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自叙帖 100%コークス

覚醒と眠りと

付き合い始めた翌日早々、僕と彼女はそれぞれ就職した会社の研修先に向かった。

5日間にわたる山中湖畔の施設での研修は、初っ端から成人した人間がやらなきゃならんことなのか?社会人になるとは、こういうことなのか?というような体ごとクエスチョンマークになるような、とうていまじめになんてなれない内容てんこ盛りだった。

朝、全員で軽くランニングした後、水辺に整列。
ビジネス研修の会社から派遣されたコーチが「おはようございます!」。それに対し「おはようございます!」というと、「声が小さいっ!」と言われる。

だから「おはようございますっ!」と返すと「うるさい!!」と言われた。
コントか!

同僚らの中にはそういう手法に面食らっている子もいた。
僕は、こういうやり口を懐かしく思うところもあって、というのは、実は小学生年のとき、経営者の子供を対象にした次世代を担うリーダー研修みたいな、子供向けのセミナーを何度か受けさせられていたからだ。

最初はなんであれ否定から入るのが常套手段で、次に「それが世界の進行にとって重要だとは思えないけれど、繰り返し言われているうちに、それができない限り、私の存在する意味はないんじゃないか?」と自ら考えるように仕向ける。

もともと内発的な悩みじゃないから考える必要もないはずなんだけど、同じ内容を繰り返し言われているうちに「すごく重大なことを自分はこれまで考えてこなかったんじゃないか?」と感じられるようになり落ち込む。

その一方で、植え付けられた悩みを話し合う、というか強制的に吐露させる時間を設けて、かなりしょーもない連帯感を醸し出すんだろうなと思っていたら、その通りだったんで笑った。

僕はもっとらしい表情でどうでもいいことを言う人や場面に笑いをこらえられない質で、そんなものだから小学校のとき教師の逆鱗に触れてよくバケツを頭に載せて廊下に立たされたりした。(こうして書いていて不意に思い出した。給食時にひとりだけ反対向きに食べさせられたり、ゴミ箱の上に座って食べさせられたりしたものだ)

それにしてもタンバリンに合わせてお辞儀のスピードと角度を指導するんだもの。笑いをこらえて当然でしょうよ。

タンタンタン、違う!そこは30度だ!
タンタンタン 速い!もっと心をこめて!
違う、そこはタンタンのリズムじゃない!タンタンターンだろ!

とか、その内容も内容だけど、合間にタンバリンの脇についたシンバルがシャラシャラ鳴るものだから、まじめにやれっていうほうが無理な話だ。

毎夜、今日受けたセミナーに関するレポートを書かなきゃいけないんだけど、それがいちばん困った。
いまでいう引き寄せの法則とか前向きな気持ちになる呼吸法の指導とか、そういうことをさんざん聞かされた後は、「カリフォルニア発のニューエイジにしてもあまりにも粗い手法ではないでしょうか?」とかそういう嫌味を書くくらいしかなかった。

でも、5日間もそういう空間にいるとある種の覚醒を始める人もいる。
何事も率先して行動し始めたり、建設的な言葉、というか物事を検討することを平面的に取り扱う言葉だけにしか意味を見出さないようになったり。

整体の鼻祖である野口晴哉に関して好きなエピソードがあって、それは野口晴哉が弟子とともに催眠の研究を始めることとなったとき、弟子たちがこぞって催眠術の習得に勤しみ始めた。それを見た野口は不思議に思い。「どうして催眠の必要があるんだ?いまだってみんなお互いに催眠を掛けあっているじゃないか。僕は目を覚まさせることを研修する」と言ったそうな。

小学校にあがったとき、やたらと「もう幼稚園じゃないんだぞ」とどやされた。楽しんで学ぶことは罪だとでもいうような態度で、小学生らしい小学生になるように言われた。中学でも高校でも同じようなことを言われた。

