カテゴリー
Topics

宮台真司さんによる連続講座「男親の社会学」で司会を担当します。

7月23日社会学者・宮台真司さんによる連続講座「男親の社会学」で司会を担当します。場所は和光大学ポプリホール鶴川会議室で14時開演です。

申し込みはこちら。

35366297219754a7d9d29a94be55b174_original

カテゴリー
Topics

7月7日「ダイアローグ学」トークイベント開催

7月7日19時30分よりホテルニューオータニ博多で「ダイアローグ学」と題したトークイベントを行います。
イベント詳細は下記より御覧ください。皆様のご参加をお待ちしております。

イベント詳細ページ:好奇心カレッジ
申し込みこちらから

カテゴリー
雑報 星の航海術

わかりさうなすがたのひと

こちらをむいてくるひとは
なんとなくなつかしさうなひと
わかりさうなすがたのひと
だんだんまぢかくなると
まるつきりみもしらぬひと
ぼくはそっぽをむいてすなをまく

鄭芝溶が日本語で書いたこの詩が好きだ。

これから書くことは、鄭芝溶がこの詩を書かざるをえなかった背景とはまるきり関係ない。けれども、濱口竜介監督の「ハッピーアワー」を観た直後に思い出したのは、この「わかりさうなすがたのひと」という詩句だった。

30代になってから出会い仲良くなった神戸在住の4人の女性、あかり、桜子、芙美、純。彼女らは休日の予定を合わせて手づくりの弁当を持ち合い摩耶山でピクニックをしたり、重心を探るワークショップに連れ立ち、また有馬温泉に一泊旅行で出かけるなど、大人になった今だからこそ出会えた仲間だと互いに思っている。

4人はそれぞれ離婚歴があったり専業主婦だったり、はたまた仕事に懸命だったりと、自分の暮らしを振り返るとそれなりに思うところはあったとしても、それは生きていればどうしても出てきてしまうようなことでしかない。服を着ていれば袖口がほつれてくるが、だからといって服を着なくなるわけではないように、抜本的な解決などないようなやり繰りの中で暮らしている。そうして抱えている屈託を話したとしても、彼女らには共通言語があると思えた。純が離婚裁判をしていると知るまでは。

news_header_happyhour_201510_03-300x168

それなりの手応えあった4人の暮らしは、純が明らかにしてこなかった葛藤を知ることで次第に不穏になり始める。純が離婚裁判について隠していたことが問題ではない。それをきっかけにそれぞれの内なる葛藤が親密さの関係の中で明らかになっていく。

なぜ話さなかったのか。どうして嘘をつくのか?といったような詰り方をするあかりは他人にも率直さを要求する。桜子はそういうあかりだからこそ純は口をつぐんだのではないかと、正直さを武器にすることの野蛮さを指摘する。

「私はきっとあかりには大事なことは言わへん。言うたかて自分の物差しで人のこと測るだけやん」

ありふれた言葉かもしれない。でも、それぞれが口には出してこなかった、これまで育ててきた信念が月並みな表現で明らかになるにつれ、不安にかられ今まであったはずの生活の手触りを確かめてみようとしても、それは剥離してボロボロと崩れていく。

夫は妻を大事にしているという。
「大事にしてるよ。ただ、毎日愛してるとか花買って帰るとかそういうんやない。家の外は俺、家の中は桜子。2人で大事にしてる感じかな」

そうして見知ったはずの夫はまるきり見知らぬ人に見えてくる。

4人とも崩壊の予感を抱いていたのだということが練られたセリフの隅々から感じられる。詰めて言えば5時間17分の作品は、そのことをひたすら描き続ける。

幸せな時間が派手な音を立てて崩壊していくわけではない。大きな事件は起きないが、でも本当は特別な、一回きりの事件が毎日起きていた。それは私たちの日々も同様で、この何気ない暮らしがかろうじて軋みを立てるだけのことでいつも済んでいたのだと、すべてダメになってから知る。

