第1号 独立研究者 森田真生

Vol.5 空気と理解について改めて考える

尹 : 前回は、“空気”を読むことに関していちがいに否定せず、違った評価が必要ではないかという話でした。そうはいってもアメリカで生活していたから、日本に帰国した直後は、それなりに違和感があったんじゃないですか?

森田 :そうですね。2歳から10歳までアメリカにいたわけですが、あっちでは「発言をする人が偉いし、かっこいい」というのが当たり前だったから、日本に帰って来た当初は学校でもどんどん手を挙げて、思ったことは何でも発言してました。

そしたらなんとなく冷たい空気を感じて…、そういう意味では「空気を読まなきゃいけないっていう空気」は、わりとすぐに読むようになっていた気がします(笑)。

アメリカにいた頃は、毎日外でバスケかアメフトをして過ごしてましたが、日本に帰ってきたら、ジャンプとかミニ四駆とかゲームとか、遊び方が全然違うし、共通の経験もなければ、当然幼なじみとかもいないわけです。

だから「自分は部外者だ」という感覚が常にどこかでありました。でも、それは疎外感のようなものとは違って、どちらかというと未知の世界にフィールドワークに出かけてきた文化人類学者のような気分に近い、ワクワクを伴った孤独感というか、そういう感じだったと思います。

いずれにせよアメリカが故郷だから、いずれ近いうちに帰るんだとは思っていました。 ただ、アメリカにいた年数と日本で暮らした年数がちょうど同じになった16歳あたりから、「アメリカが故郷」という感覚も薄れてきてしまって、「自分が帰っていく場所っていうのはどこなんだろう」という宙ぶらりんの不安に、あるとき突然襲われたのを覚えていますね。

バスケが安定した自分を保たせてくれた

pre01_01_05_p01尹:異なる文化の中で唯一共通していた言語がバスケだったわけですよね?

森田 : ええ、とにかくそれまで自分が当たり前と信じていたり、普遍的だと思っていたことが、日本に来てみたら簡単にひっくり返っちゃうわけです。常識や価値観って、なんてアテにならないんだろうと思いました。

そんな中で、バスケをしているときだけは、何か普遍的なものと接続している安心感がありました。
フリースローラインに立ってゴールを見上げる感覚は、どこにいても同じ「あの」感覚なんです。バスケはいつも安定してそこにいてくれて、「今日は昨日よりゴールが2センチ高い」とか、そんなこともないわけです(笑)。

バスケは、僕の生きている時間の中の不変量のようなものでした。どれだけ日常が変わっても、バスケをしてるときだけは、アメリカにいた頃と同じ時間が流れるんです。 バスケのように、安定してくれている相手というのはとても大切です。相手が安定してくれているから、相手を通して、自分の側の変化がよくわかる。

一日練習しないでコートに立つと、少しコートが広くなったり、ゴールが遠くなったりする。調子のいいときは、逆にゴールがすごく近くに感じる。
もちろん、コートもゴールも大きさなんて変わっていなくて、変わっているのはこっちなんです。向こうが安定してくれているから、そういう自分のちょっとした変化が、映しだされるんですね。

尹 : 高校ではキャプテンを務めたから、けっこうバリバリやっていたんですよね。

森田 : 中高6年間で、練習をしなかった日はほんとに数える程度しかないと思います。それこそ年間2日とか3日くらいじゃないでしょうか。

「バスケ部に入ったからにはバスケを一所懸命にやるのが当たり前」と思っていましたから、中学時代から、練習をさぼる部員にはものすごく厳しかったです。ひとつ上の先輩のキャプテンもとても厳しい人でしたが、その人は同時にみんなにも愛されている素晴らしいリーダーでした。
それに比べると、僕はどうも厳しいばかりで、それをよく思っていない同級生も多かったみたいなんです。

それで、あるとき監督が部員全員を集めて「森田には人望がないと思うんですよ。森田に人望がないと思う人?」って言ってみんなに手を挙げさせたんですね。影で僕の悪口を言っている人とかがいることは知っていたけど、そのとき目の前で手を揚げている同級生とかを見るのはつらかった。

一時期はそれで、面と向かって人と話すのが怖くなってしまった時期もありました。この人も内心では僕のことを嫌っているに違いない、と。

尹 : バスケをやる限りは、それに精通するのが重要だから、部員であるならばモチベーションは自分で調達すべき。
それは他者性を重んじる考えだと思うけれど、各人に責任をもたせるやり方が馴染まなかったのでしょうね。ちなみにバスケのプレイ中に、他者はどう見えていました?

