Vol.4 有ることと無いことをめぐる数学の生成

第1号 独立研究者 森田真生

Vol.4 有ることと無いことをめぐる数学の生成

尹 : 地球40億年や人類史という大きなスケールの時の刻みを数学に導入しよう。そう考えたことで何が見えてきました?

森田 : 生物が進化していく背後には、「安定しなさ」という苦しみがあるんじゃないかと思います。安心したいから安定を望んでも、物理的に安定した状態になってしまえば、生命はもはや物質になってしまうわけです。動くからこそ生命であって、安定して静止したら、モノになってしまう。

生命が動くということは、物理的に安定しないということで、環境と存在が真の調和を達成して安定してしまったら、生命活動は止まってしまいます。
調和していない。うまくいっていない部分があるから動く。動かざるをえないから動いているんです。

人は生きている“のに”不安になるといいますが、不安“だからこそ”生きているとも言えるわけです。40億年の生命の歴史は、不安定だからこそ動かなければいけなかったという、その矛盾が生みだしてきた歴史でもある。それが生命の刻む時間ということなんじゃないのかな。

苦によって始まった意識の活動

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森田 :
さらに人間の思考の歴史を考えると、紀元前6世紀という時代がスゴイことになっています。

この時期に哲学や数学や宗教の世界で偉大な思想が次々と世界各地で同時多発的に生まれました。(タレスやピタゴラス、孔子、老子仏陀もみな紀元前6世紀を生きた人たちです。)
その背後にあったのは、一と多、有限と無限、生成と存在といった様々な概念上の二項対立についての自覚です。世界のあちこちでこの「分裂」に気づく人たちが現れて、それをなんとか治癒しようとした。

分裂とは矛盾であり、仏教で言えば苦(dukkha)という言葉が当たるでしょうか。でも、その苦しみがあるからこそ、新しい思考の形式が人類の中に芽生えていった。
生命が安定できないからこそ進化してきたみたいに、様々な概念的分裂に自覚的になってしまったからこそ、それをきっかけとして意識の新しい時間が流れ始め、それが学問や思想、哲学として結実していった。

尹 : 意識をもってしまった人間の課題が紀元前6世紀頃にそろったわけですね。

森田 : それに対して西洋哲学は概念的な分裂を際立たせた上で、対立を競合させ、競合の先に統合を目指していくというスタイルを確立していきます。それがギリシア世界に端を発する数学や自然科学の方法です。

一方で中国では孔子や老子や荘子が出てきました。孔子の時代の人びとは、それまでの大いなる天の命に従って生きて行くだけではなく、命(メイ)の中には、自分たちの自由になる部分があるらしいと気づき始めていた。
それを「心」と呼ぶようになるんですが、その自由になる部分、すなわち「心」をどう扱っていけばよいか。そういうことを考え抜いて礼や仁を説いたわけです。

尹 : 日本はどうだったんでしょう?

森田 : 日本では、二項対立を競合させるのではなく、競合が和合に向かう傾向があるようで面白いですね。ひとりの神様が荒ぶる魂と和やかな魂を両方持っていたり、仏の微笑が悲しみと喜びを両方抱えていたりする。

仏舎利が入って来た後、お米をシャリと呼ぶようになったっていうのもスゴイ話だと思うんです。モノそのものに神を見出しちゃうわけですから。こういう世界観があるからこそ、日本はモノ作り大国になれたんでしょうね。

シャリとロボットがつながる世界

森田 : たとえば「ロボットに部屋の掃除をさせなくてはいけない」となったとき、いかに部屋そのものにより近いシミュレーションをロボットの脳内につくらせるか。こういう種類の問題をロボット研究は長らくテーマにしていました。

ところがロドニー・ブルックスという人工知能の研究者が「世界そのものが世界のいちばんいいモデルなんだ」と当たり前のことを言った。でも、これが実はものすごい発想だった。

尹 : 現前しているものが現実でありモデルだということですよね。

森田 : 人間は世界そのものを見ているのではなく、環境を認識し、計算した上で世界のモデルを脳内につくり、行為をしている。そう考えられてきました。
でも、本当にそうなんでしょうか?

