第2号 「ラブピースクラブ」代表 北原みのり

Vol.4 怒りがもたらす希望ある世、人とのつながり

尹 : 韓流ブームの煽りを受け、コリアンタウンの広がる新大久保は駅の営業収益が前年比3割アップした月もあるそうです。
僕も何度か新大久保に足を運びましたが、とりわけコーヒープリンスがすごくて、詰めかける日本人の女の子たちの熱気はすごいものがありました。熱気というか、あれは性欲の発露だと思いましたけど。

北原 : 若い子だけでなく、60代の女性もライブで声をあげて踊っているし、韓流スターと握手したら手を離さないし。韓流が彼女たちの何かの扉を開けたのは確かです。

私がはまったのは、単純に男の身体って美しいんだなと初めて気付かされたからです。たとえばジョージ・クルーニーとか、ああいうムンとした色気や男らしさは、ハリウッドやヨーロッパにしかないもんだと思っていたけれど、アジア人でもあったんです。

美しさに価値を見出す男たちの発見

pre02_01_04_p01北原 : アジア人である自分の身体感覚がちょっと底上げされる感じがあるから、だから女たちも楽しいんじゃないかな。で、周りを見ると「そのだらしない身体を鍛えろよ」と思う男性が多いわけです。見習えよと思うわけですよ。

尹 : 僕も周りにいる女性から聞きます。「胸に厚みがある」とか「背筋が伸びている」とか。

北原 : 韓流スターのインタビューを読んでいると、「身体がきれいでいること」を大事に思っていることが伝わってきますよね。

ウォンビンが「ヴォーグ」で「美しい俳優になりたい」ということをインタビューで答えていました。これ、日本の俳優からなかなか聞いたことがない言葉です。少なくとも役所広司は言わなさそう。

美しいことに価値を置いている男がいたことに新鮮な思いをしますよね。美しさにジェンダー的な意味を負わせていた日本とまったく違うところで男の人が美に懸けている。これはびっくりしたし、身体に対する意識が違うなと思わされました。

尹 : そういう韓流への着目のされ方を見ていると、在日韓国人三世である自分の場合、ひたすらジャパナイズに勤しんできたこれまでの人生は何だったのだろうと思いますね。

北原 : ムダな努力だったんじゃないの(笑)。

尹 : 一世や二世を見ていて、むき出しだとこんなに生きづらいのかと思って、社会の規範に従い、品行方正になっていくという平均値を選択した。
そしたら、いまの世の中では整序された身体よりも、ある種のむき出しさやしなやかさが歓迎されるようになっている。なんだか皮肉なことになっています。

素朴なコミュニケーションのもたらす信頼感の厚み

尹 : ところで、かねて疑問だったのは、韓国社会はけっこうマッチョだし、マザコンが多いけれど、韓流にはまる人はそこに気づいているのか?ということです。

北原 : そこは難しいですね。私が新大久保界隈で見る限りで言うと、韓国人の男の子に「日本人の女性についてどう思う?」と聞くと「やさしいから好き」という言い方をする。「舐めてもらっては困る」と思うわけですよ。

たぶん深く付き合うと嫌になったりすることがあるだろうなと思いますよ。でも、いまはファンタジーとしての韓流で、実際に付き合ったりするのは20代の子だろうし、実際、合コンパーティーもいっぱいあるから、これからいろいろ問題はあるでしょう。

私が取材しているのは40代で、彼女たちは自分たちを取り巻くリアルな日常を生きているし、そもそも結婚した女で「男社会はこんなものだ」という諦めをもたない人ってほとんどいないから、どうせ威張られるなら、まだイケメンに威張られたほうがマシというのがあるのかもしれない。それはすごくわかりますよ。

私が逆に聞きたいのは、コミュニケーションの違いについてですよ。新大久保のハンドマッサージのお店に行ったら、接客してくれた若い韓国人の男の子との話が途切れないんです。

3年くらい通っている美容院で、若い男性スタッフが「冬と夏、どっちが好きですか?」と聞くので、「冬」と答えたら、「そうですか」。それで終わり。だから何? ですよ。
美容院なんて表面的な会話で十分かもしれない。それでも、あまりにもひどくない?

