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リハビリの始まり

僕の場合、間柄が近しくなるほど会話が捻くれていく。親密になればわかる度合いが増えていくという期待があるはずだけど、むしろどんどん「心の理論」的な展開を見せ始め、不穏な空気をたたえ始める。

なんというか離人的な光景を相手に見させるようで、そのときの会話は再現性がなくて、果心居士よろしくちょっとした幻術っぽいらしいのだけど、ひと通りの話のあとで疲労困憊して倒れているのは、決まって相手のほうで、僕のほうはといえば、のほほんとしてまるで太平楽だったりするから、さらに激しい徒労感を相手に覚えさせる。
そして気がついたら相手は僕の前からいなくなっていて、「あの人は風のように去っていったの」的な展開となる。

以前、10年来の知人とご飯を食べたとき「知り合って長いのになんでいつも初めて会ったみたいな、距離感の変わらなさなの!」と驚嘆された、というか呆れられた。

会話というのはテニスのラリーみたいなものだとして、親密になると近い間合いで時にダイレクトにボレーしたりするんだろうけれど、僕の場合は打ち合っていたつもりなのに、気づいたら相手が「ひとりでボールを壁打ちしてました」みたいな感覚に陥らせるようだ。

これでもだいぶマシになったのは、33歳からの2年あまりでずいぶんリハビリに励んだからだ。その間、お付き合いした恋人のおかげで、僕は「ここを抑えておけばとりあえず日常生活は破綻しない」程度の人の心の忖度の仕方や気持ちの淡いや情緒に関する考えを獲得した。

「考えを獲得した」というだけあって、やっぱりそれはプログラムっぽいからときおりバグを起こしてわりと近い人に迷惑をかけるのだけど。

僕は何度もこれまで書いてきたように、怒りの感情が苦手だし、わからない。彼女はよく怒る人だった。というよりも、正確に言うと、僕が彼女を怒らせていたのだけれど。つまり彼女の行動規範からしたらありえないことを僕がしていたからだ。かといって、「彼女だったらご飯をつくってくれるのが当然」とか「他の男と遊びに行くな」とか、超絶につまらないことを言って怒らせるとかそんなんじゃなくて、やっぱり「心の理論」的な状況に関してのことだった。

怒りに対して普通は「そんなこと言ったって、君にだって落ち度はあるだろう!」とか「うるさい!」とか、そういう感情の反応というものが、疎遠な人ならともかく恋人同士ならあるものなのだろうけれど、僕の場合いっさいそういうことにならない。
彼女が怒っていたら「なんか悪いことしたのかな」と反省モードに入ってしまう。あるいは「君が怒っているのは、カクカクシカジカの理由からなのかい?」と分析してしまう。どちらもさらに相手を怒らせる。
休火山も活動期に入るで!というくらいの煽り具合になってしまう。

当時はなぜそうなるかわからなかったけれど、数年経ってようやく少しわかったのは、反省モードというのは自分の内に引きこもってしまうことで、それは相手と関係なくなり、自己完結してしまうからだ。「勝手に反省してるけど私関係ないやん」ということだろう。(また間違えているかもしれないけれど)

次いで分析はもう言わずもがなだけど、相手が感情的になっているときに一方が冷静だと「バカにされている」感覚を与える。実際そうだった。

でも、僕としては好きな人の誤解を解きたいし、理解したいからだったのだ。が、この考えそのものが曲者で、「誤解を解きたい」という構えには、「相手のほうが間違っている」を初期設定として含んでいることに気づけなかった。
加えて「理解したい」ということが相手の行動の軌跡という概念的なものであって、ナマなものではなく、これもまた目の前にいる人を無視した行為だったのだ。

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人の心がわからない

人生においては否応なく己の馬脚を現す瞬間があり、できればそんなみっともないことは他人はもちろん、自分自身に対しても見せたくはないので、馬脚を隠すほうに力を注ぎがちだけれど、もともとケンタウロスみたいに馬脚がしっくりいっておれば問題はないのだろうが、にわかに生えてしまった脚はアンバランスをもたらす上に放っておくと次々と現れるから厄介だ。

だから、馬脚に対してできることは、その都度に斬っていくほかなく、だから生の終わりをとりあえず死に置いて、それをゴールとするならば、ゴールラインに着くのが鼻先なのか、それとも馬脚なのか。そこはけっこう重要な問題だと僕は思っていて、できれば前のめりで倒れこんでも鼻先でありたいと思っている。
それは無様な姿を駆けている最中に晒し続けることでもあって、ちっともスマートではない。

