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博多の思い出2

どれだけの時間、車に乗っていたのか記憶に定かではないけれど、同乗した親分(仮にAさんとしておく)の携帯のメロディがDA PUMPだったのとネクタイがミッキーマウスの織り込まれた黄色いネクタイだったことは刻名に覚えている。やがて本部らしき建物に着くと、例のごとく「ごくろうさまです」の合唱に迎えられ、玄関に入ると真ん前にはデンと置かれた虎の剥製が。

その脇には若い衆の詰め所みたいな部屋があり、建物に据え付けられた監視カメラの映像が常時映しだされる12面くらいのモニターがあるのだが、そのうちの2つは「笑っていいとも」を映しており、若い衆はお茶を飲みながら画面を眺めている。

大広間に集まった親分たちに1時間ばかりインタビュー。むろん僕らは客人であり、ジャーナリスティックな迫り方をするような媒体でもないので、和やかな雰囲気ではあるから、それは彼らの一側面しか見えていないのは重々承知の上で思うのは、この人たちは家へ帰れば家庭があり、そこでは夫であり、父であり、ときには子供に無視されて「最近、子供が話をしてくれない」みたいな悩みもあったりとか、凡庸な生活者の顔をやっぱりもっているという、ありきたりの事実だった。別にそういう話を彼らがしたわけではないのだけれど、話をしている最中に靴下のほこりを取ってみたり、お茶を飲むしぐさに「いつもこういう感じで啜った上で卓上に置くのだろうな」という、その人の生活のリズム、生活の柄を感じると、自然とその人たちの普段の立ち居振る舞いみたいなものが見えてくる。

僕は人付き合いが下手で、うまく話もできないし、密な関係も取り結べないので、人間から遠く離れて暮らしたいと思うことは多々あるけれど、やっぱり人が好きだと思う瞬間があるのは、たたずまいに触れたときなんだと思う。
ある次元や価値観のもとで「そういうもんだ」と思われているところをはみ出した像というか匂いを感じたとき、人というものの愛しさを感じる。ただの人間が生きている事実になんだか穏やかな心持ちになる。

インタビュー後、A親分の車で再び市内へ。
ホテルへ向かうのかと思いきや、車は博多の祭事「博多祇園山笠」を行う櫛田神社に着いた。

Aさんは「もうすぐ山笠が始まるんですよ」と、それきり言葉を切り上げ、僕らを積極的に案内するでもないような足取りで境内を歩く。彼なりのおもてなしというか、郷土への愛着があるんだろうなと感じて、そういう押し付けがましくないのって好きだなと思った。

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博多の思い出1

 ヤクザ業界における「ロッキング・オン・ジャパン」と言われる(といっても、僕が勝手に言っているだけだけど)「実話時代」の仕事で福岡へ来たのは、たしか2004年くらいで、どうしてかというと、ここ福岡は中学生が学校に拳銃を持込み、てっきりモデルガンだと思った教師が取り上げ職員室で撃ったらホンモノだったとか、ロシア製の自動小銃やマシンガンを用いての抗争や組事務所の倉庫に対戦車ロケットを隠し持っていたなど、まあ熱い話題に事欠かない。そういう土地で一本独鈷でやっている組の親分は何を考えて切り盛りしているのか?というインタビューのために博多へ来たわけです。

 待ち合わせは、とあるホテルのラウンジでエントランスホールに入った途端、たなびいとるわけです。
たなびくと言えば、「春霞たなびく山の桜花」だとてっきり思っていたけれど、暗雲がダークスーツを来た一群の上に漂っているわけです。

 「おつかれさまです」と若い衆に向かえられ、ひと通りの挨拶を終えると、ホテルから車までにレッドカーペットこそないけれど、アカデミー賞の会場へ向かう際の人垣みたいに、脇に若い衆が立ち並び、僕らは客人として用意された車に親分さんとともに乗り込む。道路に走り出た別の若い衆が後続の車に頭を下げて止めて、僕らの乗った車が走り出すまで見送る。

 僕は周囲の車の運転手の表情を見ていたけれど、どうも「そういうもんだ」と理解しているような感じがあった。「そういうもんだ」というのは、社会というのは堅気による堅気のための法や秩序で成り立ってはいるけれど、表があれば裏があるように、それとは別のロジックや流れというものが、この社会には歴然とあるんだ、ということへの同意がなされている。そういう了解の仕方のことだ。

