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こまちを巡るあれこれ

友人らとその息子のフーちゃん(2歳)と動物園へ行き、ひとしきり楽しんだ帰りに焼き鳥を食べ、「アイス、食べたーい」というフーちゃんの希望に叶えるべく店を探し当てたものの、あいにくの夏休み。

「残念だねー」なんて言って、ふと斜め向かいを見るとパッピンスという韓国の氷菓が食べられるカフェを見つけた。お店も広めだし、じっとするよりは走り回りたがるフーちゃんには御誂え向きの雰囲気なので、そこにすることにした。
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店に入った途端、女の子がトコトコやって来て、フーちゃんに何か話しかけるよりも先に、ボディコンタクトを積極的に仕掛けてくる。全身がこれ興味津々という感じで、顔がくっつく距離に近づいてくる。何か話しているのだけど、聞き取れない。喃語なのかな?と思っていたら、舌足らずの韓国語だった。
店内には、僕より少し年齢が上と思しきカップルがいて、その子は女性の膝の上に乗っかっていたものだから、てっきりふたりの子供だと思っていたら、全然違って店を切り盛りするオーナー女性の娘さんだった。聞けばフーちゃんと同じ2歳だという。

動物園でも「小さな恋の物語」みたいな同年の女の子とのいい感じの出会いがあったりと、わりと女の子受けするタイプでもあるフーちゃんは最初はウェルカムな感じで、お気に入りのプラレールの新幹線「こまち」を見せてあげようと取り出した。
たぶん、フーちゃんは自分のお気に入りのおもちゃを見せて「すごいねー」と言われたかったのかもしれない。大人はみんなそう言うから。でも、その子は違った。こまちをつと取り上げると、フーちゃんがやっていた要領で遊び始めた。

びっくりした表情のフーちゃんに母である友人は「お家でいっぱい遊べるから、お友達に貸してあげて」と言う。するとフーちゃんは「フーちゃんがこまち、貸してあげた」と言い、襟足のあたりを掻く。自分で望んで貸したのだと言い聞かせるように。また、二、三度、髪を掻きつつ「フーちゃんがこまち、貸してあげた」と続けて言う頃には、みるみるうちに目に涙が溜まっていく。ついには泣き出し、返してと手を突き出すも払いのけられる。

いつの頃からかフーちゃんは「自分でやる」とか「自分で歩く」と、「自分」を口にするようになった。ただ、フーちゃんにとっての「自分の」が意味するところは、例えば、手に取れる範囲のものを我が物にすることも「自分の」に入るようで、「自分の」の範囲は大人が理解している「所有」よりもずっと広い。

こまちを取り上げて遊ぶ女の子の「自分の」範囲もフーちゃんと同様に広い。二人の「自分の」が重なりあってしまっている。彼女もそれがフーちゃんのものだとはわかっていても、同時に自分のものでもあるので、それを取り上げようとする彼女のお母さんに泣いて抵抗する。それでもお母さんは「はい、チロルチョコあげるから、おもちゃを返して」と交換を迫ると、こまちを返した。が、しばらくするとまたフーちゃんからこまちを取り上げ、フーちゃん泣く。それでまたこまちを返す。

今度は女の子はチョコをフーちゃんにあげて、その代わりにこまちで遊ぶ。フーちゃんしばしチョコに満足するも「フーちゃんがこまち、貸してあげた」と襟足のあたりを掻く葛藤の果てにまた泣く。これを何度か繰り返す。

おもしろいことにフーちゃんは取り返そうとして腕力に訴えない。その合間にフーちゃんは女の子をハグしようとしたり、女の子はフーちゃんの頭をよしよしとしたりする。自分のものを取られたとはわかっていて、だから葛藤はあるけれど、それが敵意に発展しない。合間にチョコという贈与があったり、グルーミングじみた接触があったりする。

互いの話す日本語、韓国語は、まだ相手の意図を汲みとった上で概念を積み上げていくような、いわゆる「滑らかなコミュニケーション」とは程遠い。では、それぞれの言葉がはっきりと話せるようになれば、互いの関係がうまくいくのかと言うと、そういうわけでもなさそうなのは、二人の間では言葉が通じるかどうかは一度も問題にはなっていないからだ。

というよりも、おもちゃをめぐる一連のやりとりを問題にして、「すいませんね、うちの子が」みたいにして、言葉巧みに言えてしまうことの方が問題なのかもしれない。
所有の概念の理解にはまだ至らない、子供らの「こだわり」から来る感情の揺れやそれでも相手をよしよしと撫でるような、言葉よりも先に出てしまう感情や感性、行為のほとばしりの源を周りの大人は注目しなくちゃいけないんじゃないか。

あえて仲良くするのでも仲違いするのでもない、自然と湧き上がってその場の最適の関係性が作られる場を子供が見せてくれて、二人のことがなんだか眩しく見えた。

 

 

 

 

