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ままならない

父の怒りを感知しての発熱以外にも隔週で扁桃腺を腫らし熱で臥せる虚弱ぶりだったため、幼い頃の僕は外に出て遊ぶということはほとんどなく、もっぱら自室でプラモデルをつくるか落書きに耽るかで過ごした。

中でも河合商会の“伝統シリーズ”第2弾「大名行列」や「茶みせ」、童友社の「日本の名城シリーズ」など「誰が買うねん」というようなプラモデルを好んでつくっていた。

ときに大名行列を朱に塗りたくり、大坂夏の陣において剽悍無比を謳われた“真田の赤備え”に模し、大坂城のプラモデルの周囲に配置。
そこに第二次世界大戦時のドイツの戦車ヤークトパンターのラジコンを突っ込ませ、兵を玉砕させた後、爆竹をほぐした火薬を天守閣にふりかけ炎上させ、落城を再現し、悦に入るというような遊びに興じていた。

落書きのほうはと言えば、築城に才のあった藤堂高虎にインスパイアされて、スケッチブックに自分なりに考案した縄張りを書き付けた。また苔のむした石垣(特に野面積みが好みだった)をせっせと描きまくった。

いまでこそ『なわばりちゃんお攻めなさい!』のようなマンガや城郭、石垣に関する書籍が多数刊行され、関心を持つ人も増えたようだけれど、1970年代前半においては、子どものあいだに同好の士を見つけることができず、悶々としていたものであった。

それにしても、当時の頻繁に訪れる発熱は“怒り発怒り往き”という単線往復しかない父の感情表現にストレスを感じてのことだったろう。だが当時は親も当人も「とんでもなく身体が弱い」という以上のことは考えていなかった。

さらに身体の弱さに加えチック症もあって、親からすればいろいろ含めて「人間として弱」な子どもであったと思われる。

チック症というのは、石原慎太郎みたいに矢鱈と目をぱちくりするだとか奇声をあげることが止められないだとか、鼻をすする、ガスの元栓を締めたかどうか気になっていちいち確認してしまうといった強迫的に反復される症状のことだ。ストレスが原因とされている。

ほかの人も同様か知らないのだが、僕の場合、現れる症状に流行があった。まばたきの次は鼻をすすったり、その次は声が意志に反して出てしまったりというブームの変遷があったのだが、あるとき「ものに噛み付いてしまう」という症状が現れて非常に難儀した。

折しも父が新車を買ったばかりの頃で、ドアまわりの内装が革張りだった。家族で出かけた際、後部座席につくや不穏なものが身の内でこみ上げ、僕は拳をぎゅっと固めて耐えようとした。でも、どうしても止められない。走行中、カプっと革に噛み付いてしまった。

父—あっと漏らすや、つと車を路肩に止め。ドアを開けかいなを息子の肩をむんずと掴み、引き離そうとす。
僕—噛み付いたまま。
父—天岩戸を放り投げた天手力雄命よろしく、ええいと息子を引きはがすも歯型がきれいについた革のシートが残される。

こうして書くと滑稽なことこの上ないのだが、当人にとってはとても切ない心持ちでいっぱいなのだ。自分でも“確実におかしい”とわかっているけれど、どうにもこうにも止まらない。

とりわけ鮮明に覚えている症状がある。自転車の補助輪を外して乗れるようになった頃、母と近所の商店街に買物に出かけた。

先を行く母親を追いかけるように自転車を漕ぐ。初めて自転車に乗れるようになったときの喜びは、身の内にまだ宿り続けていて、とにかく自転車に乗ることが楽しかった。
ところが、その日、例の不穏な心模様がやって来、にわかに心中に暗雲が立ちこめた。「ここで手を離したらどうなるんだろう」という声が轟き始める。

「うん、倒れることは間違いないね。痛いから止めたがいいよ」
「ああ、それはわかってるんだけどさ、なんか離したくなるよね?」
「いやいやいや、離したくなんかならないって!」

