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生活の柄

ロスジェネという使い勝手のいい言葉が出回り始めたのは、ここ5年くらいのことだろうか。雨宮処凛さんや岩田正美さんに話を聞いたとき、ふんふんとヘッドバンギング並にクビを振ったものだ。

社会に出る前は、「働くことで達成されていく何か」みたいな、先行世代から引き続き渡されたリストめいたものがあると思っていて、端折って言えば小奇麗な部屋であったり、車を買うことであったり、ともかく経済基盤を築くことで整然とした暮らしが手に入るというもので、それが市民社会に参与するということであり、一人前ということだ、とどこかで思っていた。

つまり自己実現と社会階層の上昇はリンクする。それを約束するのが労働であるからして、「額に汗して(ときには過労死したとしても)パンを食え」「働かざるもの食うべからず」という文言で叱咤されるわけだし、そこになにがしかの正当性を認めていた。だから、みんないそいそと就職活動なんかしてしまったりするのだ。

ちなみに最近では「働かざるもの食うべからず」が「働かざるもの生きるべからず」くらいにハードルはあがっていて、なんかもうかつてのブブカくらい(しかも自分で設定したわけではない)高さに誰もが挑戦しているように見えるものだから、僕はリンボーダンスみたくバーの下をくぐりたい。

いまでは自己実現と社会階層の上昇の重なりは、お伽噺だということは周知の事実になっているけれど、当時はそうは思えなくて、単純労働をいくら積み重ねても生活基盤は築けないし、薄暮の灯火ほどの明るさもないこの生活の柄は己の無能さによるものだという断じ方だけは疑うことがなかったのだ。

扶桑社の仕事を瞬時に失ったのち、僕は「MEN’S CLUB」の別冊をつくっていた小さな編集プロダクションでバイトをすることになった。
とりあえずびっくりしたのは、ファッション誌をつくっているにもかかわらず、全員ファッションセンスが討ち死にしていて、ストライプのシャツの下がいきなりマドラスチェックのパンツみたいな、錯視を起こさせたいのかなんなのか、その目的がわからない格好をしている人ばかりだった。

それも驚いたけれど、賃金のほうもなかなかのもので、時給500円で14時間労働という、どんな罰ゲームだよ!という代物で、完全に労働基準法違反なんだけれど、そのときは「仕事ができるだけでもありがたい」といった、すっかり奴隷根性が板についちゃっていて、それでいて「働けど 働けどなお わが暮らし 楽にならざり じっと手を見る」といった、自分の陥っている状況を文学的にだけはちゃっかりとらえるという、超面倒クサいことをしていた。

自己実現と自己卑下と自己憐憫と、どこを切ってもその断面は自己ばっかりで、金太郎飴か!

僕に圧倒的に足りなかったのは教育だった。
教育が欠落していたから、他人からの評価と他人が用意した階梯を登ることをもって成功とか実現とかいうような、他者の思考とシステムに乗っ取られることを喜びとする隷属を疑いもしなかった。他人の夢を夢見るというありえないことを僕は自らに課していて、つまり眠ることを生きることだと取り違えていたのだった。

というような、わずかばかり考えれば届く考察に達することもなく、僕は毎日14時間働き、昼ごはんを食べる時間もないので、「ばかうけ」か「歌舞伎揚げ」で済ましていて、体重はどんどん減った。

ぐるぐる働いていても仕事が終わらない。終わらないのは仕事の段取りが悪かったからで、いまとなっては上司のスケジュール管理がなっていなかったからだが、僕としては実務にかけてはとびっきりの演算処理能力の低さを遺憾なく発揮していたので、自分のせいだと思うところ大だった。