本棚に何を置いていたかを記憶しなくても、本の並びそのものが蔵書を記憶してくれています。
あるいは筆算しているとき、どこに何の数字が書かれているかいちいち覚えていなくても、黒板がそれを記憶してくれているから大して記憶力がなくても掛け算がその場でできる。

そういうことを僕らが当たり前に行えるのは、世界そのものが世界のいちばんいいモデルとして出来事を記憶してくれているからです。
となると、それらの身体の外側に散らばってる記憶をいかに生かしていくか、ということが知的な行為の本質ということになります。

空気とは、環境に散らばる記憶

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森田 :
ありもしない世界を構想できるのは、言語の力のひとつですから、その結果として、抽象的なバーチャルな世界を僕らはたくさんつくりだすようになりました。結果として、「ありのままの世界」と「世界を語るモデル」とを混同するようなことも起きやすくなったんじゃないかと思います。

そうした状況を考えると、日本人がお米をシャリと呼び、目の前にあるモノに信仰を見出してしまうその方法になにか爽やかな、清々しいものを感じますね。世界そのものが信仰の対象になる。
なんてことはないようで、この発想には実はすごい洞察があるんじゃないかって思うんです。


尹 : モデルと現実との距離について、固有の感覚があったのは間違いないでしょうね。
森田 : それが“空気”であり“あいだ”なんだと思います。日本は6世紀になって中国から文字が入って来るまで無文字社会だったので、おそらく空気にいろんなことが書き込まれていたはずです。

本当は世界そのものに記憶があるのと同じように、空気にいろんな情報があるのだから、言わなくても伝わることがあってもおかしくない。

文字が視覚化されたことで、いまは「言語化されたものだけが情報だ」という錯覚を多くの人が共有していますが、日本人は長いあいだ、そうでない世界を生きてきた記憶を持っています。

空気を読むことは様々なレベルで身体化されていて、同じ字でも読み方がいろいろできたり、「結構」や「手前」などの言葉のように、同じ表現でも使われている文脈で意味や解釈が変わったりする。それってすごいことですよね。
ちょっと文脈が変わると「手前」が「てめえ」になって、へりくだっていたはずが威嚇になったりするわけです。

現代社会は、とにかく一貫性を求めますね。発言に一貫性がないといって、すぐに叩かれてしまう。KYは日本では「空気よめない」だけど、アメリカでは「契約書読めない」と、内田樹先生がどこかで書いてましたが、いまはまさに「契約書読め」の世界になってしまっている。「空気」は通用しなくなっていますね。

けれども契約書を読むなら、ロボットでもできるんです。それに比べて、空気を読むのは遙かに高度な知性を必要とすること。僕らは、そういった知的にとても高度なことをうまくやってきた歴史と文化を持っているわけで、そういうことにもっとプライドを持って、西洋的な「契約書読め」ではない、違う可能性っていうのを追求してみた方がスリリングなんじゃないかなって思うんですよ。

尹 : 空気やあいだを読む行為は、数学の世界とどう合致するんですか?

森田 :圏論の最も重要な思想的意義は、点概念からの解放じゃないかと言いました。圏論は点という「存在」を手放してしまうので、数学的対象のアイデンティティを支えるのは「関係性」しかなくなってしまうわけです。だから、圏論には「あいだ」しかない、とも言えます。

点という存在の「有ること」を空じて、「無いこと」の世界をつくってしまった。だけど、その「無いこと」が互いに関係しあうことで「成ること」の世界が立ち上がってくる。僕は、圏論をそういう風に捉えています。
こういう感覚って、実は僕ら日本人にとっては、とても馴染みやすい発想かもしれないですよね。(Vol.5へ続く)


2011年9月20日
撮影:渡辺孝徳