ひとしきり心の中で見知らぬ他人たちが会話を繰り広げ、血中他人濃度が高くなっていったかと思う頃には、その他人のひとりが「ユー、やっちゃいなよ」と言うので、だから僕はハンドルから手を離し、アスファルトに這いつくばる自分を発見するのだった。

後方で派手な音を立てて転ぶ僕を認め、驚き、母は「大丈夫?怪我はない?」と優しく声をかけてくれた。一度目は優しかった。
しかしだ。出発したかと思えば、またバターンと路面にひっくり返るものだから、心配してかける言葉にもいらだちの色がようよう濃くなってくる。

母にしてみれば意味がわからなかったろうが、僕もどうしていいかわからなかった。
自転車をしばらく漕ぎ、ひっくり返るという無限軌道さながらの往還を繰り返すばかり。手を離せば転けるとわかっているのに己がままならない。

「賀茂河の水、双六の賽、山法師、自転車。是ぞわが心にかなわぬもの」と泣きべそをかき始める。

さすがにおかしいと感じた母は、しばらく僕の様子を観察していたらしい。
彼女の眼に映る我が子の姿は、なんとも奇妙奇天烈だったろう。号泣しつつ、わざわざ転倒すべく手を離してはひっくり返るという意味不明の行為をしているのだから。

とうとう母はあきれ顔でこういった。
「おまえは手を離せば転けるとわかっているのに、なぜ手を離すのか!」

間髪を容れず、地団駄踏みつつ、泣きながら僕はこう返した。
「だって心がそうさせるんだもん!」

それを聞いた母は爆笑した。
数日後、僕は京都の宇治で有名なお払い師のもとに遣られた。狐憑きと思われたらしい。

 

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ミルフィーユを食す

ミルフィーユが好きだ。

たまに食べたくなると、表参道くんだりまで出かけピエール・エルメに行く。ここのミルフィーユは、ヘーゼルナッツペーストをベースにしているのだが、濃厚であっても甘過ぎないところがいい。

しかし、このミルフィーユという代物は、すこぶる食べにくい。
いかように試みても口元に運ぶまでのフォークを華麗に舞わせることができない。パイが無惨に崩落していくばかり。

「やや、これは岩に刺さるエクスカリバーを引き抜くほどに難しいぢゃないか」と長らく思っていたのだが、横倒しにした上で食するのがいいと聞きつけ試してみたところ、あら不思議。

あれほど一刀両断&斬釘截鉄を拒んでいたパイ生地に、スッとフォークが入るではないか! 皿の上には、真っ向に切られたミルフィーユが。

“うわははは”と快哉をあげたくなるが、気味悪がられるので止すことにした。

断面をまじまじと見る。「羊羹の切り口に羊羹はない」との大森荘蔵の言葉をもじれば、さしずめ「ミルフィーユの切り口にミルフィーユはあるか?」。

なんでも地下に原子力発電所をつくることを目指す議連が発足したそうな。
地下ならば津波を受けないし、事故が起きたらそのまま放射性物質の拡散を雪隠詰めよろしく封じ込められるのだという。 地上よりも安全性が確保できるのだという。

想定を幾重にも重ねてかろうじて存立できる現実とは、幻のようなものではないか。
ミルフィーユの切り口にミルフィーユは実に有りや無しや?

安全性の連呼と喧伝の根底に控えるのは、「すでに応用可能な技術を使うことがなぜいけないのか?」の問いだろう。ここに「オレの自由だろ?」との幼稚な居直りと生命への冒涜の気配を嗅ぐ。

識者はいう。「生命倫理が科学技術に必要です」と。僕は思う。生命の倫理について人間が云々するなどおこがましい。

人間に語れるのは、せいぜいが人間の生命に関する倫理だけだ。己の身幅を自覚することもできないものが生命全体を語れるわけがない。

「技術は悪くない、使い方が悪いのだ」といっても始まらない。
それは「紙の表は善いが裏は悪い」と批難するのと同じことだ。表裏は分け方でしかなく、状態はあっても実体として存在しない。紙に表裏はなく、紙はただ紙でしかない。

ミルフィーユの切り口にミルフィーユを探す。概念としてのそれはあっても、そこにミルフィーユは存在しない。

人間の生命の倫理は、人間の勝手次第、切り取り次第で自由だ。「自由を追求して何が問題なのか」。おかけで開き直りの自由は、自滅を招来する代物と成り果てた。

開き直りの中に自由はないだろう。なぜなら開き直ることに釘付けにされているからだ。

 

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熱力学第二法則

「息もできない」を鑑賞後、その感想を友人らと話したときのことだ。友人はDVのストーリーだということを前提に話しており、僕は「え!そうだったの?」と愕然とした。

父への怒りを抱いて社会の底辺で生きる男と傷ついた心のうちを誰にも明かせない女子高生との出会いと別れを描いた作品だが、僕はあからさまに示されている背景をまったく汲み取っていなかった。「自分はDVへの感度を欠いているのではないか?」と思ってしまい、ずいぶんショックを受けた。

「母なる証明」や「グエムル」、あるいは「殺人の追憶」「シークレット・サンシャイン」にせよ、生きることと感情のほとばしりとの間に隙間のない作品を見ているうちに、「剥き出しの暴力に彩られた生の様式」が韓国社会のある側面を表しもしているのか、という予見を抱いてしまったことも、背景を読み取れなかった理由のひとつだろう。

つまり「異質な文化」という区分けをして、「異文化ならそういうことも自然にありえるか」と、「そういうこと」にしてしまった自分の内実の考察をしていなかった。どうやら主人公たちの怒りの発露が僕の死角になっていた。

僕は「怒り」という感情がよくわからない。いや、他人が怒っていることはわかる。けれども、「怒っていること」を額面通り受け止めて、その感情の中に秘められた「理解されないから悲しい」だとか「素直に非を認められないから怒る」といった心の“あわい”や“機微”がわからない。ものの見事に感情の絶縁体が働いている。

そんなものだから「怒る」のではなく、怒りの感情を説明してしまう。怒るとき、人はわなわな震えたり、怒声をあげたり、直接的、身体的な行動に出る。というより、出そうとして出すのではなく、表現されてしまう。(ものなのだろう?)

ところが自分ときたら「その怒りは、かくかくしがじかの理由から、自分に向けられることは、たいへん理不尽だと思う」あるいは「かくかくしがじかの理由からたいへん申し訳なく思う」と説明してしまうのだ。怒りに対して向き合っているつもりではあっても、まったくの捻れの位置にいる。

それに怒っている人に論理的に対処することほど、対手の怒りの炎をさらに燃え立たせるものはない。冷静な説明は、ときに人を軽蔑しているようにも見えるということを学んだのは、30歳を越えてからだ。嗚呼なんたる木偶の坊!

僕がこれまで生きてきた中で衝撃を受けたことは数多くあるけれど、近年もっとも記憶に残っているのは、友人に言われた一言だ。

ある日、ちょっとした話の行き違いで友人との会話が気まずくなった。取りなすとか話題を巧みに転換することが大の不得手なため、その日はぎくしゃくした空気のまま散開した。後日、彼女に会った際、「なんであのとき怒っていたの?」と尋ねたところ、彼女曰く「怒ることに理由なんてないわよ。怒りたいから怒るのよ」。

驚きのあまり口をあんぐり開けてしまった。「マジで?もっと早く知りたかったよ、その事実!」と思った。 彼女はといえば、僕のあまりのイノセントさ加減にほとほと呆れかえっていた。さぞかし怒り甲斐がないと思ったことだろう。
自分には理解できない怒りの奔出に立ち合うと、相手の心模様を慮ることも、怒りに怒りで向かうという素朴なコミュニケーションもできない。ただただ身が竦んでしまうのだ。そんなとき決まって思い出す光景がある。

あれは僕が9歳くらいの頃だったか。異常に几帳面で整理整頓好きの父に比して、僕より4歳上の兄は整頓というものに異様に頓着しない質であった。いまにして思えば、それは熱力学第二法則にしたがった均衡の然らしめたものではなかったかと思うのだ。

エントロピーの増大に耐えられない父は、怒りによって世界の秩序を取り戻そうとする。だからときおり兄が不在の折に部屋に入り、勝手に整理(まとめて)整頓(捨てる)。

その日は不運にも部屋に兄がいた。僕は風雲急を告げる情勢に怖れをなして、自室に逃げ込んだものの、やおらX JAPANのYOSHIKIのドラムのような抑揚はないがやたらめったらドコドコする音がしたので、おそるおそるドアの隙間から覗いてみたらば、総合格闘技のなかった時代に父は兄からテイクダウンを奪っていた。

元来、虚弱体質だった僕は、父が怒りの表情を見せるだけで発熱するのを常としており、マウントポジションの父を見ただけでまず平熱を5分は上げたと思う。

兄はなんとか立ち上がる。ガードの上から父が掌底を浴びせていた。やがて父は手が痺れたのか、そばにあったスチール製のミッキーマウスのゴミ箱を取り上げると、それで兄を打擲し始めた。

笑顔のミッキーは、次第に凹むにつれ、悲し気な表情に。ミッキーのもとの相貌がどのようなものであったかわからなくなった頃、父は兄の勉強机の引き出しを抜くと、それをもって兄の頭をうつ。引き出しは底が抜け、あたかもエリザベスカラーのように兄の首周りを飾った。

その夜、僕は高熱を出した。

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風土とモード

まずは写真を見て欲しい。
モード評論家の平川武治さんだ。なんというファンキーさ! 端的にかっこいい。
平川さんと初めてお会いしたのは昨年11月、コム・デ・ギャルソンの小石祐介氏を司会とした、「スタジオ・ボイス」の編集長である加藤陽之氏を交えたトークライブの場だった。

流行やファッションを意味するモードという語を聞くと、現実となんら交差しない軽佻浮薄さを感じる人もいるかもしれない。

けれどもトークのあいだ、平川さんは静かにかつ真剣に怒っていた。美に対する感度の鈍磨。くわえて教養や歴史という人の骨格を形作るものを失ってなお恬として恥じない時流について、柔らかい大阪なまりの言葉で憂いを表明されていた。

平川さんの話を聞いて、モードというのは、たんなるおしゃれ好きからは生まれないし、流行に敏いだけでは、現在に起きている事柄への即物的な反応に過ぎないのだなと思った。

彼のいうモードとは、教養や歴史、この国の風土が育てて来た感性といった連綿性への敬意を含むのだろう。
それらは知識として把握したところで意味をなさない。なぜなら先人たちが磨いて来た有形無形の技術や発想、感覚の厚みという財には、類推なくして、肉迫できないものだからだ。知識は宝物の錠を開ける鍵にはなりえない。

先日、平川さんが現在お住まいの鎌倉を過日訪ねた。鶴岡八幡宮の鳥居に向けてまっすぐに伸びる参道は奥に進むにつれ狭まり、実際の距離より長く見えるように設計されている。

左右から路を覆うように咲く桜は、さほど高くもないこともあり、柔らかく往来人を包む。遠くに見える鳥居の朱に焦点を定めたような参道と桜の配置にも、きっと古人の風土と感性が関与している。

風土と感性、教養をナショナリスティックなものに安易に読み替えれば、クールジャパンになるのだろう。

しかし、そこには歴史の足跡に対する遠近感がない。遠近をもたらす視座は、自分がどこに立ち、その地歩は何によって得られたか、という振り返りなくして獲得できない。

平川さんはいう。「豊かさの表層だけを見ることに慣れてしまった人には遠近感がわからない。モードのデザインには風土がある。それはジグゾーパズルのようなものだ。そのピースを拾えば、風土を背景にしたものか、あるいは興味本位だけの、トレンドを追うだけのデザインなのかわかる」。

地主が掘ったというトンネルをくぐり抜けると、瑞々しい翠をたたえる竹が広がる。竹林を借景に庵然とした設えられた御宅にあがる。尺貫法で作られたと思われる間仕切り。

それから2時間あまりモードと身体の兼ね合いについて話をした。
1968年、パリ五月革命を機にフランスでの女性の社会進出が進み、さらには70年代のウーマンリブを背景にソニア・リキエルが登場した。平川さんによれば、彼女に影響を与えたのがシャネルだという。

シャネルは20年代にブルジョアの世界に参入しつつ、エレガンスという従来のゲームには乗り切らず、「古い価値観に束縛されない」という様式を確立した。それを70年代にサンプリングしたのがソニア・リキエルというわけだ。

やがて80年代に入ると、フェミニズムが台頭し、そういう意識を持った人の身体を包み始めたのがコム・デ・ギャルソン。そして、80年代後半から90年代にジェンダー論が登場、その生き方をデザインし始めたのが、マルタン・マルジェラという見取り図を示した。

デザイナーというのは、「新しい生き方をする女性たちの身体をラッピングしたい」という欲望を持っているものなのだという。

服をつくるということは、身体を考えるということだ。身体について考えると「身体性」という言葉でつい語りたくなるし、自分でも使ってしまうけれど、自重しなくてはいけないなとも思う。

身体性とは解釈であり、身体そのものではない。饒舌に身体について語ったところで、それは身体を知ることにはならない。むしろ経験的に培われた強固な予見を持って身体を見ることになってしまう。

僕が身体についてなにがしか思うとき、忘れないようにしていることがある。それは私たちは「直接、自分の顔を見ることができない」という事実だ。鏡を通じて反転した顔しか見ることができない。

認識とは、あるいは言葉によって世界を捉える行為は、常に反転した世界を記述する行為でしかない。

しかし、生は、身体は記述されはしない。記述することではなく、表現することをなおざりにしないように。おしゃべりを控えなくてはならないときがある。含羞が必要だ。

「心のありさまを行為にすることがハッピーなことですね」。平川さんは何度かそう繰り返した。

何事にも拘束されず、己の心のありようを最大限に発揮する。そのとき身体は、私という意識に囲われた身体性の枠から越え出ていくことになるのかもしれない。

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モバイルハウスを見に行った

俳優の渡辺篤史が長らく続けている「建もの探訪」というテレビ番組がある。

渡辺篤史がレポーターとして、オーナー自慢の物件を訪ねては、「ハハァ、なるほど」と感慨を述べる内容なのだが、ときおり家主のこだわりが、渡辺篤史にしてみれば、「何の変哲もない」か「突拍子がない」に感じられてしまうようで、そんなときは家人の飼っている犬やカメといったペットを「かわいいですね」と誉めた上で「わかりました」と話題を転換、番組をずんずん進めて行く。
そんなふうに問題物件をやり過ごす渡辺篤史だが、彼がモバイルハウスを見たらなんというだろうか。ふと、そう思った。

 モバイルハウスとは、建築家の坂口恭平さんがホームレスの家を参照してつくった移動式の家屋だ。
奥行き3メートル弱、高さ2メートル、幅1.5メートルほどの大きさの構造物が震災の翌々日から吉祥寺の住宅街にある駐車場に据え付けられている。
近くには公園があり、道を行き交う子供らが車輪付きの白いモバイルハウスを覗き込む。

初めてモバイルハウスを訪ねたのは3月15日。福島の原発がメルトダウンするのではないかと言われていた頃だ。(実際はとっくにメルトダウンしていたのだが)。
電車のダイヤが乱れていたことに加え、放射性物質の飛来を恐れ、誰もが外出を控えていた日だった。

坂口さんはさすがに賢明でさっさと東京から離脱していたが、電話をしてモバイルハウスの見学をお願いしたら、「どうせなら昼寝でもしていってくださいよ」とふたつ返事で許可をもらった。

友人も誘ってみたが、「それどころではない」という返事。うん、確かに時局を鑑みないバカだと我ながら思った。
でも、動かないではいられない気分だった。不穏な空気の蔓延する中でも「冷静さを失わない」と海外メディアに賞賛された住民たちの沈着な態度は、僕にすれば、身に付いてしまった慣習の強迫的な繰り返し、習い性になった日常の反復に思えて仕方なかったのだ。

 表からは冷静に見える構えは、裏を返すと取り乱すこともできないくらい足が竦んでいる証ではないかと思えて仕方なかった。
浮き足立つことなく、変化に対応するには、眼前のことに慌てふためくのでも鈍感になるのでもなく、この先に起きるであろう事態を認識した上で行動する必要があると思った。

そこでモバイルハウスのような発想がこれからはきっと重要になるんだろうと思い、百聞は一見に如かずと吉祥寺を訪れたわけだ。とりあえず鍵を開け、中に入り、ベッドを引き出して横になった。

 天井はアクリル板が敷かれており陽光が直に入る。ソーラパネルもとりつけられており、これを車のエンジンに積まれているバッテリーにつなげ、12Vの電源として利用している。
さっそく借用してiPhoneの充電を試みる。家庭用の電源は200Vだ、ぜんぜん問題ない。機嫌よく充電してくれる。ちゃんと室内灯だってつく。

ベニヤでつくられたこの家はオール電化の上、すべてホームセンターでそろえる部材でできており、制作費は2万6000円也。駐車場に置けるのは、法律では、車輪がついていると家屋ではなく、構造物として見なされるからだ。
水道やトイレ、風呂はどうするかといえば、公園やコンビニ、銭湯で済ます。都市にあらかじめ埋め込まれたインフラを利用するというわけだ。それを坂口さんは「都市の幸」と呼んでいる。

 ちょうど森になっている実を採集して生きるようなもので、森の幸が無料であるように、都市においてもさまざまな実りをタダで利用できる。こういう発想はベーシックインカムを提唱している小飼弾さんとも共通しているように思う。

坂口さんも小飼さんも社会的資源を豊かにして、それに個人が自由にアクセスできる環境を整えさえすれば、誰も飢えて死なないというシンプルな考えをもっている。
だから直観的に社会的資源に厚みをもたらす利他こそが、人が生存する上で重要な行為になると理解しているんだと思う。

奪うこと所有することにかまけるのではなく、資源を豊かにし、それを自由に利用できる社会をデザインするという発想は、今後重要になるはずだと、僕は放射性物質が飛来しているであろう空を見上げながら思った。

それから3週間ほど経って、熊本に移住した坂口さんの上京に合わせ、4月5日にモバイルハウスを再訪した。編集者やミュージャンの七尾旅人さんも来訪し、4人が2畳間の茶室のような家で膝付き合わせた。

不思議に狭く感じないのは、モバイルハウスが衣服に近いような、身体との密接感をもっているせいかと思う。
人間の生存に必要とする最小単位のこの空間は、地震の影響もほとんど受けない。車輪が揺れに合わせて動く上に軽過ぎて壊れようがないからだ。

都市のインフラを前提としているモバイルハウスは、被災地にもっていったからといってただちに機能することはないだろう。
けれども住宅ローンや家賃を払うといった、不動産に釘付けになって働くことが是とされている時世にあって、安価に住処を獲得できてしまえる行為は、当然とされている現状の生の様式に根源的な問いを投げかけるのは確かだ。

現代アートであれば問いを突きつけるだけでいいだろうが、モバイルハウスはその次元に留まらないポテンシャルをもっている。この建築物の重要性は、既製品を利用し、DIYでつくれることであるが、設計図通りにつくり、簡易な家を手にすることがゴールではない。

生活費を稼ぐために生活をする。生きるために生きることはあっても、ただ生きることからは遠ざかった生活のあり様をゼロベースから捉え直し、再構築する。その発想と観点を自ら培うことを要請する力がモバイルハウスに内包されている。それをこそライフデザインと呼ぶのだろう。