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5月11日の街頭で

5月11日、博多でレイシズム集団がヘイトスピーチを行うと聞いた。カウンターの一員となるべく天神まで出かけた。これまで東京でのカウンターに加わったことは2度。4年ぶり3度目の参加となる。

2013年の流行語大賞にもなった「ヘイトスピーチ」だ。人種・国籍・民族・性別・宗教・性的志向など、個人の属性について憎悪を煽る表現が流行となる事態を何と形容すればよいのかわからないが、ともあれ流行したのだろう。
その一方、どれだけの人が誰が誰に向けて、どのような言葉を具体的に浴びせかけているのかまで理解しているだろうかと思うと、そう多くはいないのではないか。そうでなければここまで聞くに堪えない言葉が野放しにされていなかったろう。


レイシスト団体は「朝鮮人は殺せ」「ゴキブリは叩きだせ」といった、ルワンダのツチ族虐殺において重要な役割を果たした千の丘ラジオのような極めて悪質なアジテーションを行ってきた。当初はこれはネット内だけだったが、いつしか街頭に吹きこぼれてきた。個人的には、彼らの言説が雪崩を打って街頭に溢れだしたように感じたのは2009年、カルデロン一家に対する悪質なデモあたりからだと感じている。

不法滞在により強制退去処分を受けたカルデロン一家に対し、「犯罪フィリピン人カルデロン一家を日本から叩き出せ!」といった文言を口々に叫び、カルデロンさんの子息の通う中学校や通学路まわりをデモと称し、練り歩いた。
あからさまに生命の危機を感じさせる威嚇行為が法的に問題ないのがまったく信じられないのだが、お咎め無しに気を良くしたかレイシストはついにヘイトにまみれた言葉を路上で恥ずかしげなく撒き散らし始めた。

僕が初めて彼らと直接対峙したのは2009年11月だ。朝鮮大学の学祭に彼らが押し掛けると聞き、駆けつけることにした。当日、三鷹署は指揮車2台に公安5人、警官を20余人張り付かせていたものの、蓋を開けたらレイシスト集団の参加は35人程度で対してカウンターとして集まった有志は53人。おそらく僕以外は全員日本人だった。この日は朝鮮大学と警察が事前に綿密に協議しており、大学とレイシストが直接的に接点を持たないよう対策を練っていたため、彼らの行動は空振りに終わった。

僕はどうしても身体が気になるので、しばらく彼らを観察していたが、腹からでも喉からでもなく、頭上のどこかわからないところから出てくるような、素っ頓狂の「心ここにあらず」としか思えない甲高い声や回旋運動の少ない腰と首の鈍さがすごく気になった。薄い言葉をつなぎ合わせることでしか息を継げない人の悲しみを見た気がした。むろん同情なんかしないが。

続いては2010年10月、秋葉原で「排害社」という名は体を表すを地で行くレイシスト集団をはじめとする団体のデモが行われると知り、ともかくこの様子を見ようという呼びかけが、Twitter上で野間易通さんによって行われた。野間さんは後の首都圏反原発連合の立ち上げに関わり、「レイシストをしばき隊」さらには対レイシスト行動集団C.R.A.C(Counter-Racist Action Collective)という今のカウンター活動のきっかけに関わった人だ。

彼らは街を練り歩き、口にするのも憚られるような言葉を使い、中国人を罵倒しまくった後、オノデンに向かい「中国人だけを歓迎してるのか。この売国奴」「祝日に日章旗を掲げているのか!」「おまえの店は不良品を売りつけているのか」「日本人の怒りがわかるのか」「尖閣は日本の領土か中国の領土か答えろ」と口々に罵声を浴びせる。

