vol.1 安心と勇気づけることがもたらす演技への集中

Vol.1 安心と勇気づけることがもたらす演技への集中

濱口今日は色々と尋ねたいことがありまして、尹さんがインタビューと構成を担当された『「ユマニチュード」という革命』を持って来ました。ページを折りすぎてドッグイアの意味をなしてないんですけど(笑)。
実はケアに興味を持っています。きっかけは医学書院が刊行している「ケアをひらく」というシリーズをいくつか読んだことです。ケアと演出というのは非常に似通ったものなのかもしれない。そう思うようになった頃、ユマニチュード(注1)を知りました。

濱口さんがケア、とりわけユマニチュードに関心を持たれていたと聞いて、上梓された『カメラの前で演じること』で書かれていたことがなんとなく腑に落ちました。
「ハッピーアワー」の撮影につながった神戸でのワークショップの際、特に演技指導はなく「聞くこと」を中心に行っていた。また映画を撮影するにあたって演者に対し「安心」と「勇気づける」ことを重視している、といったことを記していましたよね。その辺りのことはケアと演出のつながりを連想させます。それを踏まえてお尋ねすると、どうして「聞くこと」が演技につながると考えたのですか?

濱口:ちょっと長くなりますが、それを説明するには「ハッピーアワー」に先立ち、酒井耕監督とともに東日本大震災を扱ったドキュメンタリー「なみのおと」「なみのこえ」「うたうひと」という「東北記録映画三部作」をつくったことから話す必要があります。

三作のうち「なみのおと」「なみのこえ」は津波の被害に遭われた方の体験談を聞きました。「うたうひと」は民話を聞き取っている人が民話の話し手と語り合い、その様子を撮る内容でした。三作とも「聞くこと」を一貫してテーマにしています。
特に「なみのおと」を撮り始めるときの実感として「インタビューはする側にとっても怖いところがある」ものでした。津波の被害に遭われた方にどういうスタンスで聞いたらいいのかそもそもわからない。そこから始まりました。

ただ、撮影していく中で「震災」というものを知りたいと思ったときに、単純に津波の被害やその時の様子がどうであったかだけでなく、「あなたがどういう人か知りたいんですよ」ということを聞くようになっていました。
確か、北野武さんがこう言ってたのを覚えています。(その時点で)5000人という数が津波にさらわれたというけれど、5000人という単位ではなく5000人の命が奪われた。そこでは5000の事件があったのだと。
亡くなった方にはもう話を聞くことはできない。けれど、なにがしかどのようなレベルかの体験があって生き延びた人がいるわけです。

いま聞ける人たちに聞けば、東京でニュースとして消費するばかりで、もやもやとして得体の知れない「震災」というできごとが何であったのか少しでもわかるのではないか。だから「どんなことでもいいから話してください。あなたのことを聞きたい」というスタンスで接したのです。そのときのインタビューで驚かされたのは、その括弧つきの「被災者」というイメージを超えて、その人たちが示す活気というか表現力というか…。話すことを通じて、その人たちが力強くなっていく感覚がありました。

「ある何か」が起きている瞬間をどう捉えるか

濱口:「うたうひと」で取り上げた、民話の語りの場でも同様のことが起きました。民話の語り手はときに200くらい話を覚えていても、地元のコミュニティからは「女子供の寝物語」とされてしまって、意味あることとして思われていなかったりします。「あの人は民話ばかりしゃべっている」という感じで。
自分たちとしては、親や祖父母から受け継いだ大事な記憶につながっていると思っているのに、すごく価値のないもののように扱われている。そういう語り手に「みやぎ民話の会」の小野和子さんが聞くのを見る機会がありました。すると、その時点で80歳を超えている高齢の語り手がものすごい生命力を持って話し出した。その関係性を撮らせてもらうことにしました。

尋ねられて初めて価値があることに気づき、それが表れる場に立ち会ったわけですね。

濱口:聞かれているという感覚が、人がなにがしかの自分自身を表現することの基盤になる。「あなたのことを聞きたい。あなた自身に価値があるからです」というスタンスで接することで、その人自身が発露するように感じました。聞くことはそれを助けることになる、という実感を持ちました。
僕は震災前は劇映画をつくっていて、そもそも「自分はそちら側の人間だ」という認識があります。そこに戻っていくにあたって、ドキュメンタリー制作で得た実感は自分がずっと感じていたある問題を解決してくれる気がしました。

