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土性骨

震災翌日に神戸に入ったが、それからの出来事を時系列に置き直して思い出すことはとても困難だし、そもそもそういうふうに思い出すことに意味があるのかもわからない。

断片的な記憶が切れ切れに、それでいて折り重なって次第にグラデーションを描き出すようにして、何かの風景を描いているようでもあって、だからときおりなぜそれを覚えているのかわからない記憶もインサートされていて、まとまりのある物語を拒むようにして、僕の中に蔵されている。
だから、誰かに阪神淡路大震災について語るとき、いつどこで何があったかといったように時間に配列して話すことはできないし、客観的に語ることもできない。客観的な視点の立ち位置がそもそもわからない。

後に僕は主に日中戦争に従軍した人の体験談を聞く機会が増えるのだが、自分の記憶の質と照らし合わせるようにして質問をするとき、彼らの警戒を少しは解けることに気づいた。

従軍した人たちの話は単純な因果関係にまとめることを拒んだ。彼らは末端の兵であり、書籍を出版するような将校と違い、「お話」を雄弁に語らない。史実というまとまった形として話さない。
というよりも体験したことを語りたがらない。彼らの経験は正史には載らない。確定した事実とするには断片的であるからだ。だが、それがどうだというのかと思う。

よく戦闘や戦争に付随する悲惨な事柄(たとえば支配地域での略奪、強姦。それに慰安婦、集団自決etc)に関わった人たちの証言ひとつひとつの整合性を取り上げて、史実か否かを判定したがる人がいる。
たぶん、物事をそういうふうに正邪や善悪の筋目に従って割っていくことが事実の探求だと学校で学んできたのだろう。
僕は思うのだが、そういう考えの育て方は、“人間に出会ったこなかった”からではなかったかと思う。あるいはその経験を忘れているからではないかと思う。

友達との遊び、喧嘩、親との付き合い。見知らぬ人との初めましての挨拶、親同士の親密さとその合間に浮かぶよそよそしさ。
そういった人と人とが触れ合う中で感じるざわざわした質感や意味に還元するにはノイズが多すぎて、ハレーションめいた風景として映じるような体験を通じ、次第に学んでいくことがある。

人はプライドを誇示したくて自分を高く見せようとしたり、正直さの装いに照れて見せるような素直さがあったり、自分の感情を人に押し付けることが善意だと信じていたり、当人が言っていることと言わんとしていることには、その人らしさや業めいたものがかなり顔をのぞかせる隙間があるということを。

人をいたわる気持ちから、あるいは人に自分の気持ちを知られたくないから自分を偽って言葉を紡ぎだすことなど、日常の暮らしの中では、当たり前のことで、とりわけきつい経験を重ねてきたら、自分を守るために本当のことは言わない。脚色もする。そうでないと到底自分を保つことができない。
それくらいの心模様、ディテールは生きていればわかることだ。他人に正直さを要求する人も自分の気持ちを騙すことは普段から熱心にしているはずだろうし。

話を戻そう。

実家の周囲は外国人が多かった。いちおう僕も外国人だが、ベルギー領事をはじめ、カナダ、ドイツ、アメリカ人が住んでいたが、彼らは早々に本国へ一時帰国していたと見え、家はもぬけの殻だった。

日本人でも財に余裕のある人は大阪あたりのホテルで暮らしていた。そんな中、近くに住むアライさんの行動に僕は瞠目した。

アライさんはパチンコ店の経営をしていて、アライという名でパチンコといえば十中八九、在日コリアンだろうけれど、このアライさんの邸宅は一世らしいゴージャスてんこ盛りで、門扉の前に三越のライオンみたいな像がでんと据えられ、空中庭園みたいにしつらえられた庭にはサモトラケのニケが置かれと、成金趣味丸出しだった。

そのアライさんだがどういう考えかわからないが、震災から数日後に自宅前にブルドーザーを置いていた。どうやって調達したのかわからないが、実家を含む一郭は山頂にあり、ひょっとしたら山崩れが起きるかもしれないと噂されていて、それで急遽ブルドーザーを運び込んだのかもしれない。
そのプラグマティックという洗練された言葉よりも土性骨がふさわしい、「どっこい生きている」を高らかに宣言するような行動に僕はちょっと感動した。