僕はカウンター賛同者のつくったビラを配るだけしかできず、何もできなさに屈辱を感じたけれど、野間さんはそんな個人的な感慨に留めることなく、あの日以来いろいろと考え、ヘイトスピーチを実力で阻止する対抗言論活動を編み出したのだなと思う。毀誉褒貶喧しい人ではあるけれど、秋葉原の現場で直接行動を起こしても逮捕されるのはこちらだし、そんなことを毎度繰り返すのはアホらしい。もっと有効な、それこそレイシストをしばく手立てを考えたという意味ではとてもクールな人だと思う。

レイシストをしばき隊もC.R.A.Cもレイシストを極めて公然と痛罵、悪罵、面罵する。それに対し、「どっちもどっちだ」「暴力では何も変わらない」といったようなことを言うとても良識的だが味方にも敵にもならない人たちがいる。「この期に及んで」と個人的には言いたいところだが、僕はそういう人には「寝言は布団の中でなんぼでも言えや」としか思わない。

たぶん彼らは物事には正しい答えがあると思っている。誰も傷つけない処方箋があるという理想をもっているんだろう。それはそれで悪くないけれど、それはあなたの夢想の中でやって欲しいと思う。
あなたの正しさ願望に付き合わされ、あなたの信奉する公正さによって、目前で起きているとても酷い状況が捨て置かれる。あなたが誠実に思索した分だけ正しさに行き当たるのだと信じ、そのツケを僕らが払わされてしまうのは、たいへん不合理かつ不公正だと思う。「どっちもどっちだ」とは公正さではなく、ジャッジに他ならない。あなたの立場が偏向しているかもしれないことを疑ってみて欲しい。

僕は言葉について考えることを仕事にしているけれど、僕と彼らを分けるのは「言葉が嘘であるかどうかを知っているか」の差だと思う。言葉を積み上げれば正しい認識に至れる。そう思えるのだとしたら、そういうふうに見たいからそう見えるだけのことで、言葉はどこまで行っても本当には行き当たらない。
僕がここで「花」と言ったところで花が咲くわけではない。だが平然とありもしない花について話をすることはできる。まったく本当ではない話がいくらでもできる。

言葉が世界を作り上げているのではなく、言葉以前の世界に僕らは生きている。
そして生きる上では、自らの存在を実力で確保せざるを得ない局面が必ずある。生きることはそれくらい問答無用さをもっており、誰に教えられるでもないはずなのは、それは本能に根ざしているからだが、その領域にまで良識的な人たちが正しさにかなうかどうかをあてはめたがるだとすれば、どれだけお行儀よく育ってきたんだろうと思う。

僕には理解しかねる思考法がさまざまにあることがこの間わかった。

レイシズムは問題だとわかっているのに、それを問題だという人たちの中でも様々な考えの違いがある。中には考えの違いだけを前面に押し立てて、自分の正しさを証そうとしているとしか思えない人もいる。人々が生きるこの社会の問題について考えるはずが、いつの間にか自身の葛藤をそこに食い込ませるものだから、すごく捻れた言説ができあがる。

たとえば、昨年大阪で「仲良くしようぜパレード」が開催された。これは一連のレイシズムの盛り上がりに対し、ハードなカウンターではなく、もっと緩やかに参加し、考えるきっかけをもとうと企画されたパレードだ。一見、何の問題もないのだが、この企画が持ち上がった段階で「仲良くしようぜとは差別の温存である。マイノリティに同化を求めるものだ」とか「仲良くしようぜ」の「ぜ」が男性中心主義の性差別主義であるという指弾が始まった。

人は誰しも自分の見たい現実しか見ることはできないのは確かだ。だとしても、自分が何を見ているのかには注意深くあることはできる。だからせめて自分の言っていることをまず自分で理解する必要があるのだが、その余裕を自分に与えないまま言葉を発する。それもまたひとつの正しくあらねばならない葛藤のなせる業かと思う。正しさによって自他を罰するほかやり方を知らないのだ。