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イノセントと無知の取り引き

 渋谷駅で三宅洋平氏の「選挙フェス」に出くわした。その日は所用のため立ち止まって聞くことはなく、足早に立ち去った。何を言っていたのか知っておきたいと思い、その日の演説を含む幾つかを動画サイトで見た。

 私には選挙権はなく、政治に関わる立場にはないため、そもそも期待するもしないもないのだが、動画を見て最初に浮かんだのは政治のレイヤーで今生を捉えることに期待を持たないでおこう、という思いだった。

 この数年、彼の言動を耳にし、書いた文書も読んできた。事実を詰めて考えるよりも感覚に委ねることを得意としていることはわかる。きっとイノセントで情熱的な人物なのだろう。それゆえか陰謀論やスピリチュアルを迂闊に信じてしまう御仁のようだ。陰謀論を信じることには何の努力もいらない。すでに語られた幾つかの事柄を組み合わせるだけのことだからだ。

 スピリチュアルについて言えば、彼の信じるそれとは相容れないと思うが、私はスピリチュアリティを肯定している。というのはスピリチュアルとは叡智への道であり、語られない物事への観察であり、沈黙の行いだと思うからだ。

 この社会に属しながら、この社会に与さない姿勢を貫くこと。そうであるならば、スピリチュアルと政治は相容れない。

 包括的な視点を得ようとすれば、インサイダーではありえない。すでに用意された限られた枠組みの中でスピリチュアリティを発揮しようとする魂胆は、陰謀論を信じたがる心根と相性がいい。社会の事柄を社会に理解可能な言葉で語ろうとすることへの熱中において両者は互いに補い合うからだ。つまりアウトサイドに立ったこともなければ、その道を行くことへの興味も勇気もない。

 現状の政治は数がものをいう。そのインサイダーのゲームに同意したプレイヤーが競い合うわけだ。ではゲームに参加しながらルールを熟知していないものに一票を投じるとすれば? その結果は現状を補完することでしかないだろう。だから私はこの目の前に広がる政治めいた政治に期待すまいと思ったのだ。

 イノセントが無知であることの言い繕いになりはしない。無知とは限定的なものの見方しかできない人間の原罪であり、私たちにできることはそれに関心を注ぐことのみだ。そこから目を離した振る舞いを情熱的だと勘違いしてしまう怠惰さにできるだけ注意しておかなくては。

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やがて聞くであろう「兵士A」の死

 1人目の彼はどんな人だろう 1人目の戦死者Aくん
 1人目の彼はどんな人だろう 何十年目の戦死者Aくん
 彼は僕の友達 彼はわたしの彼 あれはわたしの子

             七尾旅人「兵士Aくんの歌」

 社会に対する関心はあるが、社会を変えることはできないと思っている。なぜなら既にあるものを変えることなどできないから。私が現にこうしてある姿を変えることができないように。

 社会を変えることはできないにしても、既にある現実の中で新しい社会をつくることはできるかもしれない。私を変えられはしないが、新しいことを始められるように。

 怒りが時代を変えることはあるだろう。怒りは力を生む。その力が物事を社会を技術を前進させてきた。しかし、力は人間を新たにするわけではない。人間は進歩するどころか日々後退しているのではないかと思っている。

そんな思いで世の中を観ている。この態度は行動を起こしている人に冷笑を浴びせ、軽蔑するような卑しさとは無縁だ。国会前のデモや反原発デモ、レイシストへのカウンターに参加しようとも、私は犠牲者でも加害者でもなく、まして救済者でもなく、ただこの世に存在する者として起きている事態に立ちあっている。

 私の名も国籍も仮の姿であって魂には固有名も国籍もなく、この地につかの間現れた生命現象なのだ。そういう幼い頃からの感覚がこの姿勢をつくりあげたのだろう。傍観はしない。けれども観察者であろうとしている。そこからしか見えないことはあるだろう。だからこそ事に当たってできることもあろうと思っている。

 誰しも自分のできること、やりたいことをやるしかない。だから私は“それ”について、“それ”ではない形で行うことが自分のやるべきことだと思っている。

 そのことについて改めて思ったのは、七尾旅人さんから頂いたライブ映像作品「兵士A」を観たからだ。

「兵士A」は、やがてこの国にもたらされるであろう、予告された殺害の顛末を3時間にわたり歌う。殺害とは、自衛隊員Aくんが生まれてから死ぬまで、そしてAくんが殺したひとびとのこと。

 七尾さんはある立場からある立場に反対し、否定することをメッセージとして歌いはしない。彼もまた「“それ”について、“それ”ではない」ことをしている気がしている。
メッセージ性のある歌であるとかないとか、論じたところで聞きなれた言葉の群れにしか行きつかない話ではなく、ただ歌を、紛れもない歌を歌っている。