 それは健全ではないと暴力団は撲滅しなくてはいけないなどと言われたら、僕はそれは健全にとりつかれた病だと思っている。
 法という明確な言葉でこの世を仕切っていくことに血道を上げる人がいるのだが、明確という語が表すようにこの世にあまねく光を差し掛け、ほの暗いところを追いやり、グレーゾーンをなくすことが良きことで正しいというならば、一本調子の考えで世の中を均していく暴力以外の何者でもない。

 「これが良きことであり正しいことだ」という考えしか許さない社会はまったく健全ではない。こういうことを言うと、「反社会的な存在を許すのか!」と怒る人がいるのだが、僕だってヤクザが好きかと言われたら、あまりお近づきにはなりたくない。
 けれども「反社会的な存在を許さない」というとき、頭の中で彼らの存在を消しているし、それを正しいし、まっとうなことだと思っている。頭の中で否定しきれることが恐ろしい。

 あいつらときたらろくでもないし、迷惑しかかけないし、人の弱みにつけこんだ生き方しかできない連中だ。確かにそういう人もいる。それはいわゆる堅気の世界のろくでもなさと利己的で人の弱みにつけこんだ生き方をすることが良いことだいう身振りに合わせて存在している。いわば鏡の存在だ。
 堅気の社会は努力しない人間はダメなやつで、自己責任が大事で、競争に負けるということは能力がない証なのだということを穏当な言い方であれ、同様のメッセージを日々学校、職場、家庭で教育され続けている。表の世界が恨みつらみと葛藤と他人を否定する暴力に満ちている。陽が強くなれば影もまた濃くなるように、己に似姿を僕は彼らに見る。

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そして博多

長らく更新が滞っていました。

ズベさん作、ド迫力の鉄製のバイクの前で。

しばらく原稿にかかりきりで、何を書いていいのやらわからない状態だったのですが、ようやく一息つけたので、また通常のように書いていきます。
博多で暮らし始めて1ヶ月半くらいが経ったわけだけど、この街や九州の風土について少し綴っていきたいと思います。

リヤカーをぶった切ってつくられたバイク。

震災以後、東京から博多や熊本に移住した人も多いようで、先日も熊本の現代美術館に“ズベさん”こと藤本高廣さんの個展「鉄魂ブギ」を見に行った帰りに(ズベさんについてはこれからも登場することになるでしょう)、かねて気になっていた「さかむら」に寄りました。

ハート型を用いた作品がけっこうあって、これがズベさんの本質なのかも。

さかむらの亭主で花人の坂村岳志さんも震災以後、西麻布の店を畳み、熊本に移住したひとりなんですが、その店が普通に歩いていたら見過ごしてしまうような一軒家の一階で、ドアもアルミサッシで外観は見事に変哲もない。昔でいう東屋でしょうかね。

ところが店内には唐、高麗渡りの花器や古代中国の木製のカードゲームが置かれていたりと、まあおしゃれなわけです。

いちばん僕が感じ入ったのは、変哲もないドアに柿渋に染めた短い暖簾がかかっていたことで、長いと邪魔になるから手で払うのだけど、それが掌を広げたくらいの短さだから、手で払うよりは自然と頭を下げる格好になる。あとで気づいたのだけれど、この仕草がちょうど茶室のにじり口をくぐるような按配になっていて、 扉を開けると利休の正面に割れの入った竹の花入れを模した作があるわけです。
ちょっとやられたって思いましたね。こういう趣味人が熊本にいるのかと思うと、ちょっと見方が変わってきます。風流の匂いが街に流れだすなんて素敵な話です。

って博多じゃなく熊本の話になってしまいました。いまのところ僕の印象では、東京に広尾や代官山、原宿という街があるなら博多は広尾、代官山、原宿がぎゅっとひとつの街にコンパクトに約まっていて、熊本になると広尾みたいな人、代官山みたいな人といって具合に個人が街になっているイメージがあります。

東京の住人のほとんどが地方出身者ですが、東京のシステムをつくったのは田舎では十分個性を発揮できないと思って、個人がちゃんと立っても押さえつけられない自由を求めてきたわけでしょう。ところが、僕が東京に20年住んで思うのは、個人が立てる場を求めたはずが、いまでは個性が立っていきていけるだけのシステムのほうが整備されすぎていて、それに乗っかるためには課金しないといけない。だから逆に個人が目立ちにくくなってきているという感じを受けました。