この数年、そういう正しさを巡る争いから距離を取りたいと思っていた。正しい考えさえ身につけば物事は正される。そのためにあれやこれやと言説を積み上げる。彼らは社会を変革するのではなく、そのヒエラルキーを勝ち上がることによって社会的な承認を得たいのだ。だとしたら、何ら革新にいたらない個人的な葛藤を持ち込んだゲームから降りようと思った。

そこでこういうふうに決めた。

 社会がどうあれ個人的に生きていく。
どれほどヘイトスピーチが蔓延しようと個人的に受け取らない。
傷つくことを自分に許さない。
彼らが規定しにかかる現実とまったく異なる現実に生きていることを実存をもって証明する。

だから「この社会に属しながら、この社会に与しない」姿勢で生きていくと決めた。それは隠遁者でも傍観者でもなく、ジャッジせずただの目撃者であろうと決めたということだ。

では、なぜ4年ぶりに再びヘイトスピーチを専らとする団体のカウンターに参加したのかと言えば、「社会がどうあれ個人的に生きていくこと」と言っても社会とのつながりが消えるわけでもないし、意味がないわけでもない。

「個人的に生きる」とは、日々を意識的に生きることだが、そのとき社会との関係はデタッチとアタッチの微妙なところに位置する。社会とは他者である。究極的に自他は分けられないが自己は独立している。自己は独善的でしか生きられないが、それだけでも生きられない。
それゆえ、この社会が機能不全になるのを防ぐ役割を果たすのも、僕が個人的に生きるために必要なことでもある。社会もまたナマモノなのだから、そうやって手をかけないとまわっていかない。
溢れだした憎悪の言葉で社会の底が抜けてしまう前にやらなくてはいけないことがある。だから再び街頭に出た。

プラカードを掲げていたら、怪訝な面持ちをした信号待ちの女子中学生数人が何をやってんですか?」話しかけてきた。ヘイトスピーチについて説明したら、「そしたらあいつらが敵ってことですか?」と怒った口調で言う。

敵であるかどうかは立ち位置で変わるから善悪ではなく、この社会を見渡したときに成すべきことをしたいだけなのだと説明するには、信号が変わるまでの時間では足りなかった。彼女たちは半ば納得、半ば不満気な表情でこちらを何度か振り返りつつ立ち去った。

理解しがたさが残ったとしても、いずれそれが考える種になってくれたらいい。そう思って見送った。

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コスモポリタニズムとレイシズム

 コスモポリタニズムという語ににわかに新味を覚えた。

 きっかけは当世に吹き荒れるレイシズムについてつらつら考えたことにあるが、自民族中心主義を遥かに越え、憎悪を逞しくするあれらに対抗するに世界主義をと言えば、夢想家の戯言に過ぎると嗤われることは百も承知だ。

 でも私は夢想家ですよ。だから抵抗それ自体には興味がなく、ただ強度のある空想が新たな現実を構成するのだと信じています。いくら夢想だと嘲られても、熱を帯びて語られていた時代があったことを思うと、あんがい旧いの一言で片付けられない何かを感じる。

 とはいえ、神戸生まれの私はコスモポリタンと聞くと、まずは1926年、ロシア革命から逃れ日本に亡命したヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフを思う。バレンタインにチョコレートを送る習慣を日本に導入したとされるのは、モロゾフが神戸に創業した製菓会社モロゾフで、その後の経営陣との悶着で彼はモロゾフと袂を分かち、コスモポリタンを創業する。

 いまは廃業してしまったコスモポリタンだが、往時は高級菓子として神戸市民に馴染みがあった。つまりはコスモポリタンは、異国情緒を思わせる言葉の響きとチョコレートの甘い記憶として私の傍らにある。

 コスモポリタンはコスモポリタニズムを掲げる。モロゾフにとっての世界主義は何を意味したろう。

 革命後に誕生したソビエトには思い入れのひとつもなく、かといってモロゾフは日本国籍を取得することもなかった。帰化するには日本式に改名する必要があり、それに抵抗を感じたからだという。彼は生涯、無国籍だった。どこにも根を持たず生やさない。