人家の灯火のない夜にブルドーザーを見ると、感傷的になりそうな気持ちで自分の体験していることを綴ろうとする力を笑い飛ばしたくなった。なんとなく僕は震災した神戸での暮らしをお話にするまいと思ったのだった。

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聖ユーグの言葉

会社を止めて働き始めたテレビ製作会社はテレビ朝日「ニュースステーション」やNHK「未来潮流」「ETV特集」、河合塾の衛星を使った授業をつくっていた。

製作会社のAD(アシスタントディレクター)といえば、世間的には常にちょこまかと動き、あらゆる雑務をこなしていく、目端の利いた人を想像するだろうが、僕は上司の出張先のホテルにたった一枚のFAXを送ることもできず、電話の受け答えもままならず、注文すべき弁当の数もそろわず、ことごとく全方位的に使い物にならなかった。

だから、いちばん下っ端のADでありながら、上司の仕事に自分を合わせるのではなく、上司が僕をケアする始末で、ただ会社でボーっとするのが仕事みたいな日もあった。

その日の仕事がなんであったかは覚えていないが、そんなデクノボウでも徹夜してまで仕事をしなくてはいけなかったらしく、朝を迎えて眠い目をこすって会社のテレビを見ていたら、どこかで見たことのある風景が映り、白い煙で包まれていた。

1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きた日だった。
僕の実家は山頂にあった。いつも山頂から見ていた街のあたりが炎と白い煙で覆われていた。ヘリコプターからの映像はすぐに途切れ、スタジオに切り替わった。実家に電話をしてもつながらない。社長にお願いし、神戸へ戻ることにした。

翌18日、阪急電車は西宮北口駅で運行を止めた。
そこから先の線路は飴のように曲がりくねって進めない。僕は実家に向かって歩き出した。

幹線道路沿いの家は、どれも内臓破裂を思わせるように捩れ潰れて、家の前に家財道具や瓦を吐き出しながらことごとく倒壊していた。
西の空は赤黒い煙がすっぽり覆い、辺りはサイレンが絶え間なく包んでいて、轟音に眉根をひそめることもなく人々は平然と、一言も話すことなく、僕とは反対の東へと表情の見えない顔つきで黙々と歩いていた。本当に誰も話していなかった。

町でこれなら山頂にある実家は山崩れでダメだろうと家族の死を漠然と思った。まわりの惨状からしてそれが素直に受け入れられそうな気がした。

案に相違して家族は無傷だった。
その夜、眼下の町は、あちらこちら炎に包まれていて、いっこうに消火される様子もなくて、ただそれをじっと見ていた。

震災直後は神戸で見聞きしたことをよく尋ねられた。僕は震災の翌日帰ったから当日のことは知らない。父は瓦礫の中から亡くなった人を引き上げるようなこともしたが、僕はそういう光景は見ていない。

僕が経験したことは、電気が復旧してから信号も点滅するようになったが、道路が陥没したり隆起したりと車がスピードを出して行き交うこともできない交通事情であり、おまけに逆走するバイクがあろうとも警官は黙認していた中で、律儀に赤信号を守って横断歩道を渡っている人がいたことや、大阪に買い出しにいったら、震災募金を迫られたこと、東京での暮らしは貧乏だったので救援物資のおかげで太ったことなどだ。

レディメイドの情緒纏綿とした「お話」にすることに嫌悪を催す質だったで、そういうことを聞きたがる相手には、わりと茶化す話しかしてこなかった。

たぶん自分の中にあるノスタルジーを明らかにしたくなかったのだ。

僕の育った岡本という町は、いまでは何だか代官山みたいなたたずまいになってしまったけど、喫茶店とケーキ屋、パン屋がやたらあって、五月などは柔らかい陽光が木々を照らし、緑を含んだ風が山から吹いてくる。そんな町だ。
でも、僕の情感を育ててくれた町の風景はもうない。

記憶の源泉を断たれることが、自分を育んでくれた風景が忽然と消えることが、これほど辛いものだとはそれまで知らなかった。それは体の一部がもがれる気分。

ニュースで見かける、自分の育った土地を捨てた、捨てさせられ流民となった遠い国の人々の心情、あるいは還るべき郷里を失った祖父母の屈託があれ以来、少しはわかるようになった。

そして、如何にいびつな幻想、虚像であっても、帰還すべき土地、過去を理想の何かとして立ち上げてしまうことも知った。それ以降、自分の中のノスタルジアを消すことを心がけてきたように思う。

