vol.2 からだの振る舞いとリアリティ

第7号 映画監督 濱口竜介
vol.2 からだの振る舞いとリアリティ

尹:濱口さんは演技において、「はらわた」で反応するだとか、演者があるセリフを言えない「からだ」に着目されていますよね。

濱口:「ハッピーアワー」では撮影を進めながら、この人はこの役を演じるというのが決まった状態で、脚本を書き換えていきました。そのときに「この人はこういうことを言う“からだ”ではないな」ということに気をつけて書いていました。と言うか、そういう風にしか書けませんでした。
これは「この人はこういうことを言いそう」というのを書くのとは違います。「この人はこういうことを言わないよな。そういうふうにはできないよな、この人の“からだ”は」なんです。

そうしたセリフを削っていくのですが、一方でドラマは進めないといけないという問題があります。これらふたつのことをどうやって同時に果たすセリフを置いていくか。細い穴を通していくような感じがあります。演者の違和感がそこではよすがになります。「違和感がある」と言われたことは、基本的には取り下げます。
ただどのようなテキストを渡すかということ自体が演出の肝でもあるので、粘り強い交渉もあり得ます。そうした僕と演者の「からだ」の交渉を経たテキストを、繰り返し本読みをしてもらった上で、現場に入ります。

尹:演技のうまい下手ではなく、からだが問題なんですね。

濱口:ここで言っている「からだ」は言語化できないし、言葉で伝えることができないものです。「ハッピーアワー」の演者一人ひとりとワークショップの期間に話す機会があったことで、僕の中では「この人はこういうふうに振る舞うんだな」という印象が蓄積されていきました。

だから「からだ」と言っても、実はそれは僕のからだなのかもしれません。脚本を書く時に、それまでに蓄積された印象を大きく越えることがどうしてもできないというだけなんです。テキストを書き進めても、「これは絶対に現場でうまくいかない。その人が言っているように見えない」という予感がしたら、そういう実感があるものを排除していきます。もちろん書いた通りのことを言うことはできるけれど、その人があるテキストを言わされているだけにとどまるでしょう。

飛躍に宿る真実

濱口:このことは共作している脚本家たちとも論理として分かち合えるわけではありません。だから書いてきたものに対して「この人、こういうことを言わないでしょ」とか「これはできないでしょ」という感覚的な言い方になることがあります。僕は脚本家であると同時に、現場でオッケーかNGを言わなければいけない立場なので、「これをやったら現場で絶対にうまくいかない」という予感があったら抵抗します。そうであっても、この判断の基準は説明がつかない。

尹:周りは感覚的な理解だと受け取るでしょうね。

濱口:そうですね。でも、自分ではあやふやなものではなくて、「その人がそういうふうになるのもそういう声のトーンを発するのも見たことがないし、演技の場でもそうはならないだろう」という確信のもとで言ってます。それをなんとも言いようがないときに「からだ」とつい言ってしまう。ある意味、便利だから使ってしまう言葉ですね。

尹:自分の仕事に引きつけて言いますと、聞き取った内容をまとめる仕事はノンフィクションでありながらフィクションの要素もあります。嘘を書くわけではなく、断片的な事実をストーリーとして綴るためには書き手の描写が必要だからです。
その際、濱口さんが他の脚本家とのあいだで起きた通じなさなと同じようなことが生じます。僕にとって「この人はこういうことを言わない」文言が読者への説明として必要だと言われることがあります。でも、「そういうことは、この人のからだは言わない」という確信があります。

濱口:それを言わないと話がつながらないと編集者は感じるわけですね。

尹:はい。でも、生身の人間は説明的に生きていませんよね。話に脈絡がなかったり飛躍があるのが当たり前です。いつでも理路整然と語れるわけがないし、辻褄の合う行動を常にしているわけでもない。