 モロゾフという己の名を冠した会社が共同経営者に掠め取られた後、立ち上げた会社がコスモポリタンだ。社を追い出されたのであるから、同じ名をつけることはできないにしても、モロゾフからコスモポリタンといった、個人の名から世界をひとつの共同体と見る立場を名としたわけだ。
 固有名を失い世界市民へ、と言わんばかりのこの道行きは、ある種の物語を感じさせないではいられない。失うことで世界市民の地平に立つことが初めて許されるとでも言うような。

 では何を失ったのか? 言うまでもなく国を、故郷を、よすがにする根を失ったろう。そうした痛苦を伴う喪失体験の字面を眺めるのではなく、それが身に刻まれた出来事だと、わずかでも体感するとき、どれほどの時間が経とうとも私はそこに痛みを感じないではいられない。

 だがしかし、痛みが膿んでしまうと厄介だとも思う。
 人は痛みのあまり失った国、忘れがたき故郷、つまりは過去に埋没するほうに己を歩ませることもできる。どうしてこのような憂き目に遭わなければならないのか。その思いが高まれば、「ありえたかもしれない」幻想に自己を沈めていきもする。
 痛みはやがて生々しさを失う。喪失から喪失感に移ろい、痛みを思い起こしては己を確認するための都合のいい記号として国も故郷も扱い始める。取り戻せ、奪い返せ。幻想への埋没と記号化への道は自己憐憫に人を誘う。

 思えば自己憐憫への道をまっしぐらに突き進んでいるのがレイシストではないか。彼ら彼女らはなぜか自分たちが被害者だと思っている。自己憐憫を十全に生きており、そして幻想に、記号に発情している。国家や歴史、民族を彼我を分ける記号として扱っており、現に味方でなければ敵だと、世界を記号の二極に分けることにひたすら専心する。

 国も故郷も記号に丸め込まれるような代物ではない。それは私の生きた記憶、私の情感を育てた風景そのもの。国家や故郷は、“国家”や“故郷”という言葉に収斂などされない体験であり、為政者やならず者の思惑の寸法に切り詰められるようなものではない。

 レイシズムは幻想に憎悪を募らせる。幻想というのも、人は属性など生きていないからだ。どこの国に生まれようが、どの民族であろうが、記号など生きておらず、常にあるのは日々の暮らしであり、ひとりの人間であり、高尚さもあれば卑俗にもなり、本当のことを言いもするが嘘も吐く。崇高さと悲惨さを体験して死んでいくひとつの魂を持った肉として生きている。それが現実の一切だ。

 現実は身も蓋もなく善いとも悪いとも言えない。生きていればありきたりでしかない、この理屈以前の事実が彼ら彼女らはわからない。理解を遠ざけるのは、彼らが「自分は被害者である」という自己憐憫の物語に陥っているからで、敵は彼ら自身なのだが、そこに気付くには己で耕した空虚さを見つめなくてはならない。かろうじて掴んだ生きがいを手放す体験は、死を思わせる恐怖そのものだろう。

 そうして思う。コスモポリタニズムが熱を帯びたのは、国家がまとわせる湿気の高い憐憫に満ちたロマンを遠ざける乾いた思想であったからではないかと。
 
 世界主義は乾いている。
 私の生きた切実な記憶、私の情感を育てた大切な風景。確かにそうだとしても、これらが固有の守るべきものとなって情緒纏綿さを帯びた物語になったとき、私もまた排外に身を乗り出すだろう。記憶は記憶、情感は情感。それらはもはや過ぎ去った。乾きとは、現実を見ることだ。
 この時代、乾きが必要だ。自己憐憫の物語が人生を駆動させると思い込み過ぎている。