だから、なおのこと聖ユーグの言葉が滲みもする。

「世界のあらゆる場所を故郷と思えるようになった人間はそれなりの人物である。だが、それにもまして完璧なのは、全世界のいたるところが異郷であると悟った人間なのである」

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雑報 星の航海術

6.29首相官邸前デモについて

怒りでは物事は変わらないという。だから感情的になるな。
怒っている人をそうやって宥めるとき、場合によっては、怒っている人を侮辱することにもなる。決して一般的な物言いに収まりようのない、ほかならぬ私の思いを、どうしておまえが均してしてまえるのだと。

怒りは極めて個人的なことだ。だからこそ宥めるという他人事へのすり替えが、私の存在の否定のように聞こえる。

しかしながら個人的であるからこそ抑制が必要でもあるだろう。
抑制は他人から命じられての抑圧ではなく、それはちょうどホースの口をつまむようなもので、そうすれば水を勢いよく的に集中して放出させられる。

抑制は感情の中に自分が四散することないような試み。
特定の考えに飲み込まれず、落ち着いて身にとどまれるよう、複雑な感情をもとの姿に還元したとき、クールな熱情が精錬され、思考がもたらされる。
四散しては、私は私である固有性を必要としない。たんなる匿名の、一般的な感情のほとばしり、勢いだけになってしまう。やがて感情的な刺激に反応するだけのマシンになる。

怒りは決して不毛ではない。怒りが歴史を動かしてきたこともある。
だが怒りが情熱に転換されるには知性という抑制が必要なのかもしれない。そうすることでエネルギーに形と方向性が与えられる。

6.29首相官邸前デモについて思うことがある。
あのデモはこの国に住む人たちの憂いや不安が怒りの回路を通じて表現されたものだと思う。

怒りという感情の特徴は時に当たり散らす、八つ当たりという表現が伴うように散じることにあるだろう。だから、デモから一夜明けた途端、怒りの矛先は権力者のみならず、主催側にも向けられた。

事の顛末は予定よりも20分近く早く解散を宣言したことにある。一説には20万とする群衆は官邸まで数十メートルまで迫り、現場は立錐の余地がないという表現がふさわしいものであった。

数のもたらす興奮と高揚がそうさせたのか、列は警察の警戒ラインをジリジリと押し始めていた。それは膨張が自然ともたらす現象のようで、最前列から3メートルほど後ろにいた僕も後ろに押され、一歩また一歩と官邸のほうへと進んだ。

その頃合いを見計らったか、機動隊の車両が2台ほどバリケードをつくるため走りこんできた。警察のほうも危機感を覚えたと見える。そこで主催側は解散を宣言した。

これが翌日以降の実際に参加した人、現場にはいなかったが反原発の思いを抱いている人の怒りを買ったようだ。批判のひとつに「ありもしない群衆の暴徒化を怖れ、これからというときに解散を宣言し、しかもその発表を警察の所有するマイクを使って行った。それは権力者と対峙する緊張感を欠いたどころか権力との結託である」という。

警察に対しては敵対的な行動をとることが正しい、主催側には「おまえたちのやっていることはぬるい」と全方位的に挑発する。そういう全共闘世代の人たちがいた。また僕の周囲半径3メートル程度の会話、怒号を聞き及ぶ限り、威嚇行動として集まった人たちは解散などとんでもないとブーイングを浴びせていた。

そういう意見、批判に対し、どの立場でどう見るかによって事実は異なるから、とやかくは言わない。
ただし官邸前の最前列にほぼ近くにいた僕として思うことがある。

では「あの場でとるべき行動があるとしたらそれは何?」ということだ。
「であればよかった」とか「でなければよかった」という甘い物言いは抜きにして、すべきことはなんであったか?と考えたとき、体感として導き出せるのは、主催の判断は妥当だったということだ。

警察発表では集まった数は1万7000人ということだが、そんな見積りなどありえないくらいの多勢の中で、次第に後ろから推される力が増してきたのは事実で、勢いさえつけば何の目算もなく官邸前に張られたバリケードを突破しただろうと思う。
しかし、勢いづいたからということで勢いでやってしまったことは、振り上げた拳のもっていきどころのなさに似て、混沌と騒乱しか生み出さなかったかもしれない。

威嚇が必要だという意見にはまったく同意する。
でも、それをあの場で形として見せることは、具体的に何を意味するのか。機動隊の車両を押し包めば威嚇になるのか。
警察は敵ではない。これは別にラブ&ピースな考えで言っているのではなく、原発再稼働反対の上で警察は本当の敵ではない。だから敵対関係に陥って、敵を増やすとそれだけ状況は混乱する。

現場には、「再稼働反対」を小声で無意識のうち呟いていた警察官がいたりだとか、打ち鳴らされる鳴り物に爪先でリズムをとっていた機動隊員がいたという。
僕は直接見てないから、ひょっとしたら都市伝説かもしれない。それがまことしやかに囁かれるのであれば、それはおそらく集った人の「そうであって欲しい」像なんだろう。

「国民の合意が形成されるはずだ」という期待がそういう像を伝播させているものなんだろう。権力と私たちのあいだに感情が分かち合える場をつくりたい。その願いは甘いのかもしれない。
だが、力を手にした途端、容易に他者を排除しようとしてしまう傾向が人の性にあるのであれば、「それでも力に拠らず、分かち合いたい」と思えるかどうかは、人間であることの意味がまさに試されることだから、甘いどころか本当は厳しいのだと思う。

6.29首相官邸前デモについて、いろんな理屈をもちだしていろんな批判の応酬がネット上で交わされている。
僕はあまりそういうことに興味がなくて、そこにエネルギーを費やすくらいなら、もっと思考について考えてみたい。想定や仮定から「そうであるべきだった」を言ったところで、それは現実とはまったく関係ないからだ。

脳内で描いたありうべき運動論に盛り上がれないのは、デモの最中、おもしろい現象を発見したからだ。
現場では規制がかかり、流れが一方向に限られていて、だから前の人の背中を眺めながらのろのろ歩むしかなかった。というのが表向きの現象としてあった。

表向きというのは、そうではない流れがあったからで、人の渦をよく見ると逆流している人の動きもあって、それはパッと途絶えたりまた現れたりする流れだけど、そこに乗ればわりと簡単に最前列に行けたりする。
そういう流れを読む感覚の薄い人が、デモの実践性や政治的効果についてしたり顔であれこれ語っていたら、僕はもっと考えることとは何かについてから考えてみるよう促したい。

デモの現場にいながら、「なかなか前に進まない」というふうに見える現象を額面通り受け取っているだけでは、いつか現れるベストポジションを期待するしかなくて、それは「ありうべき客観的な正しさがあってそれを見つけてから実践する」という他人任せの自堕落な思考とあまり変わりないように僕には見える。

考えるという個に属する行為は、他人からは学べない。書を読み、思想を学びと他人の考えたように考えるためのレッスンをどれだけ受けても、自前で考えることにならない。

私にとって切実な、生きることに関する問題を他人事のように扱い、情報や概念や知識をあいだに挟んで客観的に捉えることは考えることにはならない。それは評論に過ぎない。
他人の人生を生きることはできず、生きることは主体的にしか取り組めないのだから。そういう視点からもう一度、反原発運動について考えてみたいと思っている。

自己の内に他人の考えを導入するといった客観性を求めることが冷静さと誤って捉えられている傾向が多分にあるが、それは自己を空疎さに明け渡すようなものだ。

客観性を約束するような、よく見えるレンズをもって世界を認識することを望むような魂胆がある限り、その認識は世界の刻一刻の運動からずれ続ける。他者の思惑を通じて見ようとする身の乗り出し方が余計なのだ。

むろん主体的に主観によって捉えるとは、自分と他人の考えの違いを排除するような自己中心の態度を意味しない。事態を正しく把握することは大事だが、正しく把握できる客観的な位置があると考え、右往左往することを思索や探求と呼ぶのは、誤りの第一歩でしかない。

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東武東上線の下北沢

前回書くのを忘れていたことがあって、それは会社の寮のあった分倍河原から退出して、新しい部屋に住むまでの経緯で、24歳にして僕は生まれて初めて自力で不動産屋で部屋を借りる経験をしたのです。

いままで情報としては、部屋を借りるだとか就職、結婚、融資だとかの局面で、在日コリアンは難儀すると親や先輩から聞いていた。
たぶんそうなんだろうけれど、自分が実際に経験するまでは本当かどうかはわからない。

就職にしても本名ではなく日本名を使えば採用されることもあって、プライドの問題はともかく、当面の暮らしを第一に考えたとき、日本社会に参与しづらいハードルはあっても、「それはそれとして」という方便を用いれば抜け道はありえる。

「それはそれとして」という片付け方に膝を屈するように感じる人もいる。なぜわざわざ抑圧するシステムに合わせて生きなくてはならないんだと。

僕だって自分が自分らしくあることを誰からも否定されるいわれなんてないはずだと思うし、それは何も権利という少しばかり生硬な言葉を持ちださなくても、茶飲み話のひとつでもしながら「そうだよね」と頷きあえるような、すごく簡単なことなんだろうとは思う。

けれども素直な気持ちで「そうだよね」といえることって、人間の欲望や暗さや後ろめたさがつくりあげた社会システムの中では、あんがい「甘い」とか「理想」だとか言われてしまうもので、そうやって言われているうちに、「そうだよね」という自分が思ったことすら疑うようになって、かつて頷いて自分を否定したり、他人を罰するような言動を積極的にし始めたりする。そういうのを「大人になる」とか言うのホントに止めて欲しい。

僕の場合、とりあえず日本名ではなく本名で就職活動したのは、社会という二文字でさらりと語られてしまうものの姿形が実際のところどういうもので、そこに働きかけたときどんなリアクションがあるのか知りたくて試してみただけのことで、主義主張やイデオロギーがあったわけじゃない。
ただ知識や情報だけで世の中を語るなんてみっともないことをしたくなかったし、やっぱり身体かけて計測しないとわからないじゃないですか?

で、不動産についてもとりあえず正面からノックしてみようと思って本名で申請したんだけど、まあことごとく入居拒否にあいました。問題にされたのは職業でも収入でもなく国籍で、驚いたのは94年当時、バブルの余韻がまだあって、それで世界に冠たる国際都市を任じている東京の不動産がめちゃくちゃローカルなルールで動いているということだった。
ちなみに90年代後半からこっち、不動産屋の窓口ではOKという返事がもらえる機会は増えている。でも話を詰めていくと、「大家さんがね…」と言われて断わられるケースもまだまだ多くて、だけど不動産業としては国籍は大して問題ではなくなってきつつあることを感じる。時代は変わったなと思いますね。

ところで東京に出たての僕は、まだよく地理がわかっておらず、自分のテリトリーをどう描けばいいかもわかっていなかった。ただ、休日は決まって都心の書店に足を運んでいて、なぜか池袋のリブロに足を運ぶことが多かったので、そこで引越し先も自然と池袋を基点に考えるようになった。

いろんな不動産屋に断られた挙句、たまたま入った不動産ではわりとスムーズに話が進んだ。そこで勧められたのが東武東上線の大山駅近辺の物件だった。
6畳一間のアパートで家賃は5万5000円。風呂はないがシャワーがついている。東京の不動産事情に疎い僕は、その価格が適切なのかもわからない。東武東上線という路線がどういう色合いをもっているのかも、したがって大山がどういう土地なのかもわからない。

不動産屋の社員はたしかにこう言った。「お客さん、大山はねぇ、東武東上線の下北沢って言われているんですよ」と。

上京して数ヶ月、まだ下北沢に行ったことはないのだけれど、若者の集う、サブカルの匂いのするオシャレな街という印象はもっていたものだから、「悪くないじゃない?」とその物件に決めることにした。内見もせずに。

これまで仕事の合間を縫って不動産屋に通っていたのに何度も断られ、ちょっと投げやりになっていたため、さっさと決めたい心もちになっていたせいで、しかも世間に疎い僕は内見をした上で借りることも、その街に実際に足を運んでみることもせず、ただ写真だけで決めてしまったのだった。

全長600mに及ぶハッピーロード。

そして、いざ引越しの日、ハッピーロード大山というやたら長いわりには焼き鳥屋とドラッグストア、パチンコ、赤提灯が目立つという、どうもバラエティのない感じの商店街を歩きながら、なんか嫌な予感。

