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横田さん夫妻について

新聞社に入社して半年経ったものの、僕は半人前の仕事しかしておらず、先輩の仕事の手伝いか雑用で日は暮れ、居残る謂れもないので定刻に帰るという規則正しい生活をしていた。

さすがにそれではまずかろうと思っていた折、横田滋、早紀江さん夫妻が娘のめぐみさんの失踪の原因は、「北朝鮮による拉致である」とする旨の会見を行ったとする発表が産経新聞に記載された。

僕の記憶では、それ以前から保守系の論壇誌や北朝鮮の人権問題を扱うグループ内では拉致について語られており、また僕の学生時分から北朝鮮の犯行について内々で囁かれていたことであったけれど、それを横田夫妻が公的な場で言うことは、異なるインパクトをもった。当時の北朝鮮当局からすれば、横田夫妻の見解は捏造にほかならないものだった。

あくまで僕の感覚ではあるけれど、北朝鮮に対し反感をもつ韓国系のグループでも拉致問題に関しては、「どうぞ嘘であった欲しい」という思いがあったように思う。骨肉相食む戦争をし、およそ理解しがたい振る舞いをする国家であるにせよ、「同じ民族である」という期待から保てるつながりわずかにでもあればこそ、なおのこと「身内の恥」という思いがあったからだ。

個人的な考えでいえば、「拉致などありえない」という論調があった頃から、僕や友人のあいだでは「当然ありえるだろう」という話をしていた。べつだん拉致問題について調査したわけではないが、伝わる証言や状況証拠を聞くにつけ、苛斂誅求という語でも追いつかない仕打ちを自国民にしでかす政権であれば、そのようなことをするのに躊躇なしないだろうと、ごく自然に思えたからだ。

横田さんの見解は、北朝鮮当局がそれを認めない以上、あくまで状況証拠ではあった。けれども個人的な努力でめぐみさんの失踪当時の状況を調べ、それらを丹念に積み重ねた結果、最後のピースには「北朝鮮しかあてはまらないという」と考えるにいたった。
実の娘が忽然と姿を消したのだ。その心労いかばかりか。長年に渡り調べ続けた、その胸中を思うとなんとも申し訳ない思いがした。

僕は、生まれも育ちも日本だ。自分が韓国人であることを認識するのは、国籍が「韓国」であるからで、そういう認識を日本語を通じてもっている。そもそも自分の属性など空気のようなもので改めて自分が「◯◯人である」と四六時中思いを馳せるのは特殊なマニアであり、いちいち意識などしないものだろう。
けれども、少なくとも在日韓国人の三世ともなれば、自分の属性について日本語を経由して「韓国人である」というあえてする認識によって得た概念上の韓国人を自分に照射している。その行為をもって、自分が何者であるかを獲得している筋道をたどっている。

韓国人であることをかろうじて人造的に獲得している身であれば、北朝鮮の行いについて責任をもつ理由もなければ、責められる筋合いもないのかもしれない。

けれど、僕は横田さんに対し、まったく論理的にではないが申し訳なさを感じずにはいられなかった。韓国生まれの韓国人であれば、北朝鮮のしでかしたことを「関係ない」で済ませることもできるかもしれない。だが人為的に獲得した、よくできた紛い物のアイデンティティだからこそ拡張できる。その余地に咎める意識が芽生えた。

もしも横田さん夫妻が北朝鮮に対し憎悪を募らせていたとして、「そうですよね。酷い国ですよね」と僕が言い、そのことで僕の中の負い目が減債されると思えるのだとしたら、自分を恥ずかしく思うだろう。そんなふうに思い、横田さん宅を訪ねた。

1時間あまりのインタビューで滋さん、早紀江さんは交代に話し、どのような経緯で北朝鮮の犯行と考えるにいたったか。また娘のめぐみさんはどんな人物だったかについて述べられた。決して昂ぶるところなく、淡々と夫妻が事実と確信したことについてのみ話をされた。

そして、横田さん夫妻は、北朝鮮の犯行については非難はしても、朝鮮人や韓国人については悪感情を抱くものではないと話され、僕はなんとはなしにホッとして、これでようやく公正に報道できる気分になった。

その感慨は、当初抱いていた「そんなもので安堵してはいけない」と、恥じ入る気持ちからすれば辻褄が合わないかもしれないが、負い目の反動の正義感というこじれた感情で、横田さん夫妻の思いについて報じるのは、新聞メディアの片隅というよりは場末に位置した、マスメディアというにはあまりにミニコミな媒体であっても、報道姿勢としておかしい。そう思ったのも関係しているだろう。

僕が取材した記事はけっこうな分量で紙面に記載された。当時、他の新聞メディアで拉致問題について書いていたのは産経新聞くらいだったから、確証持てないこととして、他紙は様子見だった。
以来、僕は横田さんの出席される議員会館内での記者会見や集会に参加し、記事を書くようになった。

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方違え

ふつう名物記者というと、他社に先んじてスクープをとってくるような人を指すのだろうけれど、僕の勤めていた社に関していえば、マスメディアの一翼を担っている意識が絶無だったため、そのような競争原理が社内に働いておらず、ではどういう力学と動機によって仕事が行われているのかというと、よくわからない。

たぶん、前から行われていることを今日も行うという意識だったのだろう。そうした平坦な時間感覚では刺激の少ない、凡庸な人物しか集まらなくても不思議ではないのだけれど、赤坂の吹き溜まりの立地の面目躍如というべきか、ここには名物記者はいなくても、ひょうげた名物珍器はたくさんおり、しかしながら名物に旨いものなしというように、変わり種のめじろ押し&粒ぞろいの織り成す一挙手一投足はさながらコントのようであった。

たとえば、階上が何やら騒がしい。はて?と思っていたらば、幹部同士が取っ組み合いの喧嘩をして階段から転げ落ちてきた。
はたまた上司同士がつかみ合いの喧嘩をして、くんずほぐれつのまま掃除道具を入れているロッカーにふたりして入り込み、その中で喧嘩を続行し、数分後に出てきたほうが勝者と見えたが、その頭には蛍光灯の破片が刺さっていた。

それはジャーナリスティックな論点や思想信条もろもろのパトスが知らず迸り、肉体言語となり竜虎相搏つ展開であった。といえば格好もつくが、そういうわけではまったくなかった模様で、いまなおその咆哮搏撃が何によってもたらされたのかは不明である。俺の悪口を言ったとかそういうレベルであったかもしれない。

しかしながら、常識のあるなしを同時代の価値観に求めたとき、上記の行動は「大人気ない」「話せばわかるものを」と、取り成す理由を持ちきたれば、それなりの理解もできようが、僕はある日、なまじ現代人風の言葉をしゃべり、当世風の衣装を着ているからわからなくなるが、この時代のものではない価値基準に拠って生きる人がいて、その人からすれば現世の、しかも企業社会で通じる理屈がごときは、まったく歯牙にもかからないものなのだなと痛感した。

社はまがりなりにも新聞社であるからして社会部、経済部、文化部、資料室というセクションにわかれている。ある日、文化部の上司が資料室の新人社員に「あすこに行って資料を引き取りに行って欲しい」とお願いした。
口頭で指示を受けたらば、すぐに部署に戻ればよいものを新人社員の女性は「んーんー」と思い倦ねる様子。
しかも、これほどまでに「んーんー」を絵画的に表せるものかというような、あからさまに指示されたことを右から左へと誰かに手渡したいような様を見せたという。

あまりに陰々と低周波な「んーんー」を続けるものだから、上司は「どうしたの?他に用事があるの?」と尋ねると、彼女は「んー、いや今日はそっちの方角はあんまり行きたくなくて」と返した。平安時代か!と上司が突っ込んだかどうかはわからない。