 モロゾフは生涯、無国籍だった。
 国家を選び取れない無/国籍なのか。あるいは国家に信奉を持たない無国/籍だったか。乾いたコスモポリタニズムは国籍の刻印すら否定する後者を取るだろう。失ったものは国であり故郷であったが、それへの郷愁はコスモポリタニズムには至らない。

 「失うことで世界市民の地平に立つことが初めて許されるとでも言うような。では何を失ったのか?」と先に問うた。何を本当に失ったのかといえば、痛みを過去を失ったのではないか。

 失うとは喪失感に道を開いているとは限らない、それは喪失感という足跡を残さず、痛みを過去を憐憫を手放すことにもつながっている。
 その乾いた、手応えのない少し寂しい感じは孤独ではあるかもしれないが、存外悪くないと思う。

 

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博多の思い出6

僕には特技があって、それは街を歩いていると「ここは昔、蘆が生えるような湿地だった」とか「川が流れていたはずだ」と特に予備知識があるわけでもないのにわかるところだ。湿気が嫌いなせいなのか何なのか。どうしてわかってしまうのだ。こればかりは他人に説明しようがない。

東京で暮らしていた頃、つごう10年ばかり千駄木という街に住んだ。この辺りは谷根千(やねせん/谷中・根津・千駄木)と言われる寺町で、路地がまだ残るような町割りのため、ノスタルジックな雰囲気を求めて観光客も多く、以前ミシュランで紹介されたせいかフランス人も多い。


千駄木のような本郷台地と上野台地に挟まれたアップダウンの多い街は非常に好みで、坂の上は日当たりもよく、基本的に陽気な気配なのだが、道を一本隔てただけで、そこを通るのがなんだかためらってしまうようなところが多々あった。そのときは、まだ自分に湿気に反応するような特質があるとは知らなかったので不思議に思い、宅地化される前の明治あたりの地図を見てみたら、わりと湿地が目立つような土地だとわかり、ひとりでそうかと頷いた。

そうした自分の体質から街を見ると違った風景が現れてきておもしろい。どこそこにうまいパン屋があるとか、かわいい雑貨が売っているとか、観光名所があるだとかグーグルグラスみたいに街にかぶせられたポップやタグといった文字に還元されるような情報ではわからない、地形が伝える情報、というか土地の顔つき、震えみたいなものが見えてくる。

「どうしてこんなところに店を出したのだろう、どう考えても流れが悪いだろう」。とか駅や住宅街から離れていても繁盛する店だと「なるほど」と思うような、顔つきは土地はしていたりする。「流れ」と聞くと、なんのことだかと思うかもしれないけれど、雰囲気や気配と置き換えればいいだろうか。
その程度のことを察知するような感覚を人は持っているのだけど、やっぱりグーグル先生に尋ねるだけの毎日ではそういう力は日に日に衰えていくばかりだろう。

初めて福岡の天神に来た時、やっぱり湿気を感じたのだけど、鎌倉辺りまで海底だったと後に知って、自分の湿気センサーは中世くらいまでは計測できるらしいとわかってちょっとおもしろかった。究極言えば、地球は海の底だったので、僕の感覚が探れるのも中世あたりまでなのかもしれない。

この天神という街は、たとえるなら原宿と代官山と青山と渋谷をぎゅっと集めたような街で、歩いて回れる使い勝手のよさがなによりいい。そう思うと電車に乗って移動しなくては目的地にたどり着けないという配置は、ある意味で分断された状態なのかもしれない。

それに東京に行くたびに「駅ナカ」が増えていくのを見ると、分断された上にお金を落とすような整然とした人の流れとして自分があからさまにカウントされているのがわかるから、そういう変化がすごく気になる。
新宿のベルクがルミネから敵視されるのは、新宿の動線からすれば、あの店の引っ込んだところの位置取りが淀みや溜まりに見えてしまって、ルミネが演出したいプラチナ感とそぐわないからなんだろう。