そして、社会に出るためには社会人らしい徳目を身につけなくてはならず、それはタンバリンの音にお辞儀を合わせることもおろそかにしてはならないようなものだった。いつまでもまどろんでいるんじゃない。そういうメッセージだった。

これまでの人生を振り返ると、学習の節目に訪れたのは決まって「これが現実だ」という規定に関する文言だった。
社会人になるとなれば、いっそうそれが強調され、「夢見て過ごすわけにはいかないリアルな世界でこれから諸君は生きるのだ」ということを、就職する前から様々な機会を通じて教えられた。「やりたいことがやれるわけじゃない」とか「一人前になるには、何事も我慢」だとか。

それ自体が間違っているわけじゃないのだろうけれど、その文言を体現することで現れる世界がちっとも魅力的に見えなかったことに、僕はその現実の規定の仕方にリアルさを覚えなかった。単純な話、電車に揺られてオフィスへ向かう人たちは、ちっとも楽しそうな顔してないんだもの。

現実って「ありありと現れた、この上ないこと」で活き活きするような状態のはずなのに、なぜどんよりすることが現実的な態度になるんだろう。子供の疑問を僕は始末することができなかった。してはいけないと思った。

だから僕は5日間の新人研修でまったく異なった内容を学習した。この先、「これが現実だ」と覚醒を促す言葉には気をつけなくてはいけないと肝に銘じた。より深い眠りに誘われているだけかもしれないからだ。

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意識的に生きるということ

写真家の石川直樹さんが子供たちに向けた本をつくろうとしていて、そのお手伝いをしている。

テーマは冒険前夜で、たんなる成功物語ではなく、たとえばエベレストに向けて歩みはじめた、その一歩の感覚だとかプロセスについて描き出そうという内容になる、はず。

先日、石川さんはローツェ登頂を悪天候から断念し、日本に帰国した。
ローツェは8000m級ではあるけれど世界に4番目に高い山で、エベレストに登ってきた石川さんがなぜローツェにと思ったのだけど、ローツェからはエベレストがくっきりと見え、そこから撮られた写真がないそうなので、そのために計画したのだという。

ところが今年は史上最悪の天候で雪が積もっておらず、そのため落石がひどく、とうとう登頂を諦めざるをえなくなった。その判断についてはパーティで議論はあったそうだが、決まったとみるや翌々日に石川さんは東京に戻り、仕事をはじめていた。

高地では体の痛みや変調、不調が如実で、いわば体のあちこちに凸凹ができる。
その凸凹は体だけのものではなく、そこを覆う、というかそこと一体の意識の歪みでもあり、その凸凹のへこみやでっぱりを無理に均すでもなく、うまく“当てて”いくことで、痛みや不調を溶かしこんでいく。とくに6300mを越えた途端、食欲、睡眠欲、性欲がなくなり、いちいち体に尋ね対話してかないと、何事も始まらないのだそうだ。

しかも8000m級になると人間が棲息できる限界を越えた環境のため、文字とおり一歩を運ぶことに意を注いでおかないと、生きることに総身でかからないと意識がもたないという。

そのかわり、そこで出会うのは、一瞬一瞬の現れが過ぎていくことと同じような、その束の間にしか存在しない風景を見ていると言うよりは、自分そのものでもあるような壮絶な世界の流れ。(こんな表現は石川さんはしていないので、僕の妄想だけど)

意識的でいないことには、体の変化の示す乱調のほうに引っ張られ、それが自分自身となってしまうらしい。そんな経験がないので、感覚的にしか把握できないけれど。心に映った風景なのではなく、風景が自分そのものになるんだろうなという感じがする。

そんな感覚は平場の街ではまったく感じられないし、それどころか、ここでは必要以上の重力が生じている。
というのも街に住む人たちの「たぶんこんなもんだ、暮らしというのは」を共有した無意識によってつくられているからで、8000m級に比べて生きやすい環境のはずなのに軽やかに生きることが異様に困難になっている。(関係ないが最近、たとえば「困難になっている」に“気がする”という言い訳じみた文末をつけることがどうもできなくなっている)