その美容師さんはね、私に全然、質問しないの。仕事のことも絶対に聞かない。
逆に韓国の男の子は初対面で「仕事なんですか?」って普通に質問してきた時に、ちょっと嬉しかったんですよね。

尹 : 美容院の店員さんは、プライベートに配慮した奥ゆかしい人なんですよ。

北原 : そうかもしれない。でも、ひとつわかったのは、聞いてはいけないことがあるのだとしたら、それは聞かれたほうが「聞かないで欲しい」と言えば済むということ。

韓国人の子は「話したい」という気持ちをもっていて、それが伝わってくることが多いんです。なんというか、人と人との距離への信頼感の厚さが違う感じがするんですよ。

「こういうことを言ったらこう思われるんじゃないか」という空気を読むことに普段慣れているから、ぐいぐい迫る勢いに驚く。でも人を怖れない感覚がこんなに気持ちいいことだったんだって思い知らされました。

尹 : 身体ってたえず何かの仕草や表情をともなっているし、それを表すほうがコミュニケーションとして自然ですよね。空気のやり取りというのは、ある意味高級ですが、それだけだと疲れます。僕が韓国に行って驚いたのは、感情表現の直接さと過剰さですよ。

北原 : 「涙を禁じえません」という表現とか、その涙にしても「涙の上にさらに涙」みたいな盛ってくる感じがします。

尹 : わかります。哭泣とか嗚咽といった語は身体表現なんだって向こうに行って初めて知りました。

北原 : 込めている感情が日本の1.5倍はあるなという言い回しを使うから、通訳を聞いているだけでおもしろい。そのまま直訳すると笑えるけれど、なんかいいのよね。どぎまぎしてしまう。
日本も昔はそうだったと思いますよ。事故が起きたら大泣きするおばさんもいたし、テレビの前でも怒鳴ったり、騒いだり、泣いたりしていたんだし。

迷惑か否かを掟とする社会の息苦しさ

pre02_01_04_p02北原 : 最近、電車の中でよく目にするのが、人が立っていて通りにくい場所でもまったく声もかけず無言のまま通る人で、ああいうのを見るとぞっとする。チッと舌打ちされるほうがいい。まだコミュニケーションがある。

そういう閉ざされたがゆえの息苦しさが至る所にあるのを感じます。たぶん、みんなも感じていると思うんだけど、なぜこういう流れが止められないんだろう。

尹 : 僕も何度か電車内で目にした光景があります。声の大きい幼い子どもに母親が指を口に当ててシーッっていうんです。しゃべるたびにシーッっていうから、そっちのほうがうるさい。
子どもは等身の言葉を話そうとするから、どうしてもその子にとって必要な声の大きさになってしまう。その当たり前を大人が封じ込めようとする。

そのとき感じたのは、親は子どもを見ているのではなく、周りからのプレッシャーを「シーッ」で表現しているんだってことでした。迷惑かどうかに対する配慮がものすごくある。

迷惑か否かが法よりも優位な規範みたいになっていて、脱原発デモに対して「周囲の迷惑を考えない」と言う人を見たときは、ひっくり返りそうになりました。生命を脅かす問題よりも迷惑が関心事の上位に来るってヘンでしょう?

嫌なことには嫌だと言うことワガママだという。同調圧力を感じさせる言葉がそこら中に溢れている。

翻訳できない「嫌よ嫌よも好きのうち」

北原 : この前、ドイツへ行ってフリーセックスのパーティーに行きました。そのとき日本のセックスにまつわる事情をうまく説明できなかった。たとえば「嫌よ嫌よも好きのうち」って英語にもドイツ語にもできない。ドイツ人にすれば、ナインなのかヤーなのか?どっちなの?と思うよね。

尹 : ナインかヤーはその場の空気次第でしょう。ところでフリーセックスのパーティーってどういうことが行われているんですか?