スイカでピッとタッチするたび、デカい網の目をかけられた街のありようのコマを埋めるような存在として自分が扱われているんだろうなと感じる。東京で味わっていた自由さというのはなんだろう。博多に越してきてからそう思うようになった。等し並であることを受け入れた個人であることを失うことで得られる限定された自由度なのかもしれない。でも地方にはない自由なんだと思っていたら、案外そうではないことに九州に来てから感じるようになった。

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博多の思い出4

前回のブログがえらいリツィートされていてビビりましたが、今週からまた通常運転に戻ります。
というわけで「博多の思い出4」です。

博多に越す前の僕は部屋を借りるときは不動産屋に行っていた。
そんなの当たり前だろ?と思うかもしれないけれど、よくよく考えてみれば「そういうもんだ」といつから思うようになったのか。不思議なのは、心当たりもないままに「そういうもんだ」と思うようになった自分だ。

それに不動産屋ではいつも居心地の悪い思いをしていたのに、どうしてわざわざ毎度不動産屋に依頼していたんだろう。

居心地が悪いというのは、僕みたいに外国籍の場合、不動産屋が「問題ありませんよ」と言ってくれても、大家が断る例もいまだに多いからで、無問題と言う反応もここ10年くらいの話で、以前は「ペット可・子供もふたりまで可・外人不可」みたいな条件が堂々と記載されていたりしたものです。

それに加えて僕みたいにフリーランスとなると断られる率はぐっと高くなる。
それでも良心的な不動産屋に巡りあえば、いろいろ物件を見ることができたけれど、それはそれで見えてきたことがあって、東京23区では7万円以下の物件は建築物として異様に貧しい造りだということだ。

キッチンに必要な換気扇が玄関の脇に設置されていたりとか建具がぺっらぺらであるとか、ハウスメーカーと工務店の事情とか、住人の生活ではなく数字の辻褄あわせに従った結果、「こんなのできました」みたいな、まともに建築について考えたら建てようと思わないだろうというような物件といっぱい巡りあった。なのに僕はアホみたいに「部屋を借りるのに不動産屋を通すしか方法がない」と思い込んでしまっていたのだ。

震災後、とりあえず西へという目論見で定めた地が博多だったがとりあえず土地勘はない。ざっと地図を眺めて、人の話を聞いて、グーグルで「博多 カフェ」とか「雑貨」とか軟弱な検索をしてみた結果、「薬院あたりがいい」と思った。
あとで知ったのは薬院という街には九電や西部ガスの社長が住むなどそれなりの高級住宅街だった。不動産屋に行けば、プレカリアートの身では不相応だということにしかならないし、実際そうだった。

とにかく街を歩いてみようと当て所なくぶらついていたら、再開発の進む街には不調和なコの字型した木造の家が庭を挟んで建っていて、大きな木と壁をはう葉に覆われたカフェがあった。名前を「ふら」という。なんとなく惹かれて店に入ったら、。店の主人はコムデギャルソンとか似合いそうなすてきな女性だった。

僕が明らかにこの辺りの者ではないという雰囲気だったのだろう。しばらくすると「旅行ですか?」といったふうに尋ねて来、「いや部屋を探しているんです」というと紙を取り出すや地図を描き、「ここに行ってみるといいですよ。大家さんはそのマンションの隣に住んでますから尋ねるといいです」とメモを僕に渡した。驚くというよりも「来た!」というか「求めよさらば与えられん」という展開に興奮した。
コーヒーを飲み終わると、僕はさっそくマンションに向かった。

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博多の思い出3

博多とのつながりはヤクザが取り結んだわけで、その後10年あまり経って原発が爆発した。あの日を境に、日本全体がタルコフスキーの「ストーカー」の“ゾーン”みたいになった。そりゃ渋谷ヒカリエに行けばキラキラしているし、伊勢丹メンズ館に行けば自意識過剰の店員とモードの犠牲者みたいな客がたくさんいて、「本日も特に問題なし」な現実は引き続き存在している。