都市で意識的に生きるというと、意識で外部を注意深く見ることと誤った理解をされがちだけど、そうじゃない。
自分のやっていることを見張り塔から見るみたいに見ることだとか、半返し縫いのように行動に意識をいちいち絡ませることではなく、意識と行為がまったく離れない、警戒に満ちた状態だということだろう。

意識と行為とのあいだにある感覚が私たちの存在そのものであり、その感覚が感じた外部を私たちは見ている。だから本当は私たちは、私と外という対立を生きているのではなく、常に「そのもの」として生きている。

それを意識的に生きるのだとしたら、僕はエベレストには登れないけれど、その境地から見える光景を見てみたいなと思うし、思うで終わらせない計画をきちんと練らないといけない。そんなふうに思うのだ。

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オシム師ならこう言うね。

「彼氏がいるんですけど」で退店しそうになったところ、背後から「あ、でも今度みんなで行くのなら」との返答を得た。

そこで後日、改めて他のアルバイトの女性店員ふたりを交えた計4人でお茶、ではなく、近くにある餃子の王将に行くことになった。聞くところによれば、僕はレンタルビデオ店で、彼女を含む店員さんのツボを突く映画を借りまくっていたらしい。

インターネットも携帯電話もまだ普及していなかった時代だ。僕はビデオを借りる際のほんのわずかな時間を通じて、デートに誘った。恋人がいるのにアタックかけてどうするの?という向きもあろう。

しかし、イビチャ・オシム師ならこう言うだろう。
「私はゴールキーパーがいてもシュートを打つのがサッカーだと理解しているが、君は違うゲームをやっているのかね?では、なんのために君はフィールドに立っているのかね?」

なんでサッカーをやったこともないのにサッカーになぞらえるのかわからないけれど、なんとなくオシム師なら言いそうなんでつい言ってみた。

思いには形がなくて、付き合うとかなんとかのモデルが最初から本当はあるんじゃなくて、別にそういうのがゴールじゃなくて、ゴールなんて一方向じゃないのだし、ただ胸の真ん中で灯る熱のままに行動したいじゃない?

心の奥でくすぶらせる思いなんて、くすぶっているだけで燃えやしない。
誰かがこの思いをいつかわかってくれるなんてことは相手任せの考えで、やっぱり会いたい人や話したい人がいるなら会いたい、話したいと言わないといけないし、「いま君とすれ違うということは、世界全体とすれ違うということなんだ」くらいのことは熱情込めて言わなきゃいけないこともあるわけで、セレナーデのひとつも歌わないといけないときだってあるわけで。

卒業までの半年あまり、最初は1週間に一度くらいが3日に一度と会う頻度があがり、そうして映画を見たり、お酒を飲んだりして、それはそれでいい学生時代のいい思い出で終わることもできた。

卒業すれば僕はしばらく東京で暮らすことになるし、関西で就職する彼女と頻繁には会えなくなるし、でも気持ちの中では「誰かにとって特別だった君をマーク外す飛び込みで僕はサッと奪い去る」な感じだった。

そうこうするうちに卒業式を迎え、僕は友人たちと打ち上げをした後、その日、彼女に来て欲しいと言われていた、それまでふたりで繁く通っていた、学生相手の店ではないけれど、僕らみたいな若造も受け入れてくれる静かなバーに行った。すると彼女がいて、僕は飲みなれないアイリッシュウィスキーのジェムソンを3杯くらい飲んでから、とうとう言ってしまった。心変わりの相手は僕に決めなよ、と。

翌日、彼女は恋人と別れた。

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マフィンとミッション

僕の家の近くに美味しいマフィン屋さんがあって、内装もしゃれた店を切り盛りしているのは、いつも黒かグレーのカットソーに結い上げた髪、きりりと結んだ口が特徴の女性で、お客さんが来れば「いらっしゃいませ」というけれど、基本、マフィンをつくる手を止めないというか、別にぞんざいな応対じゃないけれど、anybodyというよりnobodyに向けてという感じで、つまりは、自身のミッションに忠実な感じがする人なのだ。