問題とはなんでしょう。

濱口:常に自分が見たいと思っている演技が生まれるわけではない、ということでしょうか。何らかの理由で目の前の演技が信じ得るレベルに達するときと、達さないときがある。そして達さないときのほうが多い。そういう状況でずっとやってきたのですが、ドキュメンタリーを撮っているときは、信じられる声、少なくともいまこの場で、この関係性の中で、信じられるものをたくさん聞いた気がしました。

それは僕や酒井や小野さんの「聞く」という態度によって生まれたものなんだと仮定して、ではその聞く態度をそのまま演技という空間に移したら、問題が克服できるのではないか。互いに聞き合う演技空間ができればいままでよりもっと、信じられる声を聞くことができるのではないか。そういう表現を見ることができるのではないか。そうした予感を持って神戸で行われることになった「即興演技ワークショップ」に臨みました。聞くということを通じて演じてもらう。演じるための空間をつくるためのワークショップです。

濱口さんが「見たかった演技」とは思いと言葉、言葉と演じるからだ、浮かべる表情にズレがないことを意味しているのですか?

濱口:そんなにはっきりとしたものではないんです。おっしゃったような「ズレがなくなった瞬間」を明確に理解しているわけでもありません。あくまで自分の感覚として、役者の演技を目にすることで、何か自分の目の前でいま空間の質が変わったような感覚が生まれることがあります。でも、それがいったいどうして生まれているのかわかりません。わからないけれど時折起こる。そういう感覚がいったいどうしたら起こりやすくなるんだろうと考えてきました。

そもそもそういう現場での感覚がカメラに映るのか?という問題はあると思いますが、いまは「映る」と判断していますし、そこに軸足を置いています。
カメラは基本的には映るものしか映さないけれど、現場で僕はその空間の変質を感じていて、カメラはその空間を全部ではないにせよ撮っている。僕らはまだそれについて言語化する術を知らないけれど、“それ”は、少なくとも部分的には映っていると考えるのが妥当でしょう。

単に役者があるセリフを覚えてきて、「こういう感じだろうな」というので演技をしている、というのではないような「ある何か」が起きるのを目にするわけです。
ぼんやりとした言葉ですが、「ある何か」が起きている瞬間をどう繰り返し撮っていくか。ドキュメンタリーの制作後は、フィクションを撮っているときよりもそれに近づいたような気がしました。

言葉で捕まえられる意味を理解したり、言語化できるだけの内容を滑らかに話すことで充分なら、そこには「ある何か」が芽生える兆しはありません。
滑らかで論理的な文法に自分を押し込んで話そうとする。でもそういう話し方をできる人はそんなにいないし、できたとしても、濱口さんがおっしゃった「活気」や「生命力」とは程遠いと感じます。
その上で著作でも指摘されていた「安心」はとても重要だと思います。それが確保されて初めて、その人の速度にあった言葉が話される。たとえ冗長に思えても、その人が思っていることを語る上で必要な時間の流れです。

濱口:そうだと思います。津波に襲われた体験を語ってくれた際、その場にいる全員の集中状態が上がり、語り手にフォーカスしていました。誰もが「この語りを逃してはいけない」というモードになっていたのだと思います。
そのときに空間が変わる感じがして…。そう、イメージとしては渦を巻いている感じで、聞かれる側も聞く側も互いにフィードバックがありました。語る側も聞かれていることを感じていたと思います。
でも、あのときの話をもう一回してもらっても同じようなことにはならない。一回性の出来事でそういうことが起こるのです。

聞くことと演じることのつながり

三部作の撮影でつかんだことを神戸でのワークショップでは、「聞くこと」のもたらす効果として説明していたのですか?

