Vol.3 言葉が消えるところ 体と出会うところ

第5号 作家 赤坂真理

Vol.3 言葉が消えるところ 体と出会うところ

赤坂 : 野口体操を始めた野口三千三さんの言葉に、「次の瞬間動ける筋肉は、いま休んでいる筋肉だけである」があります。ずっと力を入れていると動けないわけです。

尹 : がんばって力んでしまっては、全力を発揮できませんからね。

赤坂 : がんばっているけれど、うまくいかない。私は日本のサッカーがそういうふう見えて仕方ありません。試合を見ていると、どうにもつらい気持ちになるのです。

日本の選手を誉める際、「運動量が豊富」というのがあります。でも、そんなにいつも動いていては、「次の瞬間」という不測の事態には応じられないでしょう。
アルゼンチンのバティストゥータのプレイを見て、衝撃を受けたことを今でも覚えています。多くの時間帯はゾンビみたいに過ごしていて、チャンスになるとむくむくと起き上がって来る感じです。サボっているように見える様子から、「ここぞ」というチャンスを決して逃さない状態に一瞬で入る。あれは本当に見事です。

尹 : 僕はサッカーについてほとんど知りませんが、日本の選手はとてもまじめだという印象を持っています。

赤坂 : まじめですか。なるほど。だから日本代表選手は、なんとなく商社員に見えるわけだ。書く本もビジネスの啓発本みたいですし。

武道家はなぜ語りたがるのか

尹 : 体感したものをアウトプットするとビジネスにも使えるような内容になってしまう。その指摘はおもしろいです。
同じスポーツでも、サーファーのトッププロは語らない傾向があるそうです。語る言葉を持っていないのでしょう。「瞬間しかない」ということを体でわかっているから、感覚を言葉に移し替える必要を感じない。波は説明せずとも波だし、最初から圧倒的にリアルだから。それで言うと武道家はけっこう語りたがります。

赤坂 : 満たされないんですかね。サーファーは満たされているから言語化の回路が発動しないのかも。ひたすら快楽のときがあるだけだから。

尹 : 武術の稽古をしていて「やったぁ!」と快哉叫んだり、愉悦に浸るというふうにはならないです。どちらかと言うと、僕はしみじみしてしまうし、内省して言葉を紡いでしまう。

赤坂 : それでも日本の武術は中国のそれの豊かさに比べると、言語化されていないように見えます。

尹 : 漢字を使うとああならざるを得ないんじゃないでしょうか。「てにをは」がないため一度文字を綴ったら最後、結末にいたるまでひたすら意味で埋めていかなくてはいけない。
日本語だと「月が水に映るがごとく」とか「のようなもの」を通じて境地をある種の「感じ」で表せられます。

赤坂 : 漢字も日本語の近似値を当てているだけで、日本語ではその曖昧さをあえて楽しんでいたりもする。面倒な言語だなと思うこともあります。

日本語が理解できてしまうからこその困難

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尹 : 最近、なまじ日本語が通じてしまう、その厄介さを感じます。言葉の意味を理解していなくとも、伝わっていると思えてしまう。あるいは「話せばわかるはず」といった期待を、論理を展開し、意を尽くす前から前提にしている。実際は共感を迫っているだけで、没論理への同意を期待しているにもかかわらず。

これが肌の色が違うとか、明らかに異文化の人間だとわかれば、それなりの構えが生まれるけれど、日本語を使った途端、同じ文脈を共有しているはずだという前提がなぜか生じてしまう。それが「空気」と呼ばれるものの正体かもしれません。

赤坂 : 本当は日本語の話者同士でもわかっていませんよ。ちなみに韓国語は話せますか?

尹 : いいえ、少し読めるくらいで話せません。日本語の醸し出す「空気」の通じない韓国や中国へ行って感じたのは、どうも「心」の示す範囲にも違いがあるのではないか?ということでした。心というものを自分の内だけに限定していない感じがしたのです。

なおさら、そう思ったのは、ピーター・バラカンさんが自著で、日本で暮らし始めてショックを受けたこととして、「本心を言わない」「人によって言うことを変える」を挙げていたからです。
「心を明かさない」のは慎みからであり、その謙虚さは思っていることをそのまま「明かしてはならない」といった圧力を察知してのリアクションでもあるでしょう。  心を明かさないことの良い面が発揮されたら「慮る」になります。ただし、それは人によって態度を変えることにもつながりますから、傲慢と卑屈の往来になりがちなのも確かです。

心は人の中にあるデリケートなもの。だから、よく見えないし、迂闊に傷つけてはいけない、取り扱い注意なものとして捉えられている。そうでありながら「話せばわかるはず」というもたれかかりが一方であるため、慮ることを拒否すると「空気が読めない」と叩かれる。コミュニケーションが繊細でありながら野蛮でもある。

韓国や中国で感じたのは、日本では「それは私の心の領域だ」と思っているところにわりと平気で入ってくる人が多いということでした。日本では「デリカシーがない」とか他人を思いやらない、傷つけるととられかねない間のとり方だけど、心の広がりが違うんだと思います。もうちょっと自分からはみ出ているところまでを含んでいて、そこはわりと人が行き交ってもいいだけの余地がある。