たぶん僕が東京から住まいを移した理由は複層しているけれど、そのうちのひとつは個がもう少し立った世の中で生きてみたいと思ったからで、はじめから熊本みたいな街に住むのは、なかなかハードルが高いので、ちょっと中間的な博多を選んだんだと思います。

博多との縁は10年ほど前、「実話時代」というヤクザ業界の専門誌の取材で訪れたのがきっかけです。
「実話時代」という雑誌を知らない人もいるかと思いますが、この雑誌ははさしずめ極道業界における「ロッキング・オン・ジャパン」的な役割を果たしていて、コアなファンがいます。たとえば歌舞伎町と桜田門近くの書店でよく売れたそうです。

この誌面の巻頭インタビューで、ある組の親分さんに話を聞くために博多に来たわけです。
続く

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2010年12月27日 vol.10

8月31日に東京は千駄木のマンションの契約を解除し、荷物を送り出したのだが、引っ越し間際になって生活用品の数々が壊れ始め、最終的にはパソコンがオシャカになってしまい、すべてのデータが消えるなど、てんやわんやがあったのだけど、これを幸いにと少し長めの夏休みのつもりでブログの更新もおやすみしていました。

さて、僕は東京から少し離れたところに住み始めたわけですが、東京のマンションがなくなってみると、けっこうどこにいても同じだなという気になり始めて、これなら思っていたよりも早く、かの聖ユーグの言うところの

「世界のあらゆる場所を故郷と思えるようになった人間はそれなりの人物である。だが、それにもまして完璧なのは、全世界のいたるところが異郷であると悟った人間なのである」

という心境に近づいたかなって思えて、少し嬉しい。

「2010年12月27日」というタイトルで始まったこのところの一連のブログだったけれど、当初はオチめいたものを考えていたけれど、書くうちにどんどん脱線してしまったので、これを脱線と考えず、別のルートに乗ったと思って書くことにします。

なんで博多に引っ越しするの?と聞かれることも多い。これから一年ほどかけて鹿児島のしょうぶ学園に取材するという理由もあるけれど、だったら鹿児島に住めばいいわけだ。
博多に土地勘はあまりないし、知り合いもほとんどいない。震災後、東京から離れた人は博多よりも熊本のほうが多いみたいで、そこで博多というリトルトーキョーみたいな街を選んだのはなんでか?という振り出しに戻るわけだけど、答えは「なんとなく」でしかない。

それにこれが引っ越しなのかというと、仕事のフィールドは東京なので月に一度は東京に行き、一週間くらいは暮らす。だったら東京に住み続ければいいじゃんと思うし、うっかり僕もそう思ったりするけれど、でもこの先、居心地のいい街(千駄木は僕の育った岡本に次いでイイ感じの街で10年近くも住んじゃった)で、これまで通りの仕事のやり方で暮らすという反復を続けることに心地よさを覚えるのは、なんか違う。

自分自身の体感としては心地いいけれど、その体感に殉じてしまってはいけないというアラートがすごく鳴っている。どこから響く音なのだそれは?と問われたら、身体からとしか言いようがない。

警告音は汚染水が地下水に達したからとか福島第1原発4号機の倒壊だとか、予測されるリスクのみに依拠しているわけでもなさそうだ。というのもなんだかわからないことが起きているときに取るべきは、兵法から言っても逃げる、遠ざかるで、そのため移住した人もそれなりにいるわけだけれど、僕は移住した先で穏やかなこれまで通りの生活をしたいから越したわけじゃない。

たぶん僕は「東京は福島から250キロ離れているから安全だ」とオリンピック開催地の選考にあたっての記者会見で言ってしまえるような、つまり「福島は安全ではないし、そこは我々の日常とは違うから」というふうに分断して続行できてしまえると思えるシステムから抜け出たいんだと思う。

僕は逃散したいんだと思う。逃散とは徴税のシステムに耐えかねた農民が、一揆だとかの目に見える抵抗ではなく、逃げてしまうことでシステムの網目から出ようとした、権力が「これが現実だ。受け入れろ」と規定しにかかる現実をジャンプしてみせる。

着地点はどこか?といえば、それはいまはわからないけれど、「泣くよかひっ飛べ」でやってみないと、きっと後悔する。それだけはわかる。

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2010年12月27日 vol.9

 2013年8月12日の今日、僕は博多にいる。今月末には東京の住まいを引き払って博多で暮らすつもりだ。

 博多で食べる魚は肉厚で超絶に美味い。東京でよく聞いた「今朝、築地で仕入れたばかりの」の文句がいったいなんだったんだと思うくらいで、雲泥の差だ。

 福島第一原発から海に流れ込んでいる汚染水が1日300トンだという。その報道を頭の片隅に置きつつ、刺身を食べ、舌鼓を打っていると「いつまで魚を食べられることかわからないな」と思いつつ、この300トンという膨大な数字にまったくリアリティを覚えない自分がいる。