でも、そういう態度でいるとヴァルネラビリティ(攻撃誘発症)を喚起するようで、上司は何かにつけて僕をどやしつけるようになった。

当時、僕はまだパソコンのキータッチができなくて、指一本でキーボードを叩くという「バイエル」にも届かない、たどたどしく弾く「ネコ踏んじゃった」レベルだった。

それに業を煮やした上司はある日、「イーッ!」と奇声をあげてデザインの際に使う雲形定規で僕の指をパシっと叩くや、「もう一度!」と命じたのだった。なんのピアノレッスンかと。

こうしてアレグロ!(速く)そしてマ・ノン・トロッポ!!(しかし過度でなく)の叱咤と定規で手を叩く音は深更に及んだのであった。

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ILLUSIONからの帰還

坂口恭平さん(新政府初代首相)主宰のILLUSIONが7月28日、熊本で開催されると聞いた時は、そのメンツが七尾旅人さんにPUNPEES.L.A.C.Kが出るとなれば、これは行くしかないでしょ、というわけで行って来ました。

まず熊本に着いてpavaoでご飯を食べて鋭気を養い(ここは本当にうまいので熊本に行ったらぜひ寄って欲しい)、いそいそとライブ会場へ。歩いて行ったんだけど汗だくになって、やっぱり南国の熊本はめちゃくちゃ暑い。

七尾旅人さんの演奏中に無理にでも入ってくる坂口さん

ライブ開始。最初は坂口さんの漫談を交えた弾き語りで「train train」や「魔子よ、魔子」、少女時代の「gee」などを披露。相変わらずのカッティングに、うめぇなと言うしかない。

次いで七尾旅人さんが「ILLUSIONの雰囲気を盛り下げるからね」と「圏内の歌」「サーカスナイト」などを披露。中でも電気グルーヴの「虹」をギタレレ一本で表現していて、なんというか震災以降、七尾さんの中で何かがあったのか完璧な音を目指している感じがして鳥肌が立った。(この日の「虹」に多少なりとも近いのは、KAIKOOでのライブかな)

明け方になるにつれ元気になる

とにかく後は踊りまくりの朝まで4時。朝まで踊ったのは3年前まで行っていたWIREぶりで、中途、七尾さんから「見覚えある人がキレのある動きをしているなと思っていたら尹さんでしたか」と声をかけられ、齢42でもまだまだヤレるようです。

4時半にILLUSIONも大団円を迎え、僕らはゼロセンターで仮眠を取り、朝6時半からやっている近くの銭湯「城の湯」で湯を浴び、紅蘭亭で円卓料理を堪能。1575円で太平燕に酢排骨、干焼蝦仁
、清作鶏、かた焼きそば、杏仁豆腐が食べられるというから、コストパフォーマンスはめちゃ高い。子供の頃から食べている人が大人になって家族を連れて来ている感じの、店が提供する伝統ではなくて、生きた連続性が感じられていい店だった。

食後に博多へ移動。博多も熊本かそれ以上に暑く、つい夜もクーラーをかけて寝てしまい、そんで風邪をひく。

でも翌日は約束があって、平尾のふらへ微熱を押して行く。
約束というのは、この店に通ううちに、おしゃべりをするようになった女性と会う約束をしていたからで、彼女は昨年、東京から博多へ越してあまり友人がいないよう。長らく専業主婦をしていた彼女は初めてひとり暮らしを、ひとりで生きるということを選択した。二言目には「あ私みたいなおばさんが…」だったのだけれど、最近はあまり口にしなくなって、「この前、九州電力前へのデモに行ってきたんですよ」と、なんかこう端々に積極的な様子が見られて、僕よりひとまわり上くらいの人だけど、なんだか愛しくなってギュッとしたくなってしまった。

彼女を見ていると、社会的に名付けられなかっただけの、手付かずの能力があるのに、それを意味なしとみなされ、また自らも無意味で無能力だと思ってきた様子がうかがえ、ここに来て人生の意味を取り返し始めているように感じて、なんだかその場に立ち会っていると思うと感動する。