擦り傷くらいのことに思えた。でも、それが息を苦しくさせ、私を殺すのだと彼女たちは知ってしまった。

40歳も過ぎると「人生というのは、いろいろあるがこうでしかないものかもしれない」と言う人は増える。達観ではない。苦味は感じつつ、それはそれとして傍に置いておかないと、あまりに「本当のこと」を探求しては生きづらくなる。だから知恵として言うのだろう。
けれども「それはそれとして」はきっと無邪気に彼女を傷つけていく。

解像度を上げると生きること全体の精度が落ちる。精度を上げると解像度が低くなり、彼女たちの心の襞は些事に見えてしまう。夫たちがそうであったように。

私はこの映画に出てくる凡庸で悪意がないからこそ始末に負えない夫たちの馬脚を全部揃えたような人間だと思う。あの映画の中で彼女たちに去られた後の身にしみない表情を自分もしているのだろう。
死がひとつのゴールだとして、せめて馬脚よりも先に鼻面がゴールを切るようにしなくては。

カテゴリー
雑報 星の航海術

私の名を呼ぶ声

 防災マップで遊んだ一週間後、熊本で地震が起きた。余震と呼ぶには頻度の高い地震が連日続き、倒壊した家屋の映像が報道によって映し出されるなど、甚大な被害が報告され始めた。住人が不安な日を送る中、折しもSNSでは「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人の泥棒に気をつけろ」といった類の根も葉もない流言飛語を意図的に書くものが大量に現れた。問い詰められたものは「ネタ」だと開き直り嘲笑う。

 関東大震災の折に流布されたデマゴギーによって朝鮮人をはじめ中国人、社会主義者や標準語とは違うイントネーションを怪しまれた東北出身の日本人が殺された。

 当局による虚偽情報の宣布の根っこにあったのは悪意ではなく明確な殺意であった。虚偽の情報の目的は事実を偽るところにはなく、人間を人間としてみなさずに済ませるところにあったろう。つまり人間ではないものとして偽らせれば殺して燃してもよいのだと思い込むことができる。

 

 私は人間だ。私ひとりがこの世に生きているならば、あえて言葉にして確認する必要もない。

 私が人間であるとは、人間のあいだに生まれ落ち、「あなたは人間である」と迎え入れられる体験を持って初めて得られる実感だろう。この実感は学校や企業で良い成績をとったとか地位や名誉といった社会における序列に組み入れられて得られるものではない。

 私の面前にいる人、隣人によってもたらされる。社会と呼んでしまうような大層なものの手前にある、人と人との関わりの中で私は私であることの肯定感を覚える。

 大人になり社会と折り合いをつけていく術を学ぶにつれ、私たちは子供の頃に習った「人をむやみに傷つけてはいけません」程度のことも守れなくなる。

 生きることが社会の中でうまく立ち回ることとぴったり重なっていくほどに社会人としての自覚が高まる。その分だけ私たちは眼前の人をただの人間として扱わなくて済むようになっていく。

 私の住まい近くのパイ屋や居酒屋、マンションの住人らは、どうも私のことを韓国人だと思っていない節がある。
それは日本語が巧みだから日本人だと錯覚しているのではなく、名前からして日本人ではないとは認識しているが、いざ目の前に立つとそういう属性が意味をなさないような位置に私がいるからではないかと思う。それは単なる親密さとは違う気がする。何より私はそれほど社交的ではない。むしろルワンダでは加害者の多くは親しく付き合っていた隣人だったという報告も聞くと、親密さを恐ろしく感じる。

 親密さがいつ逆転するのか。その訳を知りたいかというと、そうでもない。知ってそれを行うべく努めるよりも、隣家のお孫さんの、舌足らずの「ゆんたーん」にすかさず「はーい」と応じられるだけの自分である方がずいぶん大事だと思うのだ。