西荻窪に越してから週に一度は買いに行くので、ここ最近は「こんにちは」と声をかけてみるのだけれど、ワンクッションあってから応答がある感じで、ある種のぎこちなさに僕は好感を覚えている。

昨日、お気に入りのレモン&カスタードのマフィンを求め、勘定を済まそうとしたら、「この辺りにお勤めなんですか?」と話しかけてきた。割りと繁く買いに来るから疑問に思ったんだろう。

「近くに住んでいるんですよ」「そうなんですね」。

一往復で終わる会話をして店を出たのだけれど、直後からすごく不思議な気持ちになってしまった。いま僕が交わした会話は、文字としてみれば「この辺りに勤めているのか否か」の確認の内容だけれど、なんかそれに還元できない何かに触れた気がした。

以下は完璧に僕の妄想です。

僕がマフィン屋さんに通うのはマフィンが好きなこともあるけれど、別に週に一度必ず食べなけきゃならいわけではなく、なかったらそれはそれで平気で、でも店の前を通るとつい入ってしまう。

マフィンが好きだからマフィンを買うというのは、あくまで表向きの理由で、僕は実はその店の何かに参加したいがために通っている気がする。

店の醸し出す香りに触れたいから訪れるだけで、なんかよくわからない雰囲気に感電したいから通っているのであって、マフィンはその象徴で、よくわからない何かに対価を払っている気がする。その感じが彼女にも伝わった気がしたから、珍しく話しかけてきたんじゃないかと妄想してみた。

なんでそんな妄想たくましくしたかというと、彼女のミッションに突き動かされている感じがすごく刺さるからで、そういう人のつくりだすのは、もうモノじゃなくてコトで、ようはatmosphereですよね。

そんな豊かさを提供されたとき、こちらとしては何か別のコトを繰り出したいけれど、ダンスでも音楽でも詩でもいいのだろうけれど、そんな芸が僕にはない。

レモン&カスタードのマフィン、めちゃうま。

だから「とりあえずあなたがこのマフィンに380円というタグをつけているので、この社会における交換の際にお約束として使われている貨幣を出してみました。が、本当は別のかたちもありえるんですけどね」と言いたい。
でも、こんなくだくだしいことを口にしたら、たんなる頭のおかしい奴だと思われるので、とりあえずおとなしく380円を出すけれど、本当はちょっともどかしい。

やっぱり貨幣は貨幣として最初にあったのではなく、貨幣は人の振る舞いの射影としてつくられたんじゃないか。コミュニケーションの交換(交歓あるいは交感)の射影として貨幣は生まれたんじゃないか。

最初に人の振る舞いがあった。つまり、私の振る舞いと誰かの振る舞いが交換、交歓、交感された。

「あの人のつくるマフィン、ヤバいよ」と言葉が伝わっていく。人が動く、訪れる。これは貨幣の運動と同じで、交感交歓されるとき、私の振る舞いは死蔵されることがなく伝播していく。私はatmosphereのある振る舞いを続ける限り、死ぬ(死蔵される)ことがない。

世の中で経済活動と呼ばれるのは、貨幣の所有を求めるもので、これは私の振る舞いの射影である意味を取り損ねているんじゃないかと思えてならない。死蔵することに意味を見出すのは、運動の否定。交歓と交感の否定に他ならないから。

この世の何と交換し続けるか。それが暮らし、生きるということなんじゃないか。
自分のミッションを知り、遂行するとは、nobodyに向けた身の捧げ方とも言えて、だからそれに触れてしまった人間は、その価値を伝えたくなってしまうんじゃないか。