濱口:そうなんですよ。ドラマを語るということは、どうしたってご都合主義です。だからドラマをあるテキストで進めていっても、実際のからだで演じると「そうはならないよ」ということが非常にたくさん起こります。
「ハッピーアワー」の脚本は撮影中に大きく2回改稿しています。特に当初はご都合主義的展開を弾いていく過程でもありました。そうして撮っていったら約6時間の映画になってしまいました(笑)。

ただ、改稿しつつ撮影して思ったのは、後半にいたって物語が結構飛躍するということでした。いままでだったら「それはしないだろう」という行動をキャラクターがとるようになったんです。撮影後半に書くようになったそういう飛躍は「いまだったら、これできますか?」といった、演者への挑戦状みたいなものです。それは演じる場においては非常なリスクでありながら、実際に撮れたシーンをつなげてみると、「この飛躍こそがこの人なのだ」と思えました。それがご都合主義的なものには思われない。最終的に飛躍の方がリアリティを持つのです。真実があるという物言いは危険ですが…、非常に強度があるものを見ているように感じました。

尹:そのリアリティとは役柄としてのことなのか。それとも役を演じている人がまさにキャラクターを通じて現れた瞬間のことですか?

濱口:「その境目がなくなっている」と言ってしまいたいところです。けれども、大前提として、あくまで演技はフィクションです。役柄は演者のプロフィールとは関係がないし、「そういう人」を演じているのです。
僕にもわからない。僕にとっても、フィクションにもかかわらず「そういう人にしか見えない」という驚きがあるのみです。こちら側からは、「この人がなぜそういうことをするのかはわからないけれど、そういうことをやる人なんだ」というふうに見えてしまう。
実際、現場でそういうことが起きたら、迷いなくオッケーを出せます。「今日はすごかったですね」と言って終われる。どうしたら常にそれが起きるか。いまは、そこに至るために試行錯誤している気がします。

普通に演じるための練習が意味すること

尹:カサヴェテスの言葉を引用しつつ、濱口さんも「誰でも演じられる」と言ってますよね。では、演じるための練習はなんのために存在するのでしょう。「普通であること」を演技が目指すなら、普通になるための特別な練習はあり得るのか。その人がその人であることでオッケーなら、従来のプロとアマチュアという区切り方ではない何かを求めているのですか?

濱口:そうですね。演技というものは、単純にいうと芸です。演技のレッスンを重ねた人がカメラにどう映るかと言えば、「演技のレッスンを重ねた人」として映ります。芸事の洗練を極めた人、そこに向かう人として映るのです。
芸事のレッスンを重ねてきた人は、カメラにそれ以上でもそれ以下でもなくそう映ります。カメラはそういう記録の機械なんです。

このとき、多少ややこしいのは、映画の演技自体が僕らの現実生活のように見せることをある程度志向していることです。舞台の演技はそうでなかったのだと思いますが、カメラの前で演じることは、どこかそうした現実らしさへ誘われるようです。
でも、映画を見ていていまのもの、昔のものと眺めて感じるのは、記録されているのは、多くの場合その時々の観客が受け入れやすい演技のモードに過ぎない、ということです。

洗練されたものは洗練されたものとして、下手なものは下手なものとして映りますが、どちらも演技として記録される点では変わりない。それは単にそういうものでそこに良し悪しはありません。ただ僕の場合、芸の洗練は必ずしも撮りたいことの中核ではないため、別に芸事として演技のレッスンを重ねた役者と仕事することは必須ではありません。

尹 洗練されたものとそうでないものを区分するのではなく、エッジを見たいのでしょうか。僕らは無意識のうちに社会から承認された行為を「洗練」「巧み」と呼んで価値づけています。熟達した果ての行為はもちろんすばらしい。

しかし、たとえばです。取材で鹿児島にある知的障害者施設「しょうぶ学園」を訪れた際、自閉症と呼ばれる人たちの作品を生み出す行為や音楽の演奏を間近に見て、「ただやる」「ただ弾く」の強度に驚きました。
彼ら彼女らは他人の評価にかなうための努力をしないから、いきなりすごいものをつくり出す。そうなると健常者が行う熟達に向けた努力はなんのためにあるのかと考えさせられましたし、ただ行うことにはかなわないのだと思い知らされました。
「ハッピーアワー」のおもしろさは、そうした「ただ行う」の片鱗を演者に垣間見るところです。

濱口: その可能性は大いにあると思います。ものすごく単純な問題がありまして、基本的に「ただ動く」人や「ただ言う」人と一緒にドラマを作ることはできない。コントロールできない。「このセリフを言ってください」と言っても、本人はその理由がないからやらない。ただやる人はそうなんですよ。それが魅力的なんです。

でも僕は現状、ドラマをつくりたい。では、どういう人がドラマとしての演技をやってくれるかというと、演じたい人です。しかしながら演じたいと思って演技のレッスンを重ねている人は、必ずしもカメラによく映るわけでもない。
僕もしょうぶ学園を扱ったドキュメンタリー映画「幸福は日々の中に」を観ました。あんなふうにカメラの前にいられたらどんなにいいだろうと思いました。けれども、彼らとはいわゆるドラマはつくれないだろうとも思いました。

「ただ演じる」ために必要な定義不可能な関係性

尹:健常者の場合は何かの手立てや環境設定によってなるべく他人の視線から逃れ、自分に集中できる状態を招くしかないのかもしれません。


濱口:
その方法をずっと模索している感じですね。ある集中状態においては、役者は「ただ言う」「ただする」に近づくように思います。そのとき演じている同士が定義不可能な関係性に入っていくような気がしています。「いま」という時間の中に入っていく。
たとえば、家族と一緒にいるっていうのは、実は「家族」という過去の関係性のパターンをなぞって暮らしているだけです。でも、家族ということになっている人と対していて、知らない人を見るような、これまでの日常の中では定義不可能な関係性に入っている瞬間が必ずあります。そういう瞬間に僕らは激しく動揺するわけです。

尹:だから距離が近いほど親密さの代償としてか、真に迫ることを言わなくなります。

濱口:いままで知らなかったその人と出会うみたいな感覚がある。それは危険な時間です。でも、その動揺こそが「いま」という時間の先端にいる感覚であって、生きていることを実感する瞬間なのだとも思います。その瞬間をカメラは写し取ることができると、現在僕は考えています。なので、そういう瞬間がどうやったら映画の中で、演技を通じて起こせるかということが僕の関心事なんです。

尹:通常の演技では、それは成り立ちにくいのですか?

濱口:役者同士のあいだで基本的にそういう関係性が起きにくいのは、演技というのが相互依存的なものだという認識が、特に映像の現場で持たれていないからだと思います。単純に言うと多くの場合、個々の役者がただ、独立した演技のモードを持ち寄るだけになってしまう。

まず脚本があってそれに対する個々の解釈が、そのまま個々の役者の演技のモードになります。単に「この役ってこうだよね」という演技のモードを持ち寄ることは、いわば過去の定型を繰り返すことになるし、カメラはそれをそういうものとして映します。そこでは、かつて見たことのあるものが映っているだけです。動揺はなく、驚きもない。

僕らが友達だ。上司と部下だ、恋人だ、という過去の関係性を繰り返してお茶を濁しているのと同じです。それが揺れる瞬間に立ち会うためには、役者同士がいま本当に何かと出会わないといけない。役者は自分が記憶したテキストを口にする。演技というのは、そういうものです。でも、互いに反応することができたら、「聞き合えたら」、それはただの棒読みや自分勝手な表現とも違うものになっていきます。役者も監督も、スタッフも、その場にいる全員が初めて、そのテキストの本来の意味や響きを知ることになります。

相互の反応を通じてのみ、初めて役者は「いま」という時間の中に入っていくことができる。そこで起きていることは役になりきる、とかそういうことではないと思っています。そのとき口にしているテキストがたまたま恋人同士が発するようなテキストであるなら、そこで生じた役者同士の関係性の揺らぎが、恋人同士の関係性がいままさに揺れ動いているようにも見えるという、それだけなのだと思います。
でも、役者がバラバラのモードでお茶を濁してしまうのは、本当は現場全体の、どちらかといえば環境の問題だし、言ってみれば我々スタッフ側の問題なんです。役者がそういう危険な時間に入っていくために重要なのは、やはり安心してもらったり、彼らを勇気づける環境が条件になると思っています。

尹:「PASSION」では本音を言うゲームがあり、「ハッピーアワー」では隠されていた出来事が明らかになっていきました。定義不可能な関係性をつくるために意図的に組み込んだ展開でしょうか?

