vol3.「時間の軛から脱した創造はきっと可能なはず」

vol.3「時間の軛から脱した創造はきっと可能なはず」

濱口:僕自身、いくつかの現場を経て、撮影現場で役者を、と言うか役者・役柄の感情を尊重することは構造的な難しさがあると考えるに至りました。
映像の現場において役者とは台本を覚えて、カメラの前で言われた通りやってくれる人として認識されがちです。あるシーンの撮影に際して「いまは始められない」と思っても、「もう時間がないからやりましょう」となってしまうときがある。

おそらく、その時に想定されているのは、役者の状態は基本的にはコントロール可能なものであって、何ならコントロールをすることが役者の仕事であるということです。役者が内心何を思っていたとしてもそれは映らない、役者がある事柄をそれらしくカメラの前でやってくれればそれで足りるのだ、ということが多くの現場では基本認識になっている、ような気がします。

そうした現場では、役者もそれに対応すべく、受け身になっていく。「監督、これはどうしたらいいですか」「どういうのがお好みですか」と尋ねる感じになります。それは違う。そういうことではない。
「自分とテキストのあいだにもうすでに正解がある」「自分自身がすでに正解なのだ」ということを、僕自身はどうにか役者に理解してほしい。

私が自らに尊厳を感じるとき

濱口:けれども僕が役者にそう言えば、そのようになれるものでもありません。実態として現場はそうではないからです。撮影現場において役柄の感情という正体不明のものを最優先にはできないのは、スケジュールがあるからです。スケジュール通りに撮り終わらないと映画は完成しない。完成しない映画は誰にも見られないのだから、スタッフの誠実さは基本的には現場をつつがなく進行させることを最優先に据えることになります。

これは誰が悪いわけでもありません。でも、その際に必ずしも画面に映らない役者の感情は、もっと踏み込んで言えば「尊厳」は、尊重されることがありません。そうした現場の中でスタッフだけではなく、役者自身の誠実さもまた、自分の感情や尊厳には向かわない、ということが起こります。

またユマニチュードの話をしますと、ユマニチュードのおもしろさは、人が自らに尊厳を感じるのは「私が他者に対して良き扱い(ビアトレント)をする時なのだ」と定義しているところです。他者を尊厳ある人間として扱うことで、自身の尊厳を感じるのだと。ケアする人たちが認知症患者と対するときに、彼らを人間として、尊厳ある存在として扱うときに、実はケアする人たちも初めて自らの尊厳を保つことができる。実は認知症患者をモノのように扱うことでケアする側が自身の尊厳を傷つけていた、という話です。それはそうなんだろうと思います。

これは役者とキャラクター、スタッフと役者の関係性においても言えるような気がしました。まず役者は、自身の演じるキャラクターを尊重する必要がある。自分の自由になるもの、コントロールできるものと思ってはいけない。そのとき、スタッフも当然、役者に対してそうあるのが望ましい。

もしも僕らが他者の尊厳を重んじるならば、「ここから何歩動いてこう言ってください」などのコントロール志向のものから離れていくはずです。「あなたがこれからやることを我々はただ見守ります」というスタンスでないと尊厳は守られない。そういう認識を映画制作のシステムが持つことは非常に難しい。どうしたらいいのか。考えています。

尹:それは映画に限らず、様々な場面で起きていることですよね。「そういうもんでしょう」で済まされ、尊厳や感情がケアされない。けれども、感情や尊厳を尊重するのが結果として効率に寄与するのだと思います。

濱口:そうだと思います。システムの中で効率が最優先される。ただ、それこそ価値の計れないようなものをつくるにはそれではいけない。『ユマニチュードという革命』の中では、イヴ・ジネストさんはこのユマニチュードという方法を導入することで、実はケア自体の効率も飛躍的にアップするのだと言っていますね。

僕の話で言えば、効率には必ずしも結びつかないかもしれないけれど、最も重要と思えるものを最優先に取り組まないと、結局完成したものに「価値」が宿らない。つまり、映画に役者たちの尊厳が記録されることがなくなってしまう。だとすれば成果はゼロに等しいですから、効率は最悪です。そもそもやる意味はない。それは確かなような気がします。

時間はこの社会において誰かと一緒に何かをするために気にしないといけないものではあります。ただ、「時間を優先順位にしない」という合意をもしつくることができたら、優先順位を違えることで、いままでできないだろうと思っていたことが可能になるのではないか。そう思うのは、小さい成功例ではあっても「ハッピーアワー」をつくったからです。もともと決めたスケジュールだと、これをやらないといけない。そういう状況だと、現実を予定に沿わせようとするでしょう。

でも、そこで間違っているのはおそらくスケジュールの方です。「ハッピーアワー」のときはその考えが、小規模なチームであるがゆえに全体で合意を取り付けられました。
自分たちがやっていることがいったいどういう意味合いを持つ行為なのか。撮影中は誰もわからないわけです。週末に集まってお遊び程度に撮影しているとも言える。そのことは、自分たち以外にとって意味のあることなのか。単なる思い出づくりかもしれない。
けれども作品になって、しかも反響を得るにつれて、現場で「すばらしい」と思ったこと、「価値」を感じていたことは、少なからぬ人が同様に感じることなのだということを知りました。ちゃんと人に届く。カメラやマイクはそれを記録する機械なのだ、と認識したことが、自分のこれからの活動の根っこになると思います。

目的地はないが価値ある方向へ進む

尹:「週末のお遊び」と言いますが、お遊びであのテンション、演技はできるだろうかと思います。どこに行き着くかわからない。でも、自分たちのやっていることにきっと信頼があったはずです。

濱口:そうだと思います。8ヶ月間、演者もスタッフも少なくとも自分たちにとって意味があることが起きている感覚を共有していたのではないかと思います。撮影がある程度進むたびに、ラッシュ上映をして演者やスタッフに公開していました。大まかに順撮りでしたから、それぞれが変わって行く様子を全員が見る過程があって、その時に「続けるに値する何かだ」ということを自然と共有できたような気がしています。それはやっぱり出ている人たちの尊厳というか、威厳みたいなものが、画面から感じられたということが大きいと思います。

ただ、それがどこまで届くものなのか。誰一人わからなかったし、確信もなかった。有名な人が出ているわけでもないし、変わった話でもない。だから賞をもらうような評価を得たことに、関わった皆が驚いているのが本当だと思います。
とはいえ一方で、何かそういうことが起きても不思議ではないような、とても価値のあるものを前にしているような感覚も現場でありました。だから「価値を感じること」に向かって行くのは、持続可能な方法になり得るとは思っています。

尹:そういう予感は映画を撮り始めた頃から持っていたのでしょうか?

濱口:いや、学生時代の撮り始めた頃はなかったです。でも、すごくいいことが起きているとは思ってました。「何食わぬ顔」という学生時代の映画ですけど、そこで人が喋っているとかそこに人がいる、ということを記録できたことに素直に感動していた気がします。それは他の人にとってどの程度の価値のものかはわからないけれど。

でも、その後の20代、映画を撮りながらそういう方向から離れた、すごくコントロール志向の強い時期があって、「PASSION」を撮る時に、それではいけないと思ったんですね。それで当時の自分なりに役者を尊重するやり方でやると「これは価値あることだ」という感情を抱くことができたし、「どうしてこういうものが映ったんだろう」と自分でも不思議に思いもしました。それ以来、役者を尊重することが映画を作り続ける上でのひとつの指針となっています。

からだに忠実に書く中で生まれる言葉

尹:脚本を書く上では、演者とキャラクターのからだが必然性のある言葉を引っ張り出してくるんでしょうか。それとも言葉がからだを連れてくる感じで書いているのでしょうか。

濱口:そのことへの直接の答えかわかりませんが、書くことで次の展開がようやく理解されます。頭で考えているうちはわからなかったけれど、実際に書いていくうちに「これしかないな」という固有のものに出会うことがあります。
もちろん時間が経って見ると「これでなくともいいな」ということも多々あります。それも含めて言うと、テキストはその時の自分のからだのドキュメンタリーみたいなものではありますね。ただ、できうる限りその時点の自分のからだに忠実に書かないと言葉に強度を与えられないような気はしています。自分のからだの「違う」というサインに敏感に書かなくてはならないとは思っています。

