能力はいらっしゃった先生に「好久不見!身体好嗎」というのが関の山だということだ。

さて、長い旅だということもあって、先生はたいへん重いスーツケースをお持ちで、それを抱えて階段を抱えてあがっていたら、折り悪く重く、たくさんの乗客がホームから滑落する勢いで殺到してきた。

階段を降りてくる人たちの群れを僕は仰角で見上げる。彼ら彼女らはスーツケースを運ぶ僕を少し疎ましそうな目で見遣る。
「わざわざ自分が道を譲らなくてはならない」という不快の兆しが目の中に走るのを認める。

その感じ、わかる。
僕もコンビニやATMで行列ができていると、なぜか自分だけが途轍もなく不合理な仕打ちを受けている気分にさせられる。

事実は、そういう気分に自らなっているだけなのに、「させられている」という受身の姿勢を疑うこともなく、「自分の被っている状況は自分のせいではないのだから、相手が改善するのが当然である」といった、自分をなんら疑わず、他罰的な行為すら正当化してしまう気配が自分の中で醸成されてくる。

待たされるのも不快だが、そんな気持ちがぶすぶすと煙を上げ始める自分も嫌で、だから応対してくれる店員に無愛想、不機嫌という面体でしか臨めなくなってくる。嗚呼、なんという小さな器量の持ち主なんだろうと毎度思うのだ。

階段の右側には“上り”と表示されており、だから僕は不快だと思われても「そういうルールだから」を楯に一歩一歩あがる。ふと見上げると女性が目前で立ち止まった。彼女は黙ったままスマートフォンを片手に動こうとしない。

彼女は満身で「おまえが避けろ」という表示を無言でしていた。
そして、なぜかわからないけれど、僕もその彼女の意思をまるで空中に漫画の吹き出しを見たような感じで読み取り、脇にどいて上った。

なぜ僕がどかないといけないのだろう?という疑問と不快感のないまぜが口から吹きこぼれそうになる。

階段を上り切ったとき、てっきり彼女の傲岸さが自分の心中のざらつきの原因だと思った。「なんというマナー知らずだろう」と。
でも、このえずくようなむかつきの出所は違った。他ならぬ自分に向けられていたことに気づいた。

なぜ僕は物事が立ちゆかなくなった事態を前に無言のやり取りで済ませたのだろう。
僕も彼女も「自分の行きたい道を遮られた不快さ」をふたりのあいだに流れる空気に筆圧高く書き込み、互いの思惑のやり取りをした。
なぜそれを言葉にして表に現さなかったのか。

「セニョリータ、ご覧の通り重い荷物ですので、よろしければ道を譲ってくれませんか」という言い方ひとつできなかったのだろう。

「上り」と表示されているところを上がっているのだから、「正しいのはこちらで間違っているのは相手だ」というのは、根本的に僕の中のわだかまりや不快さを何ら解決しない。

他人の決めた規則がいつも正しいことだと決めつけると物事を処理する上で効率がいいのは、全員がそれを守っている場合で、けれど目前にあるのは規則外の出来事で、いま起きて遭遇しているリアルタイムの事柄について罰する勢いで向き合っても、合意をはかるまでの時間が必要になってくる。

階段を上がるという行為の一貫性の中で、ルールを持ち出して説明するのは効率が悪い、というか無粋だ。

川の流れは目前に岩があるからといって、「どいてくれませんかね」と野暮なことは言いはしないし、マニュアルや規則に委ねて流れることはなく、ただルールがあるとしたら、高きから低きへ流れるということだけだ。

ただ、上るという意図をもとに僕は彼女とコミュニケーションをするべきだった。

いろんな思惑や欲望を抱えた人が暮らす都会であれば、他者は自分の不全感を生み出す環境の因子扱いになりやすい。人間を書割じみた風景に疎外したら、他罰を当然としていられる。でも、そんなのは嫌なのだ。

感じた不快さに埋没することが正しいと思えてしまうのは、被害もサービスも常に受身を当然としているせいかもしれない。

言葉は発しなければ意味をもたない。わずかな時間にそんな気分にさせられた。