まさか現代に「方違え」や物忌に基づいて行動を律している人がいると思わなかったのだが、彼女にとっては指示された行く手には、艮の金神か天一神がいたものと見える。

時代の標語にグローバルスタンダードはまだ掲げられてはいなかったけれど、「外資系」という語をもって、「バスに乗り遅れるな」的雰囲気は世に広まりつつあった。その折も折、ローカルルールに則ってどっこい生きる人がいるというのは、ちょっと感動ものだった。

相変わらず席の前の先輩は仕事中にキッチンで昼ご飯の仕込みをしていたし、超ローカルルールに則り過ぎて業務は遅滞するのが常となり、24時間遅れの定刻みたいな、遅滞も周回すると平常運転に思えてくるようだ。

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肉を叩く

入ったばかりの新聞社は粒よりに奇態な人がいて、たとえば僕の前に座っていたKさんなどは、ノートパソコンひとつ入れたきりのゼロハリバートンのデカくて重くて、取材に行くには厄介この上ないアタッシュケースを「彼女にプレゼントされたから」という理由で後生大事に抱え、それがゆえに「階段を駆け上がることができない」と嘆息しており、それがためか決まって遅刻してきては上司に怒られていたので、僕は入社早々、Kさんを巨大な岩を山頂まであげるシーシュポスのように眺めていたのであった。

あるときなど赤坂見附駅から歩いて5分ほどの会社であるが、朝は246と外堀通りが交わるものだから決まって混むのは必定にもかかわらず、タクシーに乗り込み10分以上かけてわざわざ遅刻し、おまけにタクシー代をもっておらず玄関に居合わせた同僚に建て替えてもらうという珍妙なことをしでかしたのち、襟元からなんか突き出ているので、「おや?それは?」と目を凝らしたら、スーツを吊るしていたハンガーごと着込んでいたというマンガのようなことをしでかしていた。

毎朝の儀式となっている上司の叱責を受けた後、Kさんは席に座り、いかにも調子の悪そうな顔つきで、かなり大きな声でひとりごとをいう。
ようは遅刻の理由を問わず語りに言うのだが、それが日常となっている同僚らは、何も突っ込んではいなかったけれど、入ったばかり頃の僕は、Kさんの言動に対する目測がわからず、毎日聞いていたらば遅刻の理由が重篤さを増し、「今朝、実は血を吐いたんだよね」と言った彼の鼻の下がくすんだ暗赤色をしているのを見、たんなる鼻血に過ぎないことを認めた時、遅刻に関しては手を変え品を変えての盛った表現なのだと得心がいった。

でも、Kさんは毎朝真剣に遅刻に対し、反省ないし悔恨をしているのは疑いようもなかった。
なぜなら「俺はもうこの仕事に向いていないから止めようかな」とこの世の終わりに吹く風はかくやと思うような陰陰とした深い溜息とともに言うからだ。

僕としては「適性の問題ではなく、家をもう少し早く出ればいいだけだと思いますけれど」と言いたいところだけど、先輩の海より深く反省する様子を見てはそうも言えない。

なだめているうちに奮起し、「よし、やるぞ!頭をしゃっきりさせないとな!やっぱりコーヒーだね。コーヒー淹れよ、コーヒー」と機嫌よくコーヒーメーカーに向かう頃には始業からだいたい1時間は経っており、午前中に入稿しなくてはいけない記事のアウトラインくらいデスクに報告しなければいけない時間帯だが、「まあコーヒーいっぱいくらいね」などと思っていたら、だいたい30分経っても帰って来ない。

先輩はミートハンマーを持参して業務中に肉を叩いていた

その間、どこに行っているのかわかかなかったのだが、入社して数週間後、もうひとりの先輩が苦々しく僕に「ちょっと様子を見てきて、下のキッチンに」という。会社の地下一階には仮眠室とキッチンがあって、そこを見てこいという。

へ?と思い、言われた通り、キッチンに行ったらKさんはニコニコした顔で「昼に美味しい肉を焼いてあげるよ」とミートハンマーでステーキ肉を叩いている。言っておくが、いちおう新聞社であり賄いなどはない。

あまりのことにデスクに戻り「Kさん、なんか食べた時、口の中で肉が喧嘩しないように柔らかくしてますけど」と報告したら、先輩は「あのバカ!」と言ったきりで、かわりに原稿を書き始めた。

Kさんはいつもみんなに迷惑をかけている。「だから昼ごはんをご馳走したい」という、僕らの想像の次元を越えた深い悔恨をしていた模様で、よかれと思って肉を叩いていたのだった。
僕もそういうトンチンカンなことをしがちなので、Kさんの心中を察すると思わず目頭を抑えたくなるのだった。

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ぬかるみの世界へ

巷間“赤貧洗うが如し”というが、洗うものもあとは我が身ひとつとなれば、そう頻繁に洗ったのでは乾燥肌になってたまったものではない。「やあ、米びつの米も底をついたようだし困ったな」と思っていた折に、知人が連絡を寄越し、「ひとつどうだね」と新聞社の口を斡旋してくれるというので、面接を受けることにした。

新聞といってもメジャー系ではなく、在日韓国人を対象としたコミュニティ向けの新聞、というかミニコミみたいなものです。その名もまた誤解を受けやすい「統一日報」というもので、よく統一教会の広報誌と間違えられるのだけど、それは世界日報という。
統一日報のいう「統一」とは「朝鮮半島の統一」を指しており、決して宗教から来たものではない。のだけれど、その統一はあくまで韓国主体であって、つまりは反共と韓国政府の支持が前提だという保守的な論、といってもそう立派な論でもない論を主張する媒体で、その頑なさは宗教にも似ていたやもしれない。

80年代半ばくらいまで実家も付き合いで統一日報を購読していた。その背景には、在日コリアンのコミュニティが影響している。
最近ではネットの影響もあって一昔前なら物好き以外は知らなかったことも曲解込みで浸透している模様で、在日コリアンには韓国を支持する民団と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する総連のふたつの団体がある。この連載でも書いたように親父はかつて総連の活動家だった。

だが、社会主義でありながら権力の親子世襲をするという、ほんとうにグロテスクで荒唐無稽の事態に親父は持ち前のスサノオ加減を爆発させ組織から足を洗い、あとはひたすら資本主義社会でサバイブすべく奮闘してきたわけだ。

もともと父は韓国籍だったし、当時、パスポートをとるには民団を通じてしか取得できなくて、そういう関係から民団を積極的に支持していたわけではないけれど、付き合いからなんとなしに新聞を購読したのだろう。80年代初頭というと韓国の民衆にとっては受難の時期で(戦後から一貫してだろうが)、軍を主導にした開発独裁の政権ならどこの国もやる手法で民主化の動きは弾圧されていた。
そういう政権と親子独裁の国のどちらを支持するかというのは、まともな神経をもっていたらできるものではない。当時のことを想うと「右であれ左であれ我が祖国」みたいなロマンティックなことは僕は言えないなと思う。

中高生あたりの記憶を紐解けば、統一日報はむろん政権の体質を批判することはなく、とりあえず北朝鮮の悪口を書いていた。そういったスカスカの内容だったことだけは覚えている。

骰子を振り続けて出た目に驚くというか、まさか自分がその新聞社に携わると思ってもみなかったのだが、ともかく糊口をしのがなくてはならない。会社のある赤坂へ一張羅を着ていそいそと出かけた。地図で見ると近くにはホテルオークラや虎やもあったりするので華麗なビルディングを想像していたのだが、曲がり角を折れて最初に目に飛び込んだそれは思わず二度見するほどの、まるで一等地にふさわしくないかなりパンチの効いた経年劣化も激しい建物だった。

僕は湿気にたいへん弱い体質なのだが、それが関係しているかもしれないが、街を歩いていると「ここは昔、湿地帯だったな」とかわかってしまう。
気持ちのいい陽光のさしかける街でも路地を一本隔てただけで急に雰囲気の変化を感じたりして、「ここは川か淵があったはずだ」とわかって、あとで地図を調べるとほとんど合っている。

