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雑報 星の航海術

プライドと偏見

この世に生まれ落ちた瞬間から破れていかざるを得ない人、ひしがれ、地べたを這うようにして生きざるを得ない人がいる。
どれほど努力をしたところで、運命の歯車に挽かれ、砕かれざるを得ない人がいる。

生の不公平さに、どこか不正な匂いを嗅ぎつけたとき、僕は運命とやらに歯噛みする思いをした。

日常を送っていると、生活の安定を保障してくれている制度が現実そのものだとつい勘違いしてしまうが、いくらそれが堅牢に思えても、法の言葉によって紡がれたものでしかなく、天変地異が起これば雲散霧消してしまうような、剥き出しの暴力の前にはあっけなく崩れてしまう。何ら僕らの生を根底から支えるような代物ではない。

暴力は至る所に遍在し、暮らしの裂け目から滲み出している。それに浸潤されて生きざるを得ない人たちがいる。
そうして「おまえの生まれ落ちたことに何の意味もない」と思わされた人生は、誇りをもつことも強くあることもできない。

先日、アラスカのネイティブ・アメリカン「クリンギット族」のリーダー、ボブ・サムさんを囲む集いが都内で行われ、参加した。

知識の上で知っているネイティブ・アメリカンの置かれている状況は断片的で、たとえば自治はあっても伝統から断絶した生活は、彼らのアイデンティを脅かしているといったものだ。

伝統と無縁の現代的な生活に馴れたところで社会的地位の上昇を望めず、地歩を固められず、どこにも歩みを進められない暮らしの中で自死を選ぶ人、アルコール依存で精神を破壊される人も多いと聞く。

ボブさんも若い頃にドラッグとアルコールに溺れたという。
彼がその手の“現代的な暮らし”から足を洗ったひとつのきっかけは、宅地開発で先祖の墓が荒らされ、骨が散乱した様を見たことにあったという。
そのときの怒りについて、彼は多くを語らなかったが、白人社会を、そしてその文化と骨がらみになりつつある自分たちの置かれた状況をさぞ呪ったことだろう。

それからの20年間、彼は荒らされた墓を整理し、散逸した骨を拾い、先祖の霊を祀り、慰めることを黙々と行なってきた。そして、長老たちにクリンギット族の神話の語り部になるよう諭された。

僕らの目の前で彼はクリンギット族に伝わる世界に生命の火が灯された話をし、祈りを捧げ、舞った。

伝承によれば、クリンギット族を象徴する生き物のひとつワタリガラスが鷹の助力のもと、枝に灯した太陽の炎を世界のあらゆるところに運んだ。そして光が地を覆い、木々は芽生え、生命が萌え始めた。

神話が生まれたのはいつのことかわからない。千年、万年前かもしれない。

起源の見えない時間を経た物語を伝承する彼を、車の繁く行き交う街に案内するのは、どこか自分の恥部を見せるような後ろめたさを感じた。
現代文明にひしがれ続けた彼らの来し方に思いを馳せるにつけ、胸に痛みを感じたが、彼の軽い足取りを見るにつけ、思い出したのは若い頃に薬と酒に溺れた経験があるということで、ボブさんには僕が思うような脆弱さはなく、もはや一方的にやられないだけの耐性をもっているのだろう。そんなふうに感じた。

彼は僕に「誇り高く、強い人間だ」と言った。

僕はその反対に位置すると思ってい、加えて誇りを高慢さと捉え、警戒するあまり、いつのまにか誇りとやらに距離を置くようになっていた。そして、その距離に生じてしまったのは、言い訳と自己正当化を自らに許す弱さだった。

なぜ彼が僕にそういったのかわからない。
ただ、墓を守るという孤独な作業の中で怒りに飲み込まれず、自分を苛む運命を呪わず、しかし屈さず、成すべきことを成してきた歩みを思うにつけ、誇りや強さは他人からの承認を要さないのだと気づかされた。

そして、彼はこうも言った。
「魂について語ることを怖れるな」。

その言葉を受け、僕は気高くありたいと思った。アラスカへ、いつか行ってみよう。

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デリーで迎えたバブル崩壊の日

10日あまり寝込んだ末、ようやく上半身を起こせるくらいの元気さは取り戻した。
あれほどまで自分を包んでいた煩悶憂慮が雲散霧消していたことに驚いた。

窓から射しこむ明かりに、なんとなくこの先の希望を感じ、気持ちが高揚した。
しかし、わずかに身を起こしたくらいで、翌日には腹筋が筋肉痛でひきつれ、背筋を立てることも難しくなっていた。
日本で毎日のようにボクシングに勤しみ、完全に割れていた腹筋は跡形もなくなり、肩も胸も細くなり、寝ていただけですっかり筋肉がなくなっていた。

回復に合わせ、食事は粥やヨーグルトから次第にカレーやパンが出されるようになった。加えて滋養のためか看護師はバナナやマンゴーを食後のデザートに付けるようになった。
僕は遠慮なく食べ、時におかわりも所望したが、実はこれは食事代として加算されていたことを後に知る。さらに後に知ったのだが、僕が駆け込んだ病院はよくよく見れば、隣にゴルフ場があるなど金持ちが行く病院であった。だからといって、この病院を教えてくれたイギリス人を恨むわけにもいかない。