 たぶんそれは「東京電力ならやりかねない」という怒りにももうならない、ため息ひとつと300トンを取引すれば現実をやりすごせる感覚があるからで、あたかも自然現象のように捉えている自分がいるからだ。
 それに気づいたとき確実に精神が眠り込み始めている自分に平手打ちをしたくなった。そして、これは何かに似ていると思ったら、あれだった。太平洋戦争を体験した人が戦争がいつの間にか終わって、気づいたら終わっていたというような、自然現象のように眺めていた人の心性だ。そう、広島と長崎で二回被爆した人も「爆弾が降るのも雨が降るのも変わらない」と漏らしていたのだった。それを聞いたときの衝撃といったらなかった。でも、自分の感慨もその人と変わらないかもしれない。

 死んでからいくらでも眠れるから生きているあいだはせめて起きていないと。

 こういう書き出しで始めてしまったが、前回とのつながりがまるでないので、元来た道に戻ることにする。そう、しょうぶ学園の話題で終わったのだった。

 住まいを移すことを決めたのは、3.11が引き金だが、博多を選んだのは多少馴染みがあったのと、スターフライヤーとたいへんクオリティーの高い飛行機を使えば、博多ー東京間が1万円代で行けるという交通の便のよさと、そして鹿児島にあるしょうぶ学園の施設長の福森伸さんにインタビューを継続的に行うためだ。

 しょうぶ学園は世間的には「障害者支援施設」という衣を被っているけれど、それは偽装で静かに革命を行なっている拠点だ。ビルを爆破することも自動車に爆弾を仕掛けることもないし、本屋で檸檬を置くようなこともないけれど、物質には影響を及ぼさない爆風が人の心を吹き抜け、何かを変える。そういう力があそこには宿っている。

 普通の障害者施設では社会的に価値のあるとされる商品をつくり、社会との接合をはかる。そこでは皿のような皿、服のような服をつくるための学習、習熟、訓練が行われる。つまり労働だ。

 しょうぶ学園でも軽度の障害をもつ人はマスプロダクトに近い作業を行う。そういう契約のもとお金を貰う。けれども労働して賃金を貰う、賃金を貰うから労働するという「概念」を理解できない人がいる。

 健常者の世界では労働ができないと生きていけないし、能力がないとみなされる。しょうぶ学園では、それを無能力ではなく、たんにできないことはできないと捉えている。

 できないことはできないのだから、「できないこと」をさせない。そのかわり彼らは仕事はできる。自分だけの仕事が存在する。それは社会的な価値(評価やお金に換算できるもの)に向かわない、紙をちぎる、糸を結う、木に傷をつけるという行為として存在する。

 それは他の誰かのようになりたいためではなく、誰かから誉められたいわけでもない。独自の仕事であるがゆえに他人との優劣を競わない。だから評価が発生しない。
 しかし、その評価を求めない行為が僕らからすればアートに見えたり、すばらしい製品に見えたりして、値段をつけたくなる。僕もそのひとりで行くたびに何か買ってしまう。

 福森さんは「障害を持つ人は自己満足に徹しているので他人からの評価を求めていない」という。その話を聞いて思ったのは、なぜ僕らは比較し善悪正誤を考え、他人の考えから自己をジャッジしてしまうのか。そのサイクルにはまる限り、決して自己満足は訪れないにもかかわらず。

 僕らの自己満足は「いつか願いがかなったらいいな」という自己実現に向いがちだ。でも彼らを見ていると、木を彫るという努力抜きの行為の中に直ちに満足が表れている。そう、彫るやちぎる、縫うには努力が必要ない。彼らは呼吸するようにそれらの行為をしている。
 
 僕は彼らを見て気づいたのは、誰ひとりとして怠けていないということ。そして遊びと仕事がわかれておらず、ただ行為だけがあることだ。
 つまり、僕らが怠けたがるのは、労働に対してなのだ。できるようになった上で行うことに対して僕らは忌避感を実はもっている。

 いわゆる健常者の集う社会は怠けることはいけないことで、労働に向かわない「非社会的な行為」は削除されなくてはならないと思い込んでいる。そして広がっているのは一面の焼け野原。