森田 : 試合や練習が終わった後に、その日の光景を思い出そうと思っても、いつも思い出せないんです。視覚的な記憶が全然ない。

よく友達と会って話して盛り上がって、家に帰ると話していた内容は覚えているのに、その人がどんな服を着て、どんな格好をしていたかとか、全然思い出せないことがあります。どうも僕はあまり目で世界を見てないみたいなんです(笑)。

バスケをしているときも、僕はチームメイトとか相手チームのメンバーを視覚的に捉えているというよりは、もっと漠然とした試合の流れや、内的な空間の広がりの様子とか、そういうところに注意を向けているような感覚があります。

中学生のときにバスケ部のコーチに雀鬼こと桜井章一さんの本を勧められて読んだんですが、その影響もあったかもしれません。「流れ」ということを特に意識するようになったんですね。

淀みない流れに身を置いて

尹:雀鬼といえば、賭け麻雀の世界で20年間無敗だった人ですよね。そういう本を勧めるというのもおもしろい。

森田 :コーチは、高校の教員であると同時に山伏でもあるというユニークな先生でした。その先生が勧めてくださった桜井さんの本を読んだら、「負い目をなくす」ということが書いてあるんです。道傍にゴミが落ちていることに気づいたのに拾わないとか。お年寄りが立っているのに電車で席を譲らないとか。そういうちょっとしたことが自分の心の中に「負い目」をつくっていく。その負い目が、試合の大事な場面の選択を鈍らせてしまうんです。

流れを掴み、それとともに気持よくバスケをするためには、自分の心も身体も整えていないといけない。だから、学校に行く前に掃除をしたり、約束や時間は必ず守るようにしたり、そうして負い目や心の詰まりをなるべくつくらないことをとにかく心がけていました。

溢れる思いが理解を可能にする

pre01_01_05_p02尹:ところで、いま行っている「たくらみゼミ」に集まっている人は、全員が数学に詳しいわけではないと思いますが、講義を進めるにしたがって現れる流れや淀みについて意識しています?

森田 : バスケの流れが事前に決められないのと同じで、レクチャーの流れも事前に決めてしまうことができなくて、それがとても面白いと思います。
「たくらみゼミ」の場合は特にそうで、直前まで本当にどういう展開になるかわからない。毎月の自分の研究の「いま一番興奮しているところ」をぶつけたいので、レクチャーの内容の告知は、いつもだいたい本番の前日とか前々日になってしまいます。 とにかく、自分が心の底から「面白い!」と思うことであれば、どんなに難しい内容でも必ず伝わるはずだという確信があります。

アラン・コンヌというむちゃくちゃかっこいい世界的な大数学者がいて、昨年、京都大学でレクチャーをしたんです。100人以上は聴講していたと思いますが、本当にコンヌの話をすべて理解できた人は、その中でも恐らくほんの一握りだったと思います。僕も部分的に理解できるところもありましたが、研究のディテールの部分はほとんどわからない。

でも、コンヌはまるで数秒に一回エクスタシーを感じているかのように、本当に楽しそうに話すんです。その姿を見ていると、「ああ、やっぱり数学って素晴らしい営みだよな。俺も今日からあらためてがんばるぞ!」という気持ちになってくる。

言葉だけじゃなく、佇まいとか喋り方とか、あるいは黒板に文字を書き付ける仕草だったり、字体そのものから伝わってくるものだってあるわけです。

ウツスっていう日本語は、「移す」とか「写す」とか「映す」っていう字があてられますよね。コミュニケーションっていうは、まさにウツシの過程だって思うんです。 それは単に言葉によって情報がこちらかあちらに「移る」だけじゃなくて、相手の存在の裡に自分が「映り」込んだり、あるいは相手を自分の中に「写し」とったり。

コンヌのレクチャーは、単に情報を伝達するためのものというよりは、聴衆とコンヌのあいだに、次々とウツシ・ウツサレのダイナミックなやりとりが展開されている、素晴らしい数学の「演奏」でした。

実際、たまたま旅の途中に立ち寄ったらしいバックパッカーの方が、「俺は数学は知らないけど」っていいながら、嬉しそうにコンヌの話を聴いていたのが印象的でした。まさに楽譜が読めない人にも開かれた演奏会という感じです。


尹 : 論文や楽譜で書かれたものだけがすべてならば、特殊な言語を読める人にしか楽しめないですもんね。
森田 : 音楽の楽しみ方や解釈の仕方に「間違い」なんてないように、数学の楽しみ方や受取り方もいろいろあっていいと思うんです。だからこそ、僕は数学を「演奏」したい。

「あなたの理解の仕方は間違っている」ということではなくて、それぞれが、それぞれのスタンスで数学を味わったり、楽しむことができるような、そういう文化をつくっていきたいですね。

本当の理解はなく、ただ発見の更新がある

pre01_01_05_p03尹 : そうなると物事の理解ってなんだろうと思いますよね。誤解がたくまざる理解につながることもあるわけで。

森田 : 岡潔は一時期、禅に大変興味があったらしく、鈴木大拙と会っていろいろ質問をするんです。
ところが、鈴木大拙は、いつの間にか途中でぐっすり眠ってしまった。それを見た岡潔がそのあまりに自然で心地よげな態度に、いたく感心するんですね。「これこそまことの禅の境地!無言の中にその真髄を見せてもらった」と。