濱口:いや、ワークショップとしてどのように着地するのかわからないまま始めたというのが正直なところです。「聞く」ことが演技の現れをいかに助けるかについての探究だったと言えます。説明会でも「演技のワークショップと名乗ってますが、実際に何になるのかわかりません。これから役者をやっていくこととも関係ないので、自分にとって何か意味がありそうと思ったら、是非参加してください」と言ってました。
あくまで僕が自身の問題を解決するために思いついたワークショップであって、効用があるかどうかはわかりませんでした。

ゴールはワークショップの終了後、参加者をキャストにした作品をつくること以外にはなかったわけですか。

濱口:そうです。集まった人も奇特な人たちで単純に演じたいというよりは知的好奇心からとか、自分の生活を変えたいといったモチベーションから参加している方が多かったように思います。

演技経験を問わなかったワークショップでは、人に話を聞きにいくことが課題としてあったそうですね。

濱口:「聞く」のほかに「話す」、「動く」の三本の柱がありました。
「聞く」は、自分たちの興味のあることについて、身近な人で構わないからインタビューしてもらい、また興味を持ったある程度の著名人を呼んで、自分たちが聞き手になってトークイベントを行ったり、参加者同士でインタビューをしあってもらいました。
「話す」は、インタビューで聞いて来たことを人前で話してもらいました。これがもしかしたら演技や表現に近いかもしれません。
最後に「動く」ですが、講師としてダンサーで振付家の砂尾連理さんにワークショップに参加していただきました。彼に出てもらったのは、聞くと言っても単に会話をするだけでなく、言葉によらないコミュニケーションは重要だし、演技ひいては映画をつくるにあたって欠かせないと思ったからです。

尹:着地点がわからないままだったということですが、「聞く」ことが明らかに演技を励ますのだと確信したのはいつでしょう?

濱口 実はワークショップを終えた時点でも、聞くことと演じることがいったいどうつながっているのかについて発見したわけではなかったんです。
そもそも「即興演技ワークショップ」と名付けたのは、聞くことと演じることの接点は、単純に考えれば即興、「アドリブ」みたいなものだろうと思ったからです。参加者同士でインタビューをしあって、そのときにそれを見ているもう一組が今度はそのインタビュー内容をコピーしてある程度即興的に演じてみるというワークもしてみました。そこからある種の演技は生まれて来ますが、その即興で映画全体を構成することは、僕にはできないと思いました。

濱口さんの作品は濃厚なテキストが特徴なので、その場の話し合いの中でキャラクターをつくって、物語を展開し演じるという手法はかえって新鮮に聞こえます。けれどもうまくいかなかったのですね。

濱口:そうですね。結局はテキストを元に演じるという昔ながらの方法に回帰していきました。

そうなると、聞くことと演じることはどうつながっているのか?という問いに戻るわけです。

信頼感と安心感がもたらした変容



濱口:少し説明が長くなりますが順を追って話しますと、半年近くのワークショップの終盤で参加者に脚本を提示して、参加するかどうか尋ねたところ全員に参加してもらえることになりました。
だからと言って、すんなり撮れたわけではなかったのはロケーションや美術の問題から初稿の通りに進めるのは難しかったからです。

そして、これがいちばん重要だったのですが、キャスティングされた人から「この人はなぜこういう言動をするのかわからない」「こういう役を演じたいとは思わない」といった違和感を訴える声をもらったからです。そこから脚本を直す期間があり、2014年5月から撮り始めて3ヶ月ぐらいで終わる予定が結局8ヶ月かかりました。
そこで本題の「聞くことと演じることはどうつながっているか」について言うと、この8ヶ月間の撮影期間中でだんだん手応えを感じるようになった、というのが正直なところです。

聞くことと演じることの関係性がはっきりするような発見があったというよりは、次第に手応えを感じたということなんですね。一方で演者の参加者は、そのふたつのつながりについてどう捉えていたんでしょう。

濱口:「ハッピーアワー」の撮影時、演技を見ていて驚くことが多々ありました。この人は演技の経験もないし、渡された脚本を覚えてやっているだけなのに、「渦巻く感じ」がいままでになく起きている。そういうことがあったものだから撮影後に「あのときいったいどうなっていたんですか」と聞いたりして、だんだんと自分がやっていたことを理解していった感じです。

「渦巻く感じ」は確かに画面から滲んでいましたね。切迫感と言いますか。そういう意味では言語化できないものがしっかりと映っていたのは間違いないと思います。

濱口:結局のところ、いちばん重要だったのは、ワークショップで培った参加者同士の人間関係だったと思っています。そのことが「安心」や「勇気づける」環境を生み出したと思います。

ワークショップでは17人の参加者が聞き、話し、動いた後で車座になってそれぞれ感じたことや思っていることをフィードバックしていました。ただ感じたことを言えばいいのだけど、ワーク自体がよくわからないものだったので、言葉にならないこともあったように思います。ただ、そういう「言えなさ」に付き合ったり、その人なりの言葉を聞き取ることで、参加者全体が、それぞれの魅力を確認する時間になっていたと思います。

これは本当に奇跡的だったと思うのですが、そうした互いに「聞く」時間の積み重ねによって、参加者たちのあいだで網の目のような信頼関係が生まれたように思います。それがいちばん大きかった。
つまり「この人たちの前ならやれる」「自分という存在がここでは肯定されている」といった信頼感や安心感が結果的に生まれたんです。それが現場に持ち込まれた。僕としては、この人たちに生まれた信頼が壊れないよう、損なわれないようにどうやって撮影を運営していくか。それに注意していました。

「安心」や「勇気づける」のおもしろさは、相手を理解するよりもまずはその場やそこにいる人の態度のあり方に注視しようとしているところです。普段の暮らしでは、つい「聞く」ことを理解につなげてしまいがちですよね。ともかくわかろうとしてしまう態度からは信頼して言葉を紡げる関係性は生まれにくい。

そういうふうに知的に理解しようとする前に「完全に聞く」ことが大事なんだと思います。僕もインタビューをしていて思うのは、完全に聞くという姿勢がどうしてか他者を活気づけたり安心感や勇気づけることにつながっていくことです。因果関係はわかりませんが、経験的に理解しています。

濱口:「完全に聞く」とは「ただ聞く」だと思うのですが、おそらくは余計な聞き方をしないことが大事だと思うんです。だとしたら、ただ聞けていないときに排除されているものがどういう要素なのかということになりますね。

いま・この場に如何にフォーカスするか


話を聞く際、案外「この人はこういうことを言ったらどう思うだろうか」に知らないうちにエネルギーを割いています。目の前の人の話を感じることよりも、次に何を言うかに注目している。

濱口:そうだと思います。実は演技の問題としてネックになるのは、「これをやったら監督や観客にどう思われるんだろう」なんではないでしょうか。それを消せないと、演技に濁りが生まれる。単純に考えれば、集中してもらえばいい。ある種の集中状態に達している演技だと「どう思われるんだろう」というのがない。

「どう思われるか」に気を取られないためには、どこに注目すればいいんでしょうか?

濱口:それについて現場にあるいくつかの要素について考えないといけません。まずテキスト(脚本)と役者、ジャッジをする監督やスタッフ、そしてカメラがあります。もちろん一緒に演技をしている相手もいますが、それはテキストと不可分です。

おそらくテキストと役者の関係に、役者自身が注目していくことが問題なのだと思います。もっというと「その場自体」にどうフォーカスしていくかが大事。そのためにはテキストと監督とカメラの質の違いを理解しないといけない。
テキストはフィクションであって、僕らはリアリティの側にいます。役者の意識の中でこれらが同時にこの場に存在してしまうと、濁りが生まれるんではないでしょうか。その、余計に配慮しなくてはならないものをあくまで役者の意識の上で、ということになりますが、一体どうしたら減らしていくことができるのか。

同時に存在しているとは、フィクションを演じている自分を意識してしまうということですね。

濱口:そのときにどうやったら役者が周囲からジャッジされている、ひいては自分で自分をジャッジしている感覚を減らすことができるか。それには演者が「いま・この場」にフォーカスしていくことが大事なのだと思います。

それが難しいのは「いま・この場」において現に自分が存在していながら、現実ではない役を演じるという二重構造があるからです。

濱口:言葉で言うのは簡単ですが、演技とは、現実に生きているからだでフィクションを演じることなので、当たり前のようにうまくいかない。そういうことをしているんだと最近は思っています。決して普段生きている自分を消すことはできないし、構造上、監督もスタッフもカメラもいなくなることはできない。

しかもたいていの場合、テキストを書いているのは演者からすれば他人なので、演者は「こういう言い方でいいですか」ということにどうしてもなってしまう。それをどうするか。率直に言えば、僕は「どう言えばいいか」なんて知らない。演技の専門家じゃないんだから。「あなたが僕よりもこのテキストについての正解を知っている」とどうやって役者たちにわかってもらうか。僕は撮影において、それをおそらくずっとしているのではないかと思います。(vol.2に続く)


2017年12月24日
撮影:岩本良介

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