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誰のためでもない

京王プラザホテルで取材しているとき、白竜さんに「これ、なんかの資料に使ってよ」と何枚かのアルバムをもらった。

前回書いたようにホテルの地下二階の駐車場からホテルの玄関前で降ろされたわけで、そのまま新宿まで歩き、中央線に乗り込んでから、アルバムを取り出した。
とりわけ目をひいたのが4枚目のアルバム「ポジティブ」の中の「アイデンティー クライシス」。

やっぱりこんなど真ん中直球のタイトルって気になるじゃないですか? わくわく半ばの怖れを抱きつつ、歌詞カードを見てみました。

そこには「アイデンティー クライシス wow wow アイデンティー クライシス wow wow」的な詞が綴られていました。僕は泣き笑いの「泣き」のほうが心持ち大目の泣き笑いで濡れつつ、蟹と戯れじっと手を見たのでした。

でもね、いったん受けたからには「おまえが舵を取れ」by長渕剛ですよ。何が何でもやってやるという気持ちで、それから一ヶ月家にこもり、北野武や松田優作の本に出てくる白竜さんに関する記事を読み、他人の中に現れる白竜さんの像をいわば地に差す影と見立て、今度はその影から僕の目の前におり、箱根や京王プラザで話した白竜さんに重ねあわせていく、いわばホログラフィーを浮かび上がらせるみたいな作業をした。

そこで出来上がったのが『誰のためでもない』。

僕は白竜さんとの仕事を通じて、改めて思ったのは、祖国だとか民族だとかへの思いを饒舌に語れるほうがおかしいのだということで、言い淀むことがないまま滔々と述べられることのいかがわしさに対し、もう少しセンシティブにならないといけないなということだった。

国家や民族というものを概念で理解している人はほんとうに怖い。そこには「人が話していた」痕跡が見当たらない。

人の話す言葉は、肺を通じ、食道を通り、頭蓋骨内で反響し、おとがいから漏れる。音を発するからには、人体のもつ湿り気や温度を含んだ、つまりは言葉には体温が備わっている。
その体温を削除していくような言葉で埋めていくことを良しとするような、限定された論理をもって社会性と勘違いできてしまえる風潮が強まっている昨今にあって、いかに人が人に向けて話すということの実感を取り戻すかが問われているんだと思う。

特段、白竜さんがそういうことを話したわけではないのだけれど、彼の飾らない態度と接して、そういうふうに感じたのでした。

ゲラが出た段階で、白竜さんから電話がかかってきた。「いやぁ、泣いたよ。二度読んで泣いたよ」。
「いやいや、あなたのお話ですよ」と思ったけれど、たぶんお父さんのくだりを読んでのことだろう。

白竜さんのお父さんは、裸一貫でスクラップの会社を立ち上げ、汗を流して働いてきた。
佐賀には珍しく雪の降った日、お父さんの乗ったトラックのクラクションが鳴り止まなかった。家人が訝しく思い、トラックの運転席を覗きこむと、お父さんはハンドルに突っ伏して亡くなっていたそうだ。

インタビュー中に白竜さんのお父さんへの思いを聞いて、「ヨイトマケの唄」を思い出した。
「苦労 苦労で死んでった 母ちゃん見てくれこの姿」

地べたを這いまわって生きざるを得ない人がいる。歯噛みする思いで日々生きざるを得ない人がいる。
その人たちの飢餓感、怒り、悲しみをわかったふうに理解なんてできるわけがない。

襟を正して耳を傾けることをうっかり疎かにしてしまうだけに、人の感情に流れるその人の生を支える思いを見ないといけない。僕が白竜さんとの仕事を通じて得た最大の収穫物はそれだった。

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続、白竜さん

2泊3日の箱根ぶらり取材では結局のところ掘っても掘っても鉱脈に行き当たらず、さながらシーシュポスのような疲労困憊した心持ちで宿を後にすることにした。

シーシュポスによる絵に描いたような徒労

帰りは電車ではなく、白竜さんの車で都心まで送っていただけることになった。白竜さんは今回の取材の首尾にさほどこだわりはない様子だった。きっとかなり楽天的な人なのだ。

「最近ね、これがすごくいいんだよね」と取り出したのは、宇多田ヒカルの『First Love』で、「すごいよね、彼女」と、手放しの褒めよう。

「そうですね」と僕は短く答えるのみだった。心中、本を仕上げられる自信はなく、どうしたものかと考え、窓の外を見ていた。

「あれ?この会話の調子、なんかに似ているな」と、思い出したのは、森田芳光の「ときめきに死す」だ。

テロリストの工藤(沢田研二)は迎えの車に乗る。走行中に窓を開けた工藤は「涼しいですね」と、少し目の奥に笑みを湛えて運転手に話しかける。男はてっきり気候の話だと思い、「そうでしょう」と答える。途端にすっと工藤の目は悲しげな、冷めた調子になる。

「そうか、工藤はこの先に待ち受ける要人暗殺に向けての精神について“涼しい”と語っていたのだな」などと、白竜さんを置いてけぼりにして考えていたら、「クロレッツ、いる?」と話しかけられ、「え?あ、はい」とまったく涼しさのかけらもないヘドモド具合でクロレッツを受け取る。

クロレッツをふたりしてにちゃにちゃ噛みつつ、東京へ。

翌日、毎日新聞社の出版部へ行き、「このままではどうもこうもならん」と編集長に報告し、あるいは名誉ある撤退をと進言したのだが、まあ早計に過ぎるからもう少し待てと言われ、再度取材することになった。

一冊の本をつくるには、最低でも10時間くらいは話を聞かないとそれなりの厚みは出ない。10時間でも少ないくらいだ。
ところが箱根で割いた時間は6時間くらいで、しかもその内容は3時間程度だという感覚だった。

だから僕には、この分量で一冊の本にまとめられる自信がなかった。なにせ初めてのゴーストライティングなのに資料はおろか、ご本人から詳細なエピソードが語られないのだから。

けれども、「だから無理だ」とできない理由を数え上げていたらいつまで経ってもできないままではないか!と、ブラック企業でも通用するような理屈で自分を叱咤し、「やればできる子だよ」と鼓舞することにした。

それから数週間後、白竜さんご指定の京王プラザホテルのスウィートルームで3時間あまりインタビューすることとなった。

京王プラザはもはや新宿にある凡庸なホテルではなく、韓信における井陘の戦い、つまり背水の陣を敷く地であった。この企画でしくじれば、もう二度と仕事の依頼はないんじゃないかと思いつつ、そうなったとしてもなんとかなるだろう。書籍の仕事がなんぼのもんじゃい!という開き直りがよかったのが、わりといい感じで取材を終えることができた。

ちょっとした高揚感を白竜さんも味わったのか。部屋を出ると、「送って行ってあげるよ」と僕に言う。新宿駅まで歩き、そこから電車に乗るつもりだったし、当時、僕は荻窪に住んでいたので、白竜さんの申し出に、「なんて親切なんだろう」と、やはり取材で意思の疎通が得られるのっていいもんだなぁなどと思っていた。

エレベーターは地下二階の駐車場へ。大型のSUVに乗り込み、車はぶぃーんと地上へ。そしてキィッと小気味良いブレーキの音がしたかと思うと、白竜さんは「じゃあ」と一言。

へ?と思いつつ降ろされたのはホテルの正面玄関だった。「これ、資料として聴いておいて」と白竜さんのアルバムを何枚か渡され、改めて「じゃあ!」と言い置くと、車は僕を後に走りだした。

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白竜さん

ろくに記事も書けないし、取材力もない僕は「サンデー毎日」では、というか「サンデー毎日」“でも”まったく使い物にならなかった。

宮沢賢治は「みんなにデクノボーと呼ばれたい」みたいなことを言っていたけれど、呼ばれたいと思わなくたってすでにデクノボーな場合は、どうしたらいいのですかね。

自分を小突き回したところで、何もよい知恵は出てこない。このようなとき何の益ももたらさない己を徹底的に見つめるのが世間相場だろうけれど、そのような生真面目さもないので、そういえばと納戸から三線を引っ張りだし、時間もあることだし、ひとつ爪弾いてみようと「てぃんさぐぬ花」の練習を始めた。

のはずだけど、いつのまにかスモーク・オン・ザ・ウォーターのディッディッディー♪のリフの練習になっていたり、およそ集中力がない。

米櫃の底も見えてきたことだし、さてもどうしたものかと思案していたところ、久方ぶりに「サンデー毎日」の編集長から電話があった。こんどの仕事は書籍だった。

北野武監督の「その男、凶暴につき」で殺し屋役を演じた俳優の白竜さんの自伝をまとめることになったのだ。
その頃、TRFをはじめ小室哲哉の手がける曲が歌謡界を席巻していたが、実は小室哲哉は昔、白竜さんのバックバンドでキーボードを担当していた。それ加え、北野作品に登場し、その演技が注目されていた時期でもあったので、本を出版しようという流れになったのだった。


ところで僕は書籍にできるような長い文章を書いたことがないし、それよりも何よりも毎日新聞が箱根にもっている施設に2泊して話を聞いてくるように、という編集長の言葉にはやくもプレッシャーを感じてしまった。

いちおう顔合わせで白竜さんとマネージャー氏、編集長と僕とで食事の機会はもち、顔合わせはしたものの、僕は終始緊張していて、そんなコミュニケーション能力の低調さ具合、というかリンボーダンス並に下へ下へと向かう傾向大の自分にとって、白竜さんとふたりきりで部屋にこもって話を聞くなど、比叡山の千日回峰行に匹敵するような荒行と言えた。

そんな僕だったが、モチベーションを高めたのは大塚寧々だった。当時、白竜さんと大塚寧々さんが付き合っていると「フライデー」にスクープされ、大塚寧々が好きだった僕としては、「何を!」という気分だったのだ。

さて、インタビュー当日、僕は現地に電車で白竜さんは車でやって来、インタビューはスタートした。

白竜さんはクールな役だとかヤクザ役が多く無口で怖いイメージがあるけれど、本当はすごく明るい。
良くも悪くも朝鮮高校出身に見られる磊落さをもっている人で、朝鮮高校を卒業後、ひと頃は金剛山歌劇団でチェロを弾き、北朝鮮でも演奏したことがある。
その後、ロックミュージシャンに憧れ、一念発起し、夜行バスで東京へ出てきたものの挫折。一時期は佐賀に帰り家業のスクラップの仕事で汗を流していたけれど、喜納昌吉さんとの出会いで再び音楽の道に進む事を決意し、バンドを組んだ。

白竜さんが注目を浴びたのは1980年のデビューアルバムで、収録曲の「光州City」が問題となり、発売ができなくなった。
というのも80年5月、韓国・光州で民主化を求める学生、労働者と韓国軍が激突し、多数の死者が出たのだが、白竜さんはこの事件について歌ったのだった。
白竜さんが言うには、これは政治的な思惑でつくったのではなく、「光州市民へのラブソング」のつもりでつくったそうです。実際、いま聴くとベタな歌詞で、何が問題になったのかわからないのだけど、このことが却って話題になった模様で、ライブは盛況だった模様です。

光州事件は民主化なのか人民蜂起なのかそれとも暴徒化なのか。いろんな論争があった中であっさりと「ラブソング」と言ってしまう感性からわかる通り、白竜さんはディテールをあまり気にしない人です。すごく良い人です。

良い人なのですが、ノンフィクションとしてはディテールを書き込まないと話にならないわけですね。たとえば白竜さんは松田優作と仲が良かったそうで、「お、これはトピックになるな!」と思って、さぞかしいろんなエピソードがあるんだろうなと思って「どういう話をしたんですか?」と尋ねた。すると白竜さんは。

「んー、そうだね。いろいろだね」

…いろいろというのは?と尋ねるのだが、「いろいろというのは、いろんなことがあってね。うん、やっぱりね、優作さんはいい人だったよ」といった話で終わってしまう。そして沈黙。

一冊の本にするにはだいたい10万字くらいは必要で、ジグソーパズルで言えば1000ピースは必要なんだけれど、この調子でいくと3ピースくらいで完成!みたいな話になってしまう。

白竜さんも困ってきたのか、「ちょっと風呂でも入ろうか。せっかく箱根に来たんだし」と一緒に湯を浴びることにした。白竜さんは一足先に浴場へ。

ふとテーブルを見ると、白竜さんが持参したノートが広げられていた。
見るともなく目に入ったのだが、そこにはこの取材にあたって白竜さんなりに話すべきことが「あの人検索スパイシー」みたいに書いてあった。
真ん中に白竜さん、そして四方に線がひかれ、大澄賢也、力也、松田優作といった名が書かれ、小さく白竜ファミリーと書かれていたのだった。
僕はこの先の話をどう進めていいのかわからなくなった。

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突撃取材

会社を辞めた後、毎日夕刻には朴葉の高下駄をひっかけカランコロンと鳴らしつ銭湯へ。近隣の子供らには「わぁ、天狗だ。ねぇねぇ、お母さん天狗だよ!」などと言われる。帰りに飲みなれない小瓶の日本酒などを買っては猪口一杯で酩酊する。一度やってみたかった無頼、とは到底いえないが、長屋の浪人の無聊をかこつくらいには言えるような日々を過ごしていた。