スタイリッシュに決めようとしたところで、もとが啓蒙を要したくらいの野暮天なのだから、何をか言わんやではあるけれど、前回書いたように、片端から書物を読んで己の中の馬脚を斬ろうとしても、現実の無様さはいかんともしがたい。

「ものごとの考え方」という、うっかりそういうパッケージ化された形があると思えてしまうことがどだい誤りで、考え方はがらりと改められると思って、その改めに従って、自分の生き方も変わると思いがちではあるけれど、そうは問屋が卸さないものだ。
くだくだしく何を言っているかというと、自分の女性に対する考えの歪みを実感し、それを正す方向で書を読み、自分の内を精査するような作業を数年してきて、これでわりと大丈夫じゃね?と思い始めた頃、ある人と出会い、お付き合いすることになった。

啓蒙にルビを振るならさしずめ「リハビリ」が適当かと思う。僕はリハビリ期間を終え、満を持して異性との付き合いに臨んだのだが、認知の歪みはそれなりに正されたかもしれないが、久方ぶりにお付き合いというものを始めて知らしめられたのは、自分がこの数年取り組んでいたことは結局のところ壁紙を替えるとか、シンクをIKEAで統一するといった表層的なリフォームに過ぎず、抜本的な問題をむしろ遠ざけていたのだということを突きつけられた。

自分の問題は、経験のなさから来る、ある「ものごとの考え方」の深度の足りなさではなく、どだい人の心がわかっていないところにあるんじゃないか?と思わされる事件が陸続と起きたのだった。

こういうことを書くと、「いや、人の心なんて誰しもわからないものだよ」と言う人はたくさんいるけれど、そう言っている人も僕と数日でも過ごせば、イライラすること請け合いだと思う。

それは鈍感とかなんとか言うレベルではなく、同じ言葉を話していながら言葉の限界を感じさせるような体験をさせるらしい。
でも、それを広汎性発達障害とか言ってしまうのは超絶につまらないので、そういうことに寄せて考えはしないけれど、ともかく同じ言葉を話しながら絶えず捻れの位置にあり続けるという、絶妙な違え方をするらしいのだ。絶対にその解釈だけはおかしい、という「だけ」にコミュニケーションをほり込んでくるらしい。

「らしい」と言ってしまうのは本人には自覚がないからで、これもひとつ他人をイライラさせる要因になっているのだろうと思う。

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啓蒙の幕開け

池波正太郎も向田邦子もいまだに人気があるのは、書かれた内容にリアリティを感じる人がけっこうな数いるからだろう。
でも、なんのリアリティなの?と問われても、「今日は活きの良いリアリティ入ったよ!」ってな具合で見せることができないような、ふわっとしたものじゃないか。

池波を軸について今日は書くけれど、天ぷらの食べ方とか蕎麦屋での所作について書かれた『男の作法』なんて本が長らく読み継がれているくらいだから、リアリティというものは実際のところ相当ふわっとぼんやりしている。

だって輪郭をなぞりたがる人がいるといういうことは、輪郭でしかぼんやり描けないのが「らしさ」の本体ということをどこかでわかっているということで、つまりはそれはリアルの一端ではあっても、リアルとは違うということだ。

そうでありたい姿を強調すれば、そうではない自分の姿が炙りだされて来るのだし、それがいちばんリアルなのだが、「それはさておき」という形で、社会的に流通する(と思い込んでいる)姿に自分を似せていくことを人格の獲得というふうに勘違いしているから、男としての作法みたいなプロレスをやるはめになってしまう。

それは一見すると「大人になる」ということと似ているけれど、よくよく嗅げばぜんぜん違って、その違いを自覚していないと、むしろ大人になることから遠ざかることにさえなる。

プロレスを自覚していれば、それはそれで芸として成り立つ局面もあるのだろうけれど、前回書いたように池波の作品に出てくる女性がけっこうヒドいのは、彼の知っていた女性は「クロウトかお母さん」だからという身も蓋もないオチに終始してしまうならば、男らしさの通じる場所はけっこう狭いし、その依って立つところはわりと情けない、超個人的な思い入れでしかないということになる。

でも思い入れや幻想が悪いのではなく、それが常に限定された環境の産物で、だからこそリアリティをめちゃくちゃ感じるのだけど、「現実とは関係ない」ことをどこかで知っておかないと、自分の見ている世界が世界のすべてと取り違えてしまう。

前置きが長くなったけれど、1995年の秋に、僕のアパートの電灯の紐に「報われませんでした」と記したポストイットを貼り付けて去った彼女の心のありかが、池波正太郎と向田邦子を読んでいるうちにわかってしまった。

僕は池波正太郎のことを笑えないくらい、あるモデルを通じて彼女を見、接していて、彼女自体と触れ合ったことはなかったのだと気づいた。彼女からすれば、僕の眼差しは常に彼女を素通りしていたのだ。いま目の前にいる彼女と話しているのではなかったのだ。

だからといって、「クロウトかお母さん」のうち、僕はクロウトとは接点がないし、自分がママを恋しいと思ったこともないし、むしろ母親が早くに亡くならなかったら大変だったと思っていた口だ。

ただマザコンというのは、「ママと引き比べて異性を評価する」に限らなくて、それが問題の難儀さにつながっている。ようは「最初に出会った異性が自分を全面的に受け入れてくれるがゆえに相対化しにくい」ことで、だから、つい異性に自分を理解し、受け入れてくれることを求めてしまう心性が芽生えるどころか根を張ってしまうことに気付けない。
そうなると「クロウトもお母さん」も実は同じ役割を求めていることでしかなくて、そこに気付けないところがマザコンの根深さなんだと思う。

あるモデルを期待し、それを通じて女性を見るということを自分がナチュラルにやっていたことに気づいて愕然とした。
全然それはナチュラルじゃなく、極めて個人的な体験でしかないんじゃないか?と感じ、そのナチュラルさ加減がどこからやって来たんだと考える一方、僕は上野千鶴子やスーザン・ソンタグ、アドリエンヌ・リッチ、ジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライを片っ端から読み始めた。
啓蒙の時代の始まりだった。

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池波・向田問題

あれは29歳の桜も散り、ようよう夏の匂いが風に混じり始めた頃だった。仕事もなく無聊といえば格好はいいものの、毎日遅くまで起きて目覚めは「笑っていいとも」とともに迎えるという、のんべんだらりとした自堕落な暮らしをしていた。
あまりに暇なので毎日近くの図書館に通った。そうしてこれまで読んだことのない本を片端から読んでやろうと、手始めに『水滸伝』を借りた。
『水滸伝』は滅法おもしろい。これが江戸の日本のサブカルチャーを大いに刺激したというのもわかるものだわい、などと思いつつ瞬く間に全巻を読破。

さて次は、と図書館の棚を物色するうちに、なぜか池波正太郎、向田邦子などを借りた。これが逆鱗に触れた。いや、自分で自分の逆鱗に触れるっておかしな表現で、自分のことだから触れなきゃいいのだけど。

『剣客商売』に出てくる三冬の描写にイライラして読み進めなくなった。『剣客商売』を読んだ人もいないだろうからちょっと説明すると、主人公の秋山小兵衛の息子、秋山大治郎と恋仲になる男装の武芸者で、まあツンデレキャラだ。古典的だ。
古典的だけど、普段勝気な女性がヨヨヨと崩れる様にグッと来たりする習性のない僕にとって、こういうお話は設定が「江戸時代」である必要は根本的になく、すぐれて現代じゃないか?と思ってしまった。
(余談だが、後に『サンデー毎日』で一度だけ書評の仕事をしたのだが、それも江戸時代の時代小説だったが「これって現代のサラリーマンを江戸に置き換えただけで時代小説である必然性がない」と書いたら、「身も蓋もないこと書くな」と言われて、以来依頼は来なくなった)

こんな都合のいい女性っている?と思い、あまりに不思議だったので、僕が敬愛する知り合いの編集者さんに尋ねたところ「それはね、池波正太郎(に限らずその世代の男性に見られるけれど)が知っていた女性はクロウトかお母さんしか知らないからよ」と返され、なるほどと膝を打った。YOSHIKIなみに乱れ打ちまくった。

そこから今度は向田邦子の『あ、うん』を読んだところ、男同士の友情という名で紡がれるベタベタした関係と、娘が父の所有物みたいに扱われているところに辟易とした。

「辟易とした」で放おっておくと、たんに「向田邦子が嫌い」で終わってしまう。それは嫌なのだ。
僕は好き嫌いが激しいのだが、「嫌い」って言い切ってしまうところに歯切れの悪さを感じる質で、自分でもけっこう面倒くさい。言い切っているのに歯切れ悪いっておかしな話だ。