ダウンジングみたいに水源を探し当てるなら、いざというときに役立つかもしれないが、湿気を感じたところで何の役立ちようもないので、まるで使い道がないのだが、統一日報のかなり本格的なリノベーションの必要な建物の敷地内に一歩入ったとき、「ちょっとこれはね」と思うようなジメジメさがあった。

いまにして思うと、あの会社はアリスはいないけれど、ワンダーランドだったなと思う。というか、ぬかるみの世界だったな。1996年6月に僕は統一日報に入社した。

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雑報 星の航海術

同窓会にて

先日、大学時代の同窓会があり参加した。出会ってから13年くらいになるから参加した人の中には、結婚していたり、子供もいたりして、当然ながらいろんな変化があった。

僕の親友のM君は息子さんふたり連れてきていて、ベーベーキューが一段落した後は、てっきり持ってきたサッカーボールなんかで遊べるものと思っていた。

が、9月とは思えぬ容赦ない陽射しと湿気、くわえてアルコールの入った体でピッチに立ってパス回しをするというのは、たとえイビチャ・オシム師に命じられたとしても、辞退したろう。不惑を超えた連中にはとてもとてもの陽気だったのだ。

子供らのじりじりとした気持ちをよそに「あちー」「だりー」といい、涼をとろうと何人かが連れ立って買ってきたかき氷をしゃくしゃく食べるのみ。さながら暑さの盛に差し入れられた氷をうれしそうに抱きかかえるホッキョクグマのよう。

M君の長男、小学校3年生のH君は密かに切れた。「ちっとも楽しかねーんだよ」という激昂ではなく、僕らと離れたところで膝を抱えて座り込んだ。大人たちは、むろんどうして彼が拗ねたのかわかっているけれど、「しゃあないやん。こんなに暑いのに。ボールなんか蹴ってられんで」をこれまた無言で彼に返していた。つまり、放っておいた。僕もそのひとりだったのだが、でもH君の小さな背中の丸まり具合がどうしても気になったので、芝生のグラウンドまで歩いていって、声をかけてみた。

「どうしたん?」
「大人はずっとしゃべっているだけだし、誰も遊ばないしおもしろくない。それに僕、かき氷はあんまり好きちゃうし」
「何やったら好きなん?」
「僕、ソフトクリームのほうが好きや」
「それならあそこに売店があったから買いに行こうよ」
「別にそんな無理に気ぃ使わんでいいよ」

気を使わなくていいと言われて、いささか一本取られたなと思いはしたももの、「いや、僕もソフトクリーム食べたいねん」
「それやったら付き合ってもいいよ」

と、ふたりでいそいそとソフトクリームを買いに。それで彼の機嫌が直るとは思わないけれど、ソフトクリームを舐めながら少しは機嫌がよくなった彼の顔を見て、こちらの期待にこたえているんだなと思って、「なに、この神経衰弱みたいなやり取り?」と子育ての難しさを思うのだった。

元いた場所に戻るとH君の弟と目があった。あ、お兄さんだけにというのもアカンなと、弟君を手招きし、また売店へ。
帰りの道すがら陽射しにソフトクリームが溶け始める。「溶けてきたぁ!」と歓声をあげる彼に「わぁ、早く食べないと溶けるね」とか「ほら、手に垂れてきたよ」と、いちいち口を挟んでしまい、ちょっと反省した。
彼には彼のペースというものがあるのに、なんでいちいちそこに逆の言葉を差し入れるのだろうと。

大人たちの涼む場所に戻ると友人らは「アイスクリームのおっちゃん、僕らにもアイスクリーム買ってよ」という。
アイスクリームちゃうわ。ソフトクリームじゃ、と言うそばでH君は「あれはひどいな。ソフトクリームのお兄さんと言うべきやろ」とポツリと漏らすのだった。

それからしばらく僕はH君とグラウンドでサッカーのパスまわしをやり、けっこうヘトヘトになった。
子供らの振る舞いは別にわがままではなく、たんに自己本位なだけで、自分の体力を使い切ることに躊躇がなくて、邪念がない。そこに僕は午後の陽射しよりも眩しい何かを感じるのだった。