定期健診の際、医師はレシートを持ってき、これまでの入院代を僕に見せた。「本当に払えるの?」という不安顔とともに。
実は今回の旅行でいっさい保険に入っておらず、合計金額を見ると日本円にして13万くらいになっていた。一日の食費が100円くらいで済ませられることを思うと、相当の金額だ。貧乏旅行の身であれば、そんな金はもちあわせておらず、仕方なく父に無心することとした。

それにしても10日余の入院は自分でも想定しておらず、ゲストハウスに荷物を入れっぱなしであった。荷物の引き上げと国際電話をかけるため、久方ぶりに外へ出たが、階段のわずかな高低差が足をあげることも困難な切所となっており、さらには道端の牛糞を避けるべくジャンプしようとしたところ、地上1センチも飛び上がれなくなってい、そのまま足を糞に突っ込むこととなり、しばし呆然とした。

往来のオートリキシャを止め、よろよろと座席に上がりこみ、ニューデリーのメインバザールへ行ってくれるよう運転手に伝える。
しばらくすると、運転手は「おまえ、そうとう具合が悪そうだが、どうしたんだ?」と話しかけてきた。

「病気で入院していたんだ」
「そうか。たいへんだったなぁ。身体は大事にしなきゃな。ところで話があるんだが」
「なんだ?」
「いま、ドルがけっこういいレートで取引されてるんだ。オレの知り合いを紹介してやるよ」

運転手は闇の両替を勧めてきた。
僕は自分の左手に差し込まれた点滴用の留置針を運転手に示し、「これを見ての通り、いまはそんなことにかまける余裕はないんだよ」というや、運転手は気色ばんだ様子で、こういうのだ。

「せっかくの親切で言っているのに、おまえはなぜ両替をしないんだ!」

それから彼はぶりぶり怒りながら、再三再四両替を迫ったが、僕はもう会話を続ける体力もなく、黙り込んだ。

ゲストハウスに着くと、宿代を精算する。このどうということのない手続きだけで疲労困憊してしまったが、国際電話をかけるミッションを果たさなくてはならない。

当時のインドでは、まだ携帯電話はなく、公衆電話から国際電話をかけることもできず、したがって国際電話専用の局まで出向かないと日本に連絡はとれなかった。ゲストハウスから100メートルばかりの道のりを行くのはたいへんな苦行だったが、どうにか行き着き、日本へ電話をする。

父の第一声は「生きていたのか!」であった。聞けば、僕は行方不明として在インド韓国大使館に捜査依頼が出されていたという。

その話を聞いて改めて思ったのは、何か自分の身に起きたとき、大使館に保護を求めて駆け込むのだろうが、僕の場合、韓国大使館に行ったところで会話ができない。
ならば日本大使館はどうか。確かに意思の疎通ははかれても保護は望めないだろう。インドというような一見、現世的、行政的な秩序の縛りが緩やかに見える土地で(むろん、この体感はツーリストのものだが)、「自分のナショナルアイデンティティーについての考察を求められるとはな」などと思っていたが、肝心の用件は金の用立てであったから、「入院費が払えないから送金してくれないか」と父に伝えた。

父はこう返した。「いまはそれどころじゃない」と。

「今日、株が大暴落してな。家が抵当に入るかもしれん」

そういうビンゴな瞬間を僕はよく引き当てる。
僕が電話したその日、まさにバブル崩壊の日で、いささかのめり込むところのあった株で父は大損失を被った。

電話局を出て、インドの真っ青な空の下を歩いていたら、身の内から哄笑が漏れてきた。
なんだかわからないが、「ざまあみろ!」と言いたくなった。

自分の享受していた豊かさなど続くはずがなく、この浮かれた世などいずれ色褪せる夢幻であり、栄耀栄華も跡形なく滅びるのだ。幼い頃から抱いていた思いがいささかも誤っていなかったことに、僕は欣喜雀躍、手の舞い足の踏む所を知らずを地で行くような気分であった。

たとえ神戸に帰り、家が抵当に入っていたとしても、人間世界の欲得よりも「風の前の塵に同じ」といった歴史の法則性の貫徹に自分が立ち会えた喜びのほうが強かった。

ま、それはそれとして先立つものは金であり、入院費は難してくてもとりあえず帰国のチケット代を送ってもらうことにしたのだが。

なんだか気分がよかったので、金もないのに散財したい心持ちになり、当時のインドでは高級店であったファーストフードのハンバーガー屋に寄り(店の前にはガードマンがいて客を選別する)、羊肉のハンバーガーをがっついた。パサパサとしたバンズと肉のハンバーガーが妙にうまく感じた。

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出口王仁三郎について

先日、出口汪さんと甲野善紀先生の対談の司会を務めることとなった。

出口汪さんと言えば、予備校講師時代には「現代文のカリスマ」と呼ばれ、その経験をもとに「論理エンジン」という日本語の読解力を飛躍的に向上させるシステムを開発され、現在は執筆業のかたわら出版社も経営されている。