北原 : キットカットクラブというベルリンでは歴史的に有名なクラブで行われる、フェティッシュパーティーなんです。
巨大なクラブですが、あちこちでセックスが自然にはじまる。女友だちと一緒に行きましたが、とても安全な場であることを感じました。何と言っても、自分の意志が何よりも尊重されることがすぐにわかったから。ノーといえば、ノーです。ここまでと言ったらそれ以上はない。

尹 : 「嫌よ嫌よ」は、嫌に決まっているってことですね。

北原 : そうやって言葉が言葉として通じる社会だから、「こんなところに来ているんだからいいだろう」というようなことが起きない。日本だとそうはなれないと思うんだけれど、それだけに不思議だった。

キットカットクラブにルールがあるとしたら、おそらくクラブの外にある社会のルールと変わらない。何をしてもいい。けれどそこにいる人によって守られていることがあって、それは「人は人。自分は自分。だけど両方大事」ということではないかと思います。
つまりベースに信頼があって、ちゃんと言葉が通じるし、自分の意志を伝えても空気が悪くならない。そういう社会っていいなと思います。

怒りが育む他者とのつながり

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尹 : 以前、上野千鶴子さんが北原さんを対談相手に指名した際、その理由を「あなたはずっと怒っているでしょ」と仰ったと聞きました。物事を諦めないから怒り続けられると思うんです。北原さんが諦めてしまわないのは、もっといい世界があるはずという期待からですか?

北原 : もちろんもっといい世界がなくちゃ困ります。でも、これは希望とは違うんです。自分でもわからないな。考えるより先に身体が動く感じはありますね。

先日、電車のドア近くに大学生くらいの女性がいて、近くに少し酔っ払ったちょっと怖そうな風体の若い男性がいた。たぶん威圧的な感じがしたから嫌だったんでしょう。彼女がすっとその場から身を引いた。

そしたら男がいきなり怒鳴り始めて、「なに自意識を感じてんの。バカじゃないの」と言った。乗り合わせた人はみんな聞いているけれど、聞こえていないふりをしていた。

昔の私だったら「ふざけんじゃないよ」と、その男に突っかかったかもしれない。でも、いまの私はそういうことしないので、彼女のところへ行って、「本当に嫌な奴ね」と男とのあいだに入って彼女と話した。

彼女は「ありがとう。本当に怖かった」と言ってくれた。もしも彼女が誰からも声をかけられず家に帰ったら、きっと怒鳴られたときの恐怖が残るでしょう。

そういう事態に対し、大人が怒らなかったり、「それは間違っている」と言わないとしたら、何事が起きようと「自分と関係ない」と言えてしまえる社会が簡単にできあがってしまう。それが嫌なんです。

怒りがあるのは、私が希望をもっているからじゃなく、何か起きたときに「嫌だ」と思える瞬発力があるからだと思います。
咄嗟の判断をせず、「人それぞれだから」「自分には関係ない」にしてしまえるのは、自分の判断を放棄するということで、これは圧倒的に間違っている。

尹 : 正解というものが自分の外にあると思っているから、自分で判断できなくなるんだと思います。

北原 : そう。たとえば、ひょっとしたら「彼女が何かをしたから怒鳴られたのかもしれないから、いますぐ言うのはまずいんじゃないか」とか「もう少し状況を見てから参戦しよう」とかね。そう思っているうちに事は終わるから。

いまの社会では、瞬発的に判断できる感覚がすごく損なわれているのを感じます。だから、そういう感覚をもっていたい。そうでないと死んでいるように生きることになってしまいますから。(了)


2011年12月26日
撮影:渡辺孝徳

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