それからしばらく。僕は人の紹介で毎日新聞が発刊している週刊誌の「サンデー毎日」の仕事をすることになった。前職のミニコミじみた新聞社で働いている時代、議員会館で拉致問題をめぐる記者会見がときおり催され、そこで各新聞社の記者と面識ができたが、もっとも話をしたのは毎日新聞の記者だった。

この辺りが餃子の皮に似ている

現場で見かける記者のスーツでどこの新聞社かわかるものだ。いちばんパリっとしているのは朝日、次いで読売。産経、毎日ときたら、折り目も行方不明になったパンツに、型の崩れたポケット、足元はわりとギョウザ靴率も高めだった。総体的にグダグダな感じがなんとなく好感をもてた。

初めてサンデー毎日の編集部を訪ねたとき、記者の格好がああいうものであったのも合点がいった。メジャー紙なのに場末感の漂うこと夥しいものだったからだ。

ともかくサンデー毎日で記事を書くようになったのだが、何を取材してまとめたのかほとんど覚えていない。記憶に鮮やかなのは、いつも取材はしどろもどろで、まとめた記事も覚えめでたいものではなかったことだけだ。
週刊誌の取材はじっくり時間をかけるというよりは、パッと要点をつかむようなものでないといけない。そのうえまとめ方も週刊誌のスタイルというものがある。

あるとき僕の入稿した原稿を読みながら、編集長はこういった。「週刊誌の読者はサラリーマンだ。彼らは疲れている。だから考えさせるような文章を書いてはダメだ」。

「なるほど、そういうものか」と思いはしたものの、そんな記事は書けないのは僕も編集長も承知で、だから普通ならば、「はい、さようなら」と仕事が回ってこなくなるのだが、編集長は心優しい人だった。
「まぁ、こいつも何か使い道があるだろう」と算段してくれた模様で、しばらくすると、ある関東の大学病院に行くように言われた。

その病院の医師が医療過誤で遺族に訴えられていたのだが、僕の仕事は「当該の医師に直撃インタビューせよ」というハードルの高いものではなく、「取材する記者の付き添いをするように」という内容だった。
病院もピリピリしているであろうから、たとえばアポイントなしで医師にコメントを求めたら、状況によっては守衛なりが制止に来るかもしれない。それを押しとどめるくらいの時間稼ぎには使えるだろうと思ってのことだったろう。

僕が同行することになった記者は現場に出るのが好きな人で、というかだからこそ週刊誌の仕事をしているのだから当たり前で、僕みたいなインドア派がするべきではないのだが、病院に着くや彼女は当該の医師がどこにいるか、怪しまれないように尋ねており、「そうか、こういうふうに取材をするのだなぁ」と思っている僕はといえば、とりあえずすることがないなと思って待合室でボーっとしていたのだが、いつの間にか鼻ちょうちんを膨らませつ船を漕いでおり、しばらくすると肩を叩かれ、「行きますよ」と起こされた。聞けば病院の公舎で医師の帰りを待つのだという。

寝ぼけ眼の半眼が目頭切開したかと錯覚するくらい、で冬の北関東の冷たい風で目が開いた。僕は寒いのとか暑いのとか苦手な虚弱児で、おまけにテレビ製作の仕事をしていた時から「ただ待つ」ということが本当に嫌なタチで、そんな自分が病院の公舎についてひたすら近くの電柱のそばから医師の帰りを待つというのだから、早くもうんざりで、「今日のところは引き上げましょう」という口実はないものかとあれこれ考えて、隣にいた記者を見ると、彼女は「八甲田山」において「スタッフが寒いのに自分だけ温まるわけにはいかない」と雪中立ち続けた高倉健のような面立ちで、公舎をじっと見ているのだ。そのプロ根性にさしもの僕も襟を正した。

待ち続けること3時間あまり、10時近くに公舎に男性がやって来た。それっとばかりになぜか僕は駆け出した。たぶん彼女の記者然とした態度に感化されたものと見え、本来ならば彼女がするはずの仕事だが、その男性に「◯◯さんですか? 遺族についてどう思われていますか?」と切り出してしまった。