でも、実は鈴木大拙は眠っていたのではなくて、岡潔があまりにも矢継ぎ早に質問をたたみかけるので、いちいち答えている余裕がなくなって、あきらめて眼をつぶって黙ってしまっていただけだったんです(笑)。

白洲正子は、ある本の中でこのエピソードを引用して「天才に共通な、豊かな誤解と独断」ということを言っています。

僕ら人間は、どんなに客観的であろうとしても、結局は聞きたいことしか耳に入らないし、見たいものしか見えない。
そういう意味ではコミュニケーションというのは多かれ少なかれ「誤解」を孕んでるわけです。そんな中で、まるで進んで誤解の方に身を委ねていっちゃうような人たちがいて、岡潔のエピソードには妙に共感してしまいます。

荒川修作にも、岡潔とどこか共通する「豊かな誤解と独断」の魅力があったように思います。

尹 : コミュニケーションというのは、言語から滲み出る何かに触れる体験そのものでもあるわけで、だからこそ人と直に会う意味もあるんだと思います。言葉はそれを話す人の切断面で、人は切断から漂う存在の濃度みたいなものに感染することを欲しているのかもしれない。

森田 : 「私は死んだら極楽に行けるんだろうか?」とおばあちゃんに聞かれたら、仏典を持ちだしてああだこうだと御託を並べても仕方なくて、「そうだよ、苦労したおばあちゃんが行けなくて、誰が行けると思うの?」と、そう言い切ってしまうのだと南直哉さんがおっしゃったそうですが、コミュニケーションというのはそういう風にして成り立つものかなって思いますね。

数学者も厳密な定義のもとに語り合うことで、初めて感じられることがあるのはもちろんです。だからこそ僕も数学をやるわけですが、数学の訓練をしていない人に厳密に、まるで数学者に語るように数学を語るというのは、ちょっと違う。

尹 : そこで言う厳密さは確定した答えに向けたやり取りではない?

森田 : 数学で何かが「わかる」というのは、何か確定した答えに到達するというよりも、螺旋階段を上っていくようなものです。

たとえば、「直線とは何か」なんていうのは、初めからわかりきっているような気がするわけですが、実数ということを学んだり、その連続性とか測度とか、あるいは計算可能性とか、いろいろなことを考えるようになるうちに、直線がなんなのかわからなくなったり、あるいは違うわかり方をしはじめたりする。

わかるとわからないが螺旋状に成長していって、「直線とは何か」はある意味では誰もが「わかっている」とも言えるし「わかっていない」とも言えるのだけど、そのわかり方とか、わからなさにはいろいろなレイヤーができて来るわけです。

尹 : 確定した唯一の答はなく、発見の更新がある。それが数学者に共有されているのならすごく知的に健全ですね。

森田 : 数学的な対象は厳密に定義されているにも関わらず、セミナーとかをやると面白いのは、同じ対象について、それぞれの人が感じている質感が違ったりすることです。

ずっと数学をしていると、それぞれの対象が固有のクオリアを持ち始めて、独特の実在感を持つようになってくる。ある意味では、セミナーというのは、そういう個々の数学者が持っている数学的対象のクオリアを共有しようとする場でもあるような気がします。

そういうクオリアとか実在感っていうのは、自分の中に育っていく数学的現象の世界がどれだけ耕されているかによってリアリティも深みも変わってきます。

たとえば、素数の定義だけならば小学生でもわかりますが、「素数の歌」までつくってしまった数学者の加藤和也さんが、なんとも幸福そうな表情で素数について語るとき、先生の内側で立ち上がっている世界の豊かさっていうのは、僕には到底想像もできません。同じ対象を扱っていても、見えている内容は全然違うわけです。

尹 : 同じ言葉を使いながらも、指す内容の厚みが違う。その気配の察知が空気の理解ならいいけれど、ある理解を強いることに追い立てられるのであれば、やっぱり嫌ですね。

森田 : そういう意味では、数学者は基本的に空気をすごく読めないし、いい意味で「空気が通用しない」人たちなんだと思います。

尹 : でも空間には厚みがあることはわかっている?

森田 : そうなんですよね。いったい何なんでしょう。柔らかい感性というのがあって、人と人が接しているときにちょっとした心の変化を読み取るときに働くものですよね。

一方で数学と向き合っているときの感性の柔らかさというのもあるんです。どちらも感性の柔らかさだと思うんですけど、その両方を持っている人というのはきわめて稀な気がします。

数学者は、必ずしも人間関係で相手の心を汲み取ったりするのは得意じゃない人が多い気がするのですが、一方で数学的な世界に対する実に細やかで繊細な感性を持っていたりする。それってどういうことなんでしょうかね、考えてみると不思議な気がしてきます。(Vol.6へ続く)


2011年10月17日
撮影:渡辺孝徳

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