だから「あれ、下北沢ってこんな街でしたっけ?」と僕は脳内の下北沢に尋ねてみたのだが、そしたらどうにも「下北沢じゃない感じがするよ」という返事が戻ってきたので、ざわざわした胸をかかえつつ借りた部屋に辿り着き、ガチャっと扉を開けてみたらば、目の前にいきなりシャワーボックス(海の家でよく見かけるヤツね)がデーンと据えてあり、靴を脱いで上がった途端、自分の部屋にもかかわらず、カニ歩きですり抜けないと奥に入れないという「何、このダンジョン?」といった按配のめちゃくちゃな動線。

やっぱり部屋を借りるには実際に見たほうがいいね。

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旬の終わり

この季節を迎えると決まって思い出すことがある。
それは幼稚園に通っていた1975年の夏を境に「旬の食べ物がなくなってしまった」という感慨で、この断念とも諦観とも言いがたい思いをたしかにあの夏に抱いた。

旬を失ったと同時に果実が酸っぱかった時代も終わったように思う。その頃までは、果実はだいたい甘酸っぱいと相場が決まっていた。苺はミルクに浸して潰して食べる。りんごはあくまで酸っぱく、僕はなぜかマヨネーズをつけて味をマイルドにして食べるのを好んだ。
中元で貰う夏みかんや八朔を剥くのは父の仕事で、ガラスの器に山盛りの実に粉砂糖を少々、ブランデーを垂らすのが彼の流儀だった。

果実に限らず、肉にしても野菜にしても最近では甘いことが良しとされているが、甘い野菜づくりが可能になったのは、F1種の普及のおかげだということを最近になって知った。(身近に半農半Xな活動をしている人が増え、彼ら彼女らに聞いた話を自分なりに理解しているため事実誤認があるかもしれません)

F1種とは、ときに自殺種という不穏な表現をされる種で、異なる性質の種を掛け合わせてつくった雑種の一代目。生育がしやすく、種によってかかりやすい病気への耐性もあり、しかも大きさや風味も均一で大量生産や大量輸送が可能だという。しかし、同じ性質を持った種が採れない。

F1種と比較されるのが固定種で何世代にもわたり淘汰選別され、遺伝的に安定した種で、地域の気候に適応した伝統野菜を固定化。生育時期や形、大きさが不揃いだが自家採種できる。

いろいろな野菜を安く大量に、季節を問わず食べられるようになったのは、F1種の普及のおかげだ。種だけでなく農薬、化学肥料の組み合わせが必要で、そのパターンが定まったのはだいたい1970年代のようである。F1種が普及して40年そこそこしかない。
自分の記憶はそのあたりの変節の時期と重なっているのかもしれない。

「人為ではない本来の自然の農に立ち返る」ことを観念で考えると、断然「固定種がいい」ということになるのだろうが、固定種も品種改良を経ての種であり、そこにはやはり人為がある。何をもって人為とし、何をもって自然とするかというと非常に困難になってくる。そもそも畝をつくり、地を耕すことは自然なのか。

それにF1種が求められたのは、生産側だけでなく消費者側の理屈もあって、より安く、美味しい物を求めた結果でもあろう。なにより固定種で野菜を育てている友人が「ぶっちゃけ固定種よりもF1種のほうがうまいんですよね」と呟いたことが忘れられない。
むろん、彼は農を始めて1年ばかりで、もっと熟達した人なら固定種で美味しい野菜をつくれるのかもしれない。

が、固定種で美味しい野菜を「つくる」という介入がすでにして人為の業だとしたら、果たしてどこまでが自然の営みといえるのだろうか。
こうして何が自然かを距離をもって眺められるのは、生業として農業に携わっていないからだろうが、それでも思うのは野菜や果実は人間に食べられるために存在していないということで、甘さなどどうでもいいことなのだろう。
種が巡り続ける生命のサイクルの中で、野菜や果実にとっては二の次の問題が人間にとっては重大事で、それが産業となり、環境を汚したりもする。

本来的にはどうでもいい余剰を通じ、人は社会を整えたり、技術を開発したりする。結構、本質的にはどうでもいいことのために真面目に働く。
真面目に働くことがいいことだとされているけれど、害虫と呼ばれる虫だって真面目に野菜を食べているし、泥棒も真面目に盗みを働く。真面目そのものを取り上げてことさら何か評価することが、どうでもいいことなのかもしれない。

どうでもうよくないことがどういうことなのか。それが見えてこないことは、かなりどうでもよくないことだ。でも、肝心のそれがいちばん見えにくい。