赤坂 : だから「ここにいてもいいでしょ」みたいな入り方をするわけですか。なるほど。
それにしても心なんて、言葉なんてなければいいと思うことがあります。心という漢字がつくられるまで心はなかった。別にそれは漢字を生み出した中国人に限らない話でしょう。太古、人類に心はなかったんだと思います。

なおのこと心が、言葉がなければとよく思います。ラマナ・マハルシというインドの聖者は「最大の敵は心である」と言っています。本当にその通りです。
心はある時点での人類の発明なのかもしれません。古語では心は「こごり」と言ったそうです。煮こごりといっしょで、どろっとしているものが固まった。決していい意味では使われていなかった。

尹 : 淀んだりしてできたもの。

赤坂 :心などなければ!と、「北斗の拳」におけるサウザーの「愛などいらぬ!」みたいに叫びたくもなります。

歪みを歪みとして経過させる

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尹 : Vol.1で「古代日本人の動きを取り戻す」についてお話でした。太古の心のない時代の体はどういうものだったかと想うと、力という概念もなかったのではないでしょうか。虎とか熊といった勇猛な動物であっても、おそらく力を入れることなどないように。

赤坂 : そうかもしれませんね。

尹 : 動物は、動きに緊急性は求められても、動き自体はいつも普通、自然だと思います。
心がそうであるように、力も文明とともに生まれたのではないでしょうか。生まれたことで心や力に人間は「こごる」ように、居着くようになったのかもしれません。それは作為の始まりであるとも言えます。
だから僕の場合、武術の稽古は、その作為による偏りをなくすことに傾注していると言えます。

赤坂 : でも、まったく歪めないのも病ではないですか。何かあったときにちゃんと歪んでおかないと、後々に別の機会で支障が出るでしょうから。

尹 : とにかく「歪まないほうがいい」とつい思ってしまうのですが、それはやはり正しいモデルを描いているからでしょうね。それでは撓むことさえ受け入れられず、硬直してしまう。僕の中にまだまだ「正しいことがよいのだ」という思い込みがあります。そういう幻想はありますか?

赤坂 : 捨てられないと諦めています。人の悩みの多くはそれですよね。こうある自分とあるべき自分のギャップ。それが「心がなければいい」と私が思う理由です。あるべき自分は空想だから。空想に合わせて苦しむわけです。

想像力は、マインドのおしゃべりが消えた場所にある

尹 : その空想と想像力はどこかでリンクしていませんか。

赤坂 : 本当の想像力は降りてくるものだと思います。だから実感で頭がいっぱいのときはダメですね。降りてきません。

尹 : 書くにあたっては、ひたすら降りてくるのを待つのですか。

赤坂 : 待っているだけでもダメだから歩み寄ります。歩み寄ったところで出会う感じです。

尹 : 集中するための作法は?

赤坂 : そもそも私の想像力があるのではなく、そういう状態になるための秘密が文字にあるんだと思っています。その上で言えば、降りてくる「ゾーン」に入るためのやり方は何種類かあります。たとえばイヤフォンをしていたりとか。そういう手立ては持っていますか?

尹 : 特にないので困っています。だから集中力がない。いつも頭の中でいろんな声がしてうるさい。こういうのは、みんなにも聞こえているんですかね。

赤坂 : 大丈夫、聞こえていますよ。それをすべて書いてみたのが『ヴァイブレーター』でした。読者から「私の頭の中みたいでした」という声をいっぱい聞きました。マインドのおしゃべりを止めようとしてもムダです。尹さんも脳内のおしゃべりを書いて公表したら共感を得ると思いますよ。

尹 : むやみに黙らせようとする必要はないわけですか。想像力が降りてきた中でマインドのおしゃべりをすべて書いたら小説となった。それもまた歪みを正すのではなく、歪みを経過したからこそと言えるかもしれません。
それにしても降りてきた結果、書かれた作品を読むと、赤坂さんの身体としか言い様のないものを感じます。

赤坂 : 作家でも身体に近い人とそうでもない人がいて、私は身体に近いタイプです。最初の頃、私は「落ちた」と書けなかったのです。「落ちた」とは落ちてから認識するものだから。落ちている最中には、ただ剥き出しの何かがある。

尹 : なるほど。話をうかがってわかってきました。ゾーンに入った際の集中、緊迫感があれば、いたずらにおしゃべりにうつつを抜かすのでも止めようと躍起になるのでもない。マインドの散漫さを観察していられるのかもしれませんね!

それで気づいたのですが、僕は刀のような長物を扱う剣術よりナイフ術が向いていると言われるのです。確かに近接した間合いのときだけは、ほかの武具を扱うときと違って考えなくなる。おしゃべりが気にならなくなります。
それはゾーンに入っていると言えるかもしれません。そういう体感が書く際にもあればいいのかもしれない。そうすれば降りてくる声に耳を傾けられるかもしれない。これは新たな発見です! 今日は本当にありがとうございました。(了)pre05_03_01_p01


2015年3月6日
撮影:渡辺孝徳