すると男性は「誰ですか、あなたは?警察を呼びますよ」と言い、僕は「わー、逃げろー」とばかりに電柱に舞い戻る。同行した記者はチッと舌打ちしていた。

靴が隠れるくらいに降り積もり始めた。今日は解散しましょうと彼女はいい、僕らは駅でわかれた。もちろん、それ以来、彼女と仕事することはなくなった。

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怪談

失恋の痛みというのは何度味わっても耐性ができるわけでもないものだ。辞職願いを出してから退職までの一ヶ月、仕事に関しての記憶はまるでなく、時節も秋ということもあり「ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」い感じに浸っていた。浸りすぎてダシがとれるくらい。

人ごみに流されて変わっていくのは私なの? それともあなたなのかしら?
そんなポエジーな気持ちで過ごした日。あの頃を振り返って強烈に覚えているのは実は彼女ではなく、怪奇現象であった。

統一日報は日刊の新聞社ではあるけれど、読者には郵送で届くため速報性はあまりない。そのうえ記者クラブにも入れない。日本のメディアの蚊帳の外にいたわけだから他の新聞社のような「夜討ち朝駆け」のルーティンワークはない。

なのだけれど、なぜか宿直当番があり、男性社員は月に一度くらいの割合で当番がまわってきた。入社して半年目まではその義務はなかったが、それ以降は僕も宿直に入るようになった。地下一階のキッチンと倉庫のあるだだっ広い部屋はとにかく気配がよくない。寝付けない。
眠気が訪れないので「ドクトル・ジバゴ」とか「ストーカー」とかわりと長編もののビデオを見て、時間を過ごすことが多かった。

宿直に入った人の中で公然と語られていたのは、「幽霊が出る」という話で、どうも昔、社内で心不全で亡くなった幹部がいたらしく、その人じゃないか。
あるいはキョクシン空手の“牛殺し”の大山倍達(本当は牛を殺していないけれど)の師匠であり、石原莞爾の秘書だった曺寧柱の霊ではないかともっぱらの噂であった。

僕は幽霊を見たことがない。そういうものの存在を信じるか?と言われたら、「いても別にいいだろう」くらいにしか思わない。見える人には見えるし、感じる人は感じるのだから、それを躍起になって否定してもしょうがない。

ただ、そういう世界を証だてするスピリチュアルの住人たちは本当にピンからキリまでおり、どちらかといえば偽物のほうが多いのも事実で、だからその手の話は基本的に眉唾くらいでちょうどいいと思っている。

退職の数日前、最後の宿直当番となった。その日、夜中の見回りも終わり、ベッドに入った。どれだけ時間が経ったかわからないが、深夜に目が覚めた。

会社は4階建てて正面玄関はシャッターを下ろしており、社内には僕しかいない。出入り口は地下一階しかなく、そこの扉はとても立て付けが悪く、外部から人が入ってきたらどれだけ熟睡していても目が覚める。

外部から誰かが入った形跡はないのだが、階上で明らかに靴音が聴こえる。カツカツという音がする。一年半も勤めていると社内の人間の立てる靴音にはそれぞれ特徴あるということもわかるものだが、もう明らかに社内の人間ではないことが直感的に知れた。

「とうとう来ましたか」と思いはしたものの、とりあえずできることと言えば、布団の中に潜り込み、怨敵退散と唱えることくらい。
すると靴音が階段を降りる音に変わった。四階から三階へ。しばらく静かになっていたかと思うとまたカツカツと歩きまわる。

亡くなった幹部は老年であったと聞くが、耳に響く音からしてわりと快活で、スタッカートまでいかないがレガートな感じの足取りは三階から二階へ。

死んだふりをしたところで相手はクマではないのだし、これはシャレにならないなぁ。どうしようかなぁ「怖いな怖いな」などと稲川淳二みたく思っているうちに、幽霊の御仁は二階から一階に降りてきた。フロアを徘徊しているらしい。

そこらへんで帰ってくれませんかねと心中に思っていたら、どうもそういう気分ではなかった模様で、地下にかかる階段を見下ろしている按配の気配が伝わってきた。人間ああいうときの五感ってすごいものがありますよね。

とうとう足音は僕のいる地下室に向けて降り始めた。足音の響きからして階段半ばまで降りたことは確実だったが、その人?は突如、ワハハハハと笑い出した。哄笑とは、こういう笑い声のことを言うのだなぁと思うくらいの呵々大笑であったが、こちらはつられて恐怖の泣き笑い。
意識が途絶え、気がつくと朝だった。あれが幻であったか現であったかはもはや定かではない。ただ、あの笑い声の邪気のない感じだけははっきりと覚えている。