Amy’s Bakeshopのマフィンはそんなことを感じさせてくれる。

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恋しちゃったんだ、たぶん気づいてないでしょ

就職活動も終わり、卒業まで半年を残すばかりとなった頃、僕は一目惚れをしてしまった。
胸焼けとは違う、この痛みは「そう、これは恋」とある日思ってしまったのだ。

当年、42のおっさんが口にすることに気色悪さを覚える諸兄姉も、いまの僕を想像するから嚥下できぬつかえを感じるのであって、ここはひとつ23歳の、ほうれい線など絶無の、シャワー浴びたら水弾きまくりの男子を念頭に置いていただきたい。(あと、前置きとして言いたいのは、「昔の彼女のことを忘れられない」みたいな話として受け取られたら、たんに気持ち悪い話なんで、そういうつもりじゃないんです)

初めて付き合った人とは1年半後に、次の恋人とは2年ばかりで別れた後、しばらく「もう恋なんてしない…」などと思って1年ほど経っていたが、彼女に会って、「なんて言わないよ絶対」と後段の部分を歌い出したい心持ちになってしまった。

大学の帰りに西宮北口駅のレンタルビデオ店でたまに映画を借りていたが、大学生ともなれば当然押さえておくべき銘柄など知らず、「ポリスアカデミー」や「Mr.BOO!」とか、まあくだらないものばかりを借りていた。

久方ぶりにビデオを借りに行ったら、その人がいた。ボーダーに赤いスカーフを首に巻いてのオリーブ系で、小西真奈美に似た人を前にしたとき、僕の頭の中で「世界を止めて」が流れてしまった。当世風で言うならゴム版の「CHE.R.RY」だろう。

そんなもので、その人の前で「五福星」とか「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」とか借りている場合じゃなくて、なんか、そう「映画が好きなんです」アピールするよなものを借りなくちゃだわと思い、それからというもの僕は「8 1/2」とか「気狂いピエロ」「エル・ポト」「ガルシアの首」だの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」だの、よくわからないけれどアピール力がありそうな作品を借りまくるという訳の分からない手に訴えた。

たぶん稚拙ながら匂いを醸し出したかったのだ。

借りればそれだけあの子に会える回数が増えるというものだわという魂胆からなのだが、それはそれとして、ほとんど映画を観たことがない僕だったが、不純な動機からとはいえ、この期間にタルコフスキー「ノスタルジア」と出会えたことは本当によかったと思っている。いまだにいちばん好きな作品だ。

そんなこんなで年の瀬を迎えた頃、いつものようにカウンターにビデオを差し出したところ「映画が好きなんですね」と言い、「よかったらこれどうぞ」とカレンダーをくれた。

冷静に考えれば店の用意したカレンダーであり、“至って極普通の会話”なのだが、中2病を患っている男にとっては、「好きなんですね好きなんですね好きなんですね」とエコーがかかって脳裏に響き、それが特別な意味合いをもって眺められるようになる。

「あれ、ひょっとして気があるんじゃね?」という脳内転換というやつだ。

「千丈の堤も蟻の一穴」という蟻の這い出る穴で立派な堤も崩れるという意味だが、どこにもない一穴を勝手に妄想して、この現実を突破できるんじゃないかと思えるのが中2病の最たるもので、その最右翼に位置した。

年が明けて、卒業まで3ヶ月。悔いのない人生を生きよう。たかだ声をかけるくらいにそのような決意をした朝、出立。

花道を引っ込む飛び六方!

ビデオを返し、「ありがとうございました」と彼女に言われ、用意したセリフを言おうと思ったがアワワという音が漏れるだけで、言葉にならず。そのまま退く。

しばらく店の回りをうろうろと。貴様の覚悟とはそれほどのものか!と己を叱咤し、今度は堅忍不抜の覚悟で再び入店。つかつかとまっしぐらにカウンターへ。不穏な気配を感じたか、彼女たじろぐ。

おもむろに「珈琲一杯飲む時間でかまわないので、僕とお話してもらえませんか」と真っ向から切り出すや、彼女すかさず「私、彼氏いるんですけど」。

僕は飛び六方で退店した。