 人間の最初の詩歌はおもわず口からこぼれた音の連なりだったに違いない。出来事を語る言の葉であり音の葉であったに違いない。そんな歌の始まりを私は「兵士A」に観る。

 ひとりの兵士Aくんとこの国の辿ってきた足どりと、時と空間を同じくしていた人間たちがしでかしてきたこと。七尾さんはそれらを歌という形を食い破る勢いで歌い続けている。

 Aくんは「何十年目の戦死者」という特異な存在であり、また彼の死以降は多くの戦死者のうちに数えられるであろうひとり。
私たちは前の世代がそうであったように、受け止めきれない悲しみを英雄として扱うことで悲しむことを己に禁じたり、命じられたままに死ぬことを崇高な行為だと受け入れてしまい、ひとりの人間として生きてきた証を悲惨さを通じてしか認められないような選択をするのだろうか。

 目の前に差し迫った参院選は改憲を争点としている。改憲がなされたならば、権力者たちは、私たちをますます軽んじることに躊躇しなくなるだろう。この国の行く末がどれほどつらいものになろうとも、一部始終観なければいけないことになるかもしれない。そんなことを思っている。

 

 

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番外編〜風俗雑誌

本来ならば博多編を綴るところですが、ちょっとばかり思うところがありまして、月曜日でもありませんが更新します。

たまたまtwitterで『臨死!! 江古田ちゃん』の著者である瀧波ユカリさんがメンズサイゾーの記事「夢のような展開を実現!? 友達飲み会をSEXパーティへ昇華させるには?」について、「ほんとに怖い」と呟いているのを知り、当該の記事を読んだのです。ふだんはそんなことはしませんが、編集部に存念を質すメールをしました。(記事はもう削除されてますね)

内容を紹介すると、セックスパーティへの流れを演出する方法について書いたものです。
一言でいえば下種です。

「押せばそのままノリで受ける可能性も出てくる」
「グループの友達関係は修復不可能になると覚悟しておいた方がいい。よって、もう縁を切っても構わない女友達に対して実行すべき作戦といえる」

と、かつて早稲田大学のサークルで起きた強姦事件を地で行くような内容であり、何をか言わんや犯罪を教唆するものでしかない。

書き手は風俗界隈に通暁しているようで、その御仁が「男にとっての夢は何だろうか。人それぞれ異なるだろうが、きっと多くの人は『夢=SEXパーティ』というはずだ」というわけですが、このような強姦をそそのかす記事が夢であっていいはずもない。

ライターが心底思っているというよりも、連載のために無理くりに書いた気配が濃厚なんですが、強引でもこのような筋が夢の一語で通ると思ったのは、「嫌よ嫌よも好きのうち」「女はそれを待っている」という期待があり、それがある程度は男性に共有されているとの考えがあってこそ成立した記事でしょう。

端的に言えば愚かですが、それが野放しにされているのが風俗界隈かもしれないと思うのですよ。という感慨を抱くのは、僕は一時期けっこうハードコアな、それこそ取り締まりの対象になるかどうかのきわどい写真を掲載したエロ本で仕事をしていたからです。

僕に仕事を依頼してきたのは、まだ20代の編集長でした。
彼女はそれまでに風俗店やAV女優にインタビューしてきて、表向きの記事では彼女たちは「男性を癒やしたいです♡」とか「セックスが好き!」などと、男性の夢に寄り添う内容を言ったふうにまとめていたのですが、本当は違うのだと。編集長が言うには「実際の彼女たちは本音はまったく違うところにある」のだそうで、それをなんとか取り上げたいと考えての打診でした。

その考えに賛同したので、僕は仕事を引き受けました。

そこで風俗で働いたり、AVに出演した人にインタビューを始めたのですが、彼女たちはまず取材にあたって敬語で接されることにひどく当惑した様子を見せました。いわく風俗誌の取材では初対面であってもタメ口や「どうせ好きでやっているんでしょ」といった態度がほとんどだったからだそうです。

それにも驚きましたが、ともかく企画趣旨を説明すると、「本当に本当のことを言ってもいいんですか?」と何度も確認してくるのです。だから「本当にあなたの思っていることを言ってください」とお願いすると、彼女たちの口からただちに漏れてきたのは、呪詛の言葉でした。

「誰がセックスなんか好きでやっているか」「癒やしとか期待する客は気持ち悪い。バカじゃないかと思う」

本音をそのまま記事にしたら、企画は上層の意向で3ヶ月で打ち切りになりました。

短期間ではありましたが、彼女たちの、ときに生い立ちを含めての語りは、男性の夢とやらが得体の知れない妄想でしかないと知らされるには十分でした。

「男って気持ち悪いよね。死ねばいいのに」と、なんともいえない笑みを含んだ表情でそう言った人のことを今でも思い出します。
それだけに「もう縁を切っても構わない女友達に対して実行すべき作戦」などと痛痒も感じずに言ってしまう、迂闊という言葉では追いつかない鈍さに愕然とするのです。

その夢は誰かにとっての悪夢でもあるのです。