尹:作品ではテキストが豊かですが、セリフが少ない映画が好きだそうですね。

濱口:セリフの少ない映画が撮りたいとコンプレックスを覚えていました。映画を撮り始めた時、自分には強烈な美的なショットが撮れるわけでも、独創的なアイデアがあったわけでもない。だから脚本を書くとなると、セリフを使う他に方法がなかっただけなんです。
でも、ある役者さんが「セリフがあるのはありがたい」と言ったことがありました。目立てる、とかそういうことではなくて、セリフがあることでキャラクターを理解する手がかりが得られるし、その場にいることが楽になるからだと。なるほど、そうなのかと思いました。

僕自身、テキストを書くことで状況が限定されていくのを感じます。あるセリフを書く。そのセリフが置かれた瞬間、続く反応はある程度限定されます。そうした限定性の中で、キャラクターの傾向に基づいたリアクションが選択される。キャラクターに関してこういうことはする、しないという感覚が生まれ、それに基づいてまたリアクションが書かれて行く。そういうふうに書いていくことで自分にとって曖昧だった状況が限定され、場の解像度が上がっていきます。
だから「こういうシーンを書こう」というよりは、「このシーンはいったいどういうことなんだろう?」と思いつつセリフを書いていく。「なるほどこういうシーンなのか。ここではこういうことが起きうるのか」と書きつつ理解していく感じです。そういうプロセスは役者にも反映されるのかも知れないと思いました。

「いいえ」がもたらす定義不能な関係とその可能性

尹 一定の時間の中でストーリーが進むためには、ご都合主義にならざるを得ない。なるべくそういうものを排除したいと先だってもお話でした。そういう意味でこのところ気になっているのは、映画の外の現実です。共感を重んじる風潮が強まっています。コミュニケーションはわかりやすい落着を見せないといけないのだという思い込みがあって、それが共感をゴールにしたがっている。それは都合があまりに良すぎます。

濱口:脚本を書いていて、一つの落としどころとしてそれまでのセリフと逆のことをキャラクターにさせることがあります。というのは、基本的に人は絶対に思っていることを言えているはずがないからです。
つまり、この人たちの言っていることは、あくまで言えることしか言えていない。どれだけ真摯な会話であっても、です。

その人のありようというか、からだというか…、それが自分を裏切っていきます。でもその瞬間に、僕らは「自分はこういう人間だったのか」と気づく。それこそが自分自身の反映みたいなものかもしれません。真摯に言葉を発しようとしてもそれを裏切る自分がいる。普段はあんなに立派そうなことを言おうとしているのに。からだの裏切りによって自分を知ることはあると思います。

尹:それが明らかになる瞬間とは安易な理解や共感を阻む「定義不可能な関係性」に陥ることでもあると思います。だから、本当のことが知りたい欲求はありながらも、それを恐れもします。

濱口:確かにどれだけ近しくても他者と感じてしまうことは、人生の中で最も恐ろしい瞬間でもあります。僕は近づきたいと思いますよ。それは根源的な欲望でしょう。だからイヴ・ジネストさんが「どれだけ近づいても大丈夫、なぜなら相手は他者だから」とはっきり言うのは心強い。他者は私と相容れない存在で、自分に「いいえ」という存在。その「いいえ」を尊重する限り、どれだけ近づいても大丈夫。

「いいえ」と言われて安心する部分があるのは、「はい」と言われることでは、その人の輪郭がわからないから。人と人は互いに「いいえ」と言うことでしか付き合えないのかもしれません。「私はそうではない」と言うとき、いわく言いがたいその人や、我々の関係が浮かび上がる。「いいえ」の中に、尊厳がやっぱりあるんですよ。僕のからだだって「いいえ」と言ってしまうことがあるわけです。そして、そのとき現れるのが「いま」というものではないでしょうか。(了)


2017年12月24日
撮影:岩本良介

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