でも、「生理的に嫌い」という断定は、自分の中でひっかかりがあるからできてしまえることで、「ひっかかりがある」とは自分の中の詰まりだから、気持ち悪さは外にあるのではなく、自分の中にある。

向田邦子はお父さんが大好きで、お父さんと私の関係性を外に延べている感じがある。それが嫌なのか?と思ったけれど、じゃあなんで森茉莉はおもしろいと思うのか。森茉莉だって森鴎外大好きじゃないか。

僕は毎日図書館に通い苦手な向田邦子を借りて読み、あいまに森茉莉の『贅沢貧乏』を交互に読みながら考えていた。ある日のことだ。図書館からの帰り、小脇に「米朝落語」のCDを抱えて歩いていたら、ふと別れた彼女の事件の意味がぼんやりわかった気がした。
事件というのは、家に帰ったら彼女の家財道具一式がなくなっていて、電灯の紐にポストイットが貼り付けられ「報われませんでした」と書いてあったという例の事件だ。

僕はあれ以来、「報われませんでした」の意味をしばしば思い出しては考えていた。池波正太郎と向田邦子問題を考えるうちに、謎として残された言葉の意味の一端に触れた気がした。

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雑報 星の航海術

年の瀬によせて

昨日、ヤマダ電機に行ったら4万円代だったシャープのテレビ「AQUOS」が1万7000円に引き下げられていたので買った。大晦日のガキの使いの特番が見たいのと、ロンドンハーツとタモリ倶楽部が普段見たいので思い切って買ってしまったのだ。

地上デジタル放送に移行するまでは、ワンセグの小さな画面で見ていたので、それ以来だから久方ぶりのテレビとなる。買って早々思ったが、年が明けたら誰かに譲りたい。(希望される人がいたらご連絡ください。サイズは19インチです)

少しばかりテレビの仕事に携わっていたから、「なぜこういうふうになるか」はわかる。「こういうふう」を適当な言葉で表すのは難しいけれど、テレビが構成している現実と現実の違いが不明瞭になる感覚で、これに浸されるとわりとダウナーな気分になる。

僕はメディア批判をしたいわけじゃない。メディア批判をすることも必要だが、批判した途端、その刃を自分に向けないと嘘になる。
なぜかというと、批判の言葉に“自分の気づいたこと”を預けてしまうと、途端に大雑把な考えが自分を捉まえにかかるから、自分が見ようとしていたことが見えなくなる。
そうして僕らはマトリックスの世界に入って、自分が何について見ようとしていたのか。何について語ろうとしていたのか忘れてしまう。

テレビ番組が―それがバラエティだろうが報道だろうが―セッティングしようとする現実はメディアが一方的に僕らに信じさせようとしているのではなく、明らかに僕らの無意識の照り返しを受けている。

そう思うのは、何を見て、何を語ろうとしていたのか。不分明になる光景をこの一年たくさん見てきたからだ。たとえば脱原発運動に、外交問題に生活保護問題に時事ネタに。

誰とはわからない相手に礫を投げることに楽しみを覚えても、自分がぶれているから自分の見ているものもぶれて見える。そうして自分自身を打擲し始めることに自覚もないまま、自分を打ち据える。あらゆるところにこの傾向がはびこっている。

これは何もテレビだけでなく、テレビを批判する文言のあふれるネットにもある。街頭がリアルなのではなく、不分明さを現実と思う認識は渋谷にも霞が関にもあるだろう。

これからもっと現実的であることと現実の違いがわかりにくくなるだろう。
眠り込むことのほうが現実的だという声は次第に大きくなって、自分がそれについて訝しむ心の声はかきけされがちになって、いつしか焼き付けられた信念の言葉の体系で整然と話しだすかもしれない。

そうあって欲しい、そうあるべき、そうでなければならない現実は現実ではない。そういう焦りや切迫さが何かの行為に表れるとき、決まって他人だけでなく自分を押しやるような言葉使いになってしまう。志操堅固とは自分をスポイルすることのほうが往々にして多い。

たぶんこれからは荒れた、もっと暴力的な世になっていく。
けれども、どれほど世の中が暴力的で生に否定的でも、根こそぎにされてたまるかと思うし、根こそぎにされないところであらかじめ生きている、という設定で生きていく。

ブルトンのいう「生きること生きることを止めることは想像の中の解決だ。生は別のところにある」でいく。