博多で知り合ってお茶を飲んだり、メル友になった人はすべて女性でだいたい50代以上で、彼女たちと話していると五味太郎さんの『おしゃべりしていればだいじょうぶ』な空気感で、そんな雰囲気の中で珈琲を飲んだり、ジェラート食べるのなんていい感じでしょう。

福岡城から眺めた花火

夜は大濠公園で花火を見た。40万人という人出だと聞いたけれど、隅田川みたいな激コミになるイベントでもならず、こういう規模感の都市のサイズって余裕があっていいなと改めて思いつつ、今朝の始発の便で東京へ帰ってきた。

空港で朝ごはんを食べながらツィートをチェックしていたら、官邸前デモの中核を担っていた首都圏反原発連合のメンバーと野田首相が会見するとのことで、さっそくそれに対する賛同、非難の声もあるようで、賑やかなことです。

仮定と予見とで主義主張を唱えるこのよくわからないミルフィーユ状の声の重なりに、僕らが現実と思っているほど現実ほどILLUSIONじゃないかと思ったりして、博多で買った舞城王太郎の『SPEEDBOY!』のページをめくったら「誰かの感じる限界が、他の人間に限界を作ることだってあるんじゃないのか?」と書いていて、なるほどそりゃそうだなと思った辺りでバスは吉祥寺について、JRに乗り換えて西荻窪で降りた僕はあまりの暑さに甘いっ子で宇治ミルク金時をかき込んだのだった。

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文痴

常々感心することなんだけれど、いま誰もがブログだとかツィッターで文章を綴っていますよね。これ、本当にすごいなと思うんです。

といのも僕は30歳くらいになるまで、他人が一読して読めるような日本語を書くことができなかったからです。
いや、これは誇張しているわけではなくて、本当のところ。

僕が神戸へ行っているあいだに勤めていた番組制作会社は、大手の取引先と揉め事があったみたいで、急遽人員を切らざるを得なくなった。
それで白羽の矢が立った?僕は久方ぶりの出社初日にクビになったわけで、さてどうやってこれから食っていけばいいのだろう、とさほど深刻でもない調子で考えていたら、その数日後に大学時代の先輩と話す機会があり、彼はひょいと「ライターに向いているんじゃない?」と僕に言った。

たぶん先輩にすれば適当に言ったんだろうけれど、僕は「そんなもんかな」と思ってみて、でもよく考えたら世の中にライターという仕事があるのをそのとき初めて知って、へぇと思った。それくらい世事に疎かった。

紹介されたツテをたどっていくうちに扶桑社が発行している週刊「SPA!」の編集者に、さらに部内の編集者を紹介してもらうことになった。
その人は、いまはそのコーナーがあるかどうか確認していないのだけれど、当時「今週のプレゼントコーナー」みたいなページがあり、そこを担当していた。

どういう内容かというと「今週はジョージアのコーヒーを20名の読者にプレゼント」みたいな、ひとつの商品につき80〜100字くらいの文言を書く仕事で、全部で10商品くらいを紹介する。

たしか一回の原稿料が3万円くらいだった。週刊誌だから月に4回発行として3万×4=12万円という、毎日モヤシか大根を食べている貧乏人にとっては願ってもない報酬だ。

ツィートの文字よりも少ない量を書くだけでそれくらい貰えるのだから、ふつうに日本語の読み書きができる人であれば、楽勝だと思うだろう。

だけど、僕はできなかった。

24歳当時の僕は“てにをは”が白水社かみすず書房の翻訳ものの本に時折見かける、生硬な文書にプラスして、ひとつの文章の中にいくつも主語が出てきて「いったい誰が何を伝えないのか」不明の、加えて前半は能動態なのに後半が受動態だとかの変調子がデフォで、本人はやっているつもりもないのに、バロウズもびっくりのカットアップを行なっていた。
というか、たんに読みにくい、読めない日本語を書いていただけなのだが。
音痴という現象があるように文痴というのもきっとあるんだと思うと、当時の自分を振り返るにつけそう感じる。

仕事を始めるにあたり、手に入るはずの原稿料をあてに僕はカシオのワープロとファックスつきの電話を買った。
今週の読者プレゼントコーナーの記事をキーボードをカタカタいわせながら書いて感熱紙でプリントして、ファックスで編集部に流す。抜かりなく仕事ができた!と思っていたら、数分後、編集者から電話があって「そんなにリリカルに書かなくていいですから」ともう一度書き直しを命じられる。

はて、リリカル?と訝しく思って、いそいそと書きなおす。

「アサヒビールのスーパードライ1ケースを10名様に」といった、装飾しようのない文章のどこにリリカルさを放り込めるだろう。いまそんなことをやれと言われても、それは針の穴にラクダを通すことに近い。
よくもまあ端的な事実しかいらない文章に情緒纏綿さ具合を施せたものだと、当時を思うにつけ感心する。

もはや本来の目的を見失っているデコチャリ

喩えて言えば、向こうは「シングルスピードのシンプルな自転車を買いたいんです」って注文しているのにデコチャリに仕立てちゃったみたいな。それでいて悪気はないのだから質が悪い。

とりあえず、もう一度書き直して送ったのだけど、また数分後に電話がかかり「よかったら編集部に来て書きませんか」と、穏やかながらもちょっとピリっとした調子で言われた。
電話であれこれ指示するよりも、その場で添削したほうがいいと判断したのだろう。
毎週締め切りのある週刊誌の仕事の進行はタイトで、こんなレベルの記事でいちいち指導する時間は無駄でしかないから、編集者も困ったことだろう。

そんな空気もおかまいなく、僕はリュックにワープロを詰め、扶桑社のある竹芝まで行き、編集部についておもむろにワープロを取り出して、さあ書こうと思ったのだが、電源コードがない。
そこで「すいません、コードを忘れたので取りに帰ります」と編集者に言ったところ、彼女のこめかみあたりに青筋が何本か走った。

板橋区大山のアパートに1時間近くかけて戻った。そうしてコードをもって再び戻ろうとしたとき、電話がなり、ファックスがジーっと音を立て紙を吐き出し始めた。

「今週の記事はこちらで書いておきます。来週からはけっこうです」

何もしないうちに失ってしまったので、途方に暮れるにも暮れようがなかった。

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震災地から東京に戻ったらクビになりました

神戸では食料が手に入りにくかったので、リュックを背負い自転車で西宮北口までの10キロを走り、それから大阪まで出る。米やチーズ、チョコレートや栄養価の高そうなものを買うためだ。

西宮まで向かう道路は陥没し、幹線道路沿いの家屋でまともに建っているのはまばらで、人が転けて倒れたみたいにマンションが横倒しになっていて、電車の線路はぐにゃりと曲がり、アスファルトは隆起し、破裂し、そこから土がむくりと顔をのぞかせていた。
高速道路は横倒しになったままだ。土建業で働いていた兄がいうには、ああいうものの壊し方が現場ではわからないから据え置かれているのだという。
それにしてもママチャリは優秀だ。マウンテンバイクでもそれなりに難儀しそうな悪路でも走ってくれるのだから。

淀川を越えると風景は一変する。そこはまったくの日常で、ショッピングモールに流れる音楽と行き交う人々のおしゃべりや靴音が響いていた。リュックを背負い汚れたジーンズに煤けた顔をしている自分は街の雰囲気とまったくそぐわなかった。

交差点で信号を待つのも久しぶりで初々しかった。ほんの20分も電車に乗れば、信号など用をなさない世界があるのだがなどと思っていたら、青年が僕を見つめ「震災で被害にあわれた方のために募金をお願いします」と声をかけてきた。え、僕に?たしかに僕よりも悲惨な目にあっている人は多いからなと思って500円募金した。

リュックに詰めるだけの食料を詰め、実家へと戻った。実家には働いていたテレビ制作会社から電話があったようで、何事かと折り返し連絡すると神戸の様相が知りたいという。ニュース番組をつくっている会社だから、できる限りの情報を知りたい気持ちはわかる。でも、様相というのはいったいなんだろうか。

僕の住んでいるところからは大阪の泉州、右手には三宮にかかるあたりまで一望できる。
けれども神戸の様相を知るという俯瞰の眼差しなどもてるものではない。地べたの実情しかわからない。

山上から炎に包まれる街が見えた。赤い小さな火が次々と広がっていく。
燃えていくどんどん燃えていった。悲鳴は聞こえない。家財の爆ぜる音も聞こえない。燃えていくさまがただ見えるだけ。救急車は間に合わない。住人たちは地を叩いて泣いたかもしれない。

玄関のドアノブ、電灯のスイッチ、靴べらの配置。そんなもののひとつひとつに記憶がある。住人の土地の記憶が込められている。それらが消えていく場を僕は見ていない。様相を知るという言葉の中には、炎の中で溶けていく人や記憶の堆積は入っていない。

取り立てて役に立ちそうなことがいえない僕は、ひとつ気になったことを話した。
それは震災翌日、報道のヘリコプターが頭上に何機も旋回し、その音のうるささが、地上の不穏な気持ちをいや増したこと。僕の見た限り、住人たちは空をきっと睨んでいたこと。

それはもう過ぎたことで何のニュースバリューもないことだとわかっていたけれど、俯瞰の視点というものの暴力をあれほど感じたこともなかったので、言わざるをえなかった。
話を聞いたディレクターがどのようなニュースをつくったのかは知らない。

2週間ほど経った。東京での貧乏暮らしでは、もやしばかりを食べていたのだが、神戸で栄養価の高いものを食べたおかげで太ってしまった。心配していた山崩れもなく、食料も手に入るようになり、インフラも復活したので、いったん東京へ戻ることになった。

神戸を引き上げた翌日、会社へ出社すると社長に呼び出された。
「申し訳ないのだが退職して欲しい」

そういうと社長は頭を下げた。被災地から戻っていきなりかよ!と思わず笑ってしまった。本当にいろんなことがいいタイミングで起きるもんだ。
のちに知ったのだが、社員は社長が頭を下げたところなど見たことがないそうだ。

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凱風館にて

先日、日本韓氏意拳学会会長の光岡英稔老師が著述家で合気道家の内田樹さんのご自宅兼道場の凱風館でワークショップを開かれるというので、お伴した。

お伴というのも、いま光岡先生と内田さんとの対談をまとめる仕事をしており、企画の内容というのは、荒天の世にふさわしい生き方を武から考えるというもので、本としてまとめるにあたっての最後の対談の時間をワークショップの前に設けてただいた。

僕は合気道の成り立ち(大本教とのかかわりだとか)についてそれなりに知ってはいても、技術体系については深くは知らない。韓氏意拳が技や術、型という概念を重視しないだけに、いったいどうなるのだろうと興味津々だった。

おふたりの対談で、僕がもっとも関心をもって耳を傾けたのは、武の遣い手は「やることができる」がゆえに「やらない節度をもてる」のであり、それは理屈ではないということだ。だから、やれる技量の持ち主は相手に敬意を払う。一撃で相手の命をとる。

ところで、この「理屈ではない」という文言は、何にでも付着させることができる便利な言葉だ。

たとえば道徳や伝統周りの話題には、たかだか数十年、長くて100年程度の時間しか生きていない個人の経験を根拠に「そうだからそう」「昔からそう決まっている」という言葉の補強に「理屈ではない」を持ち出す人がいる。
自分とは違う考え、価値観、体験、感性を否定するべく持ち出し、「理屈を言うな」と言いたいがために「理屈ではない」と言う。

「理屈ではない」という言葉は、自己の肯定からではなく、否定から生じるものではないかと僕は感じている。それは自分の感じたことを筋道立って語るという人間的な行為に置き直すには、感じたことが圧倒的過ぎるときに否応なく訪れてしまう自己否定の感覚。
自分の言葉では追いつかない。言葉にできない、というときの「ない」の感覚が大事ではないかと思う。

寒い冬、氷に触れて手がくっついてしまう経験をした人がいるかと思うが、僕は「理屈ではない」というとき、あの光景を憶う。下手に剥がそうとすると、手の皮は剥けてしまう。
世界のむき出しの姿に触れたとき、安易に語ることができなくなってしまうのは、ヒリヒリとした皮膚のはりつく感じに似ている。のっぴきならなさに圧倒されたとき、僕らは言葉を失う。失うことによってしか知り得ないことがある。

光岡先生が「理屈ではない」にあたって例にあげたのは、ご自身のお子さんが幼少期独特の残酷さで虫を殺していたのだが、何も注意しなくても数回行った後、ぴたりと止めたという話だった。

僕はその話のもたらす感覚がなんとなくわかった。

自分にも経験があるが、アリを靴底ですりつぶしたときのあの感じ。踏みつけた小さなアリを殺すのに、物理的な抵抗は感じない。足元でのたうち回る感覚も味合わない。断末魔の悲鳴を聞くこともない。

けれども、さっきまで6本の足で動いていたアリがアスファルトの上で黒い塊になった姿を見たときのあの得も言われぬ感じは、靴底を通じて確実に伝わってきた。感覚できない感覚が生命にはあるのではないか。生命の輪郭めいたものに触れた感じが、あの虫を殺すという行為に見出した気がする。
その感じは直線的に罪悪感というものに結びつくものではないが、興味本位で殺すことを「ためらわせる」。ためらいという全身を以ての抑制を「あの感じ」に深く見出す中で自得していくように思う。

そういった自得について僕はふたりの対談で感じた。

稽古後には宴席が設けられ、夜も深まりそろそろお開きの運びとなったのだが、再び道場で剣をもちいた稽古が即興で始まった。

光岡先生が右手に剣をもち、僕は双手で向き合う。打ち込んできた剣とカッと交わったと思った瞬間、先生の剣は僕の首筋を、僕の剣は先生の右篭手につけていた。先生は「師を殺しにきたね。なかなかいい。それくらいでないと」とおっしゃった。
僕はそうするつもりもなく自然と反応していたので、ちょっと驚いた。

あれが真剣であれば(そもそも光る刃を前にして自然と反応することは難しいけれど)、僕は頸動脈を切られ、あっさりと死んでいたろうけれど、先生の打ち込みに対するこちらの変化はまるで作為がなかったので、もし実際の場面であれば爽やかな気分で、悔いなく死ねたのではないかと思われて仕方なかった。

殺してはならない。この言葉が根をもっているのは、道徳や倫理ではなくそれらの手前にある、虫を殺したときの「あの感覚」だと僕は感じている。

殺してはならないと全身でわかっているものだけが生死を賭けた行いに自分の身を投げ出すことができるのではないか。自分の存在を慈しむからこそ、捧げることもできる。
殺すことが目的ではなく、こうして出会ってしまった存在について互いが身体をもって語る行為にも、それは似ている気がした。本当の本当のところ、白刃のひらめきにそう思うのは困難だろうけれど。

あのときの剣と剣とが交わった刹那、僕は目算も目的もない「ただそれだけの存在」だった。本当の瞬間には、あれやこれやと考え、幾つかの選択肢の中から自分の行動を選ぶことはできない。

できることと言えば、自分らしくあることしかできなくて、それは思い描かれた自分らしさではなく、「どうしようもない」自分で、それは生きていることのどうしよもなさ、語り尽くせなさ。そのような「どうしようもなさ」に還元されてしまった自分であるように思う。

絶体絶命のときにそこにただ立てるかどうか。技巧や賢しらではどうすることもできない断崖に立ったとき、それでも自分でいられるか。笑って首が刎ねられる時を迎えることができるだろうか。そんなことを感じた夜だった。