でも、どこかでこの現実に破れ目ができたことを知っていて、それは僕だけではないはず。
不確定なことが多すぎたから「三十六計逃げるに如かず」と西に拠点を設けることにした。

「大丈夫だ、安全だ」という冷静な声があるのはもちろん知っているし、「いいや、そんなことはない」とそれに対する否定的な根拠と論がある。考えることが多すぎてやがて考える事自体がどうでもよくなるような時期もあった。

ただ忘れていなかったのは、「なんの問題もない。状況はコントロールされている」と「問題だ!」という綱引きを傍で眺め、どちらかに感情的に入れ込んで、肩入れした分だけ理屈で自分の信念を逞しくしていく、そういうプロレスには参加すまいと思ったことだ。

「これが現実だ」と互いに思っている冗長な現実は現実そのものではなく、あくまで「現実めいた現実」だ。よくできた紛い物だからこそ、ありありとしたリアリティを感じる。「私にとって」のリアリティに他ならず、それは現実とは本当は関係がない。

東京から離れて暮らす先は、生まれた神戸や大阪でもよかったわけだけど、神戸も大阪も20世紀をまだやっている感じだ。特に神戸にタワーマンションがぼこぼこと建っている様は無残だった。大震災が起きても大丈夫な建築物を、と意気込んだのだろうけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつにしか見えない。それに建築家やデベロッパーはわかっているはずだ。将来的にタワーマンションが不良債権化することを。加えて、野村総合研究所によれば、2003年のペースで新築(約120万戸)を造り続けた場合、30年後の2040年には空き家率が43%にのぼるという。

目先のことしか考えられなくてもやって来れた20世紀型のモデルからいまだに離れられない神戸にさほどの未練はない。いまだに好きな喫茶店、中華料理店がある。そこを訪ねるだけで、いや僕にとっての神戸はそういう場所をつなげた星座の中にしかもうない。大阪はといえば、あのような知事がいるような街なので論外だった。

2011年から始めた東京と博多の暮らしは2013年秋から博多ひとつになった。LCCだと往復で1万円もかからない日もあるし、飛行機で2時間もかからない。取材を終えて博多で書いて、ネットで原稿を送ればいい。距離をパスする技術を特別の能力がなくても手に入れられる時代なのでありがたい。

ありがたく思いながらもこう思う。このパスは「これが現実だ」と互いに思っている冗長な現実に過ぎず、止まったものに対するパスでしかない。決して、いまは視界に入らない誰もいないスペースに向けたパスではない。博多は便利で規模の小さい東京で、ここに暮らすのは(気候をのぞいて)快適だが、文脈は変わらない。

来年はスルーパスを通したい。蹴り出すのは僕で、パスを通す相手は自分なのだが。幻想を共有してお金を稼ぐことを人生だと倒錯してしまった現実めいた現実から完全に脱落するのではなく、半歩外から観察する場に立ちたい。

ほどよく適度に開けた街から隔絶というほどは離れていないところに里山だとか湧水なんかがあって、そこで芋とか玉ねぎなどを育てながら、「土に触るって楽しいねぇ」などと暢気に言い、ペレットでストーブを焚いたりとか、「生活は遊びじゃねーんだぞ!」と怒られながら「でもやるもんね」と食う寝る遊ぶをしたい。

だから博多を離れるかもしれない。もう少し南かあるいは瀬戸内かはたまた長野あたりか。うん、ようするにどこだっていいわけで、自分の暮らしを立ち上げたい。食料不足だとか水不足だとか、生きているあいだに「それみたことか」と自分の正しさを証明したいわけじゃない。

ただの暮らしを行うことで、現実の何たるかを知りたい。自分の身幅の暮らしを知りたい。自分にとって必要なお金、食料、エネルギーを知るという、ひどく当たり前のことをこの歳になるまでやって来なかったから、今から始めることにする。