濱口:意図して作っているわけではありませんが、物語自体が自分でも知らなかった自分を発見していくものである場合、役者が定義不可能な関係性を演じる場をつくりやすくなるのかもしれないと思っています。

コントロールしない映画づくりは可能か?

濱口:多くの演技は「恥をかかないこと」に特化してるように見えます。それは責められないところがあって、人前で本来ならやらないことを監督はじめスタッフという大勢の前でするからです。それは結局フィクションとは関わりのない社会的な目線によるジャッジを受けながら、現実社会では褒められないことを多くするものです。そうなるとジャッジされ、本当に傷ついてしまうような事態を避けるために、多くの演技は、自己防衛的なものとして発展していくように思います。持続可能な、演じ続ける方法としてそうなってしまうのは当然ではないでしょうか。

何となく、歌舞伎のように型がある場合は、そうなりにくい気がしますね。それは自分の内面を発露する、リアルを志向した演技とは距離をとったものだからと思います。けれども20世紀半ばから主流になった自身の内面を表現するタイプの演技は、究極は自分をいかによく見せるか。悪くは見せないかになっていきます。
「ハッピーアワー」をやって思ったのは、演技経験のない人たちは、単純にどうやったら自分を守れるかをまだ知らないということです。多くの監督がそういう人たちと好んで仕事をする理由も理解しました。そういう人たちが演じた方が、うまくいくのはある種当たり前です。

でも、それはそれで問題があると思いました。結果的に、そういう人たちが身を守る術を知らないことを利用してもいるからです。そんなやり方で映画を作っていいのかという葛藤があります。いままた、職業俳優の人たちと仕事をし始めているのはそういう思いからとも思いますが、根本的な解決ではない。自分自身の問題を克服する必要がある。

尹:監督がコントロールすることに問題があると感じている?

濱口:そうですね。話は飛躍しますが、演出に関する問題というのは、究極的に人を愛する上での問題に似てくるんだと思います。愛とコントロールというのはずいぶん対極なものでしょう。それを手放す必要は常に感じています。
だから、なおのこと『「ユマニチュード」という革命』で「それができたらどれだけいいか」と思ったのが、この件でした。

「適切な距離感を保つとき、相手は私の所有物となり、私の一部とみなされています。適切な距離感があるがゆえに、私は相手を一方的に操作し、管理します。つまり私は他者の独自性を認めていません」

尹:監督と役者という適切な距離感を保つことが最もコントロールを可能にするのだという認識があるわけですか。

濱口:はい。だから互いを本当に理解しようとすれば、適切な距離感を保つのではなく「近づくことしかできない」はずです。そこで必要なのが「哲学的な距離」だとイヴ・ジネストさんは訴えているわけです。なるほどと思いました。

尹:「哲学的な距離」とは「相手は私の所有物ではない」という認識から生まれ、操作を可能にする関係性に入らないことです。「私はあなたではない」からこそどこまでも近づくことが可能なのは、それが受け入れがたいことやコントロールを意図したものであれば、「ノー」と言えるからです。

濱口:「自分に権力がある限り、その人に近づき、その人を好きになることはできません。しかし、権力をすべて放棄した時、絆が生じ、相手を本当に好きになることができるのです」と書かれています。
僕は、そのための方法をまだ発見してはいませんが、それができたのなら本当にすばらしいことだと思います。(vol.3に続く)


2017年12月24日
撮影:岩本良介