甲野先生については、いまさら説明する必要もないだろうが、古の日本人の身体操作の研究を通じ、「人が生きるとは何か」「自然とは何か」といった探求をされている方で、僕も一時期は門下生として稽古していた。

出口さんと甲野先生との縁は、大本教においてのつながりという点ではるか前に予告されていた塩梅がある。

大本教といえば、開祖出口なおのこの御筆先で知られる。

「三千世界一度に開く梅の花艮の金神の世に成りたぞよ。(略)三千世界の立替え立直しを致すぞよ」。

出口なおとともに活躍したのが教祖、出口王仁三郎。つまり出口汪さんの曽祖父にあたる。

昭和初期に800万人の信徒を従え、民衆から知識人や高級官僚、軍人、華族まで絶大な影響を与えた大本教は、「立替え立直し」という革命思想ゆえに天皇制と鋭く対峙し、戦前、治安維持法、不敬罪により苛烈な弾圧を二度にわたり受けた。
また王仁三郎の現人神の戯画化にも見えるトリックスターぶりは当局の敵愾心を煽ったであろうことは想像に難くない。

王仁三郎が残した遺産はその発した言葉の膨大な量もさることながら、生長の家、世界救世教をはじめ日本の新宗教で大本を淵源としないものはないと言われるくらい、絶大な影響を及ぼしている。
その表に見えるところのみではなく、裏にも目を向ければ、現代日本の精神史の別の相貌も見えて来るのは間違いない。

それほどの深い感化を与えながらしかし、王仁三郎の核心となる教えがいかなるものだったのかは、つかみどころがない。
ときに一日に口述筆記の分量が原稿用紙500枚近くに届いたと言われるくらい、語られた事柄は豊穣であったが、一義的な解釈を許すような甘い言説ではなかった。

巨大でありながら虚ろにも見える王仁三郎。親族の中には、王仁三郎に対する距離の取り方を見誤り、人生を大きく狂わせた人もいる。

出口汪さんはどうかといえば、宗教家の道を歩むことを拒否し、別の世界で生きてきたのだが、昨年実家が消失し、地中からさまざまな王仁三郎の遺品が出土した。火事の難を逃れたのが不思議なくらい、完璧な姿で残っており、私もその一部を見せていただいた。

実家は最晩年の王仁三郎が過ごしたのだが、親族も知らぬうちに密かに遺品を土中に埋めたものと思われる。
自身の家の宿命から逃れてきた出口汪さんだが、こうした邂逅に「逃げられない運命なのかな」と漏らした。

さて、甲野先生と大本の出会いについてだが、29歳で道場を発足させる前後の「灰色の20代」、熱心に読んでいたのが小説『大地の母』だったそうだ。これは大本教を舞台とした小説で作家は出口汪さんの父、出口和明氏だ。

そうしためぐり合わせからふたりが話をする運びとなったわけだ。

対談の中で私がもっとも感じ入った話がある。

それは王仁三郎がいずれ自分を裏切るであろうとわかっている人物たちを抜擢重用し、存分に働かせようとしたこと(その時点において、その人物たちの信仰心は何人にも劣らぬものであり、当人もゆめゆめ自分が裏切りを働くようなことになるとは想像もしていなかったかもしれない)。
そして、身内や親しいものが辿るであろう過酷な運命ー投獄、拷問死、自殺ーを知りながら、確定したシナリオを実行するかのように、大本教を破滅へと急がせようとした振る舞いが随所に見られたこと。

大本には、「大本は日本のひな型」という発想がある。つまり大本教に起こることは、日本の行く末を示すと。その伝でいえば、大本が進んで罪業を背負うことによって、日本に起こりうることを最小限に留めるという考えも成り立ちそうだが、その理非について明らかにするようなことは、私の手にあまる。

ただ、個の身が粉砕されていくような過酷な運命がたとえ待ち受けていたとしても、それを越えたところを見つめる眼差しが王仁三郎に確かにあったであろうことで、その精神の底の見えなさ、計り知れなさに愕然とする。

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幻覚

これまで経験したことのない高熱と頭痛、歯の根が合わなくなるほどの悪寒でガタガタと震えた僕は毛布にくるまったまま放っておかれ、意識朦朧としていたことから時間の流れもわからず、一日くらい経ったと思えた頃、陽気なインド人の医師と看護師がやって来、開口一番「裸になって横臥しなさい」という。

熱でふらふらの身では、「え?」と気弱に問い返すのが関の山で、「いやはやそれは」と手を打ち振ってインフォームド・コンセントを求めるのも億劫だ。結局のところ、のろのろと服を脱いで横になる。すると医師は「恥ずかしいか?」とニヤリと笑うと、ぶっとい注射を腰骨に突き刺した。

腰骨の脇とかじゃなく腰骨そのものに針を突き立てられ、ゴリッという音が耳朶を打ったことから、さらに奥へと針が押し込まれたと見えた。この期に及んで、自分が何をされているのか理解していなかった。
日本に帰国してからわかったのは、このとき僕は髄液を抜かれる処置を施されていた。

何も説明されていない上に裸になるよう言われ、いきなり髄液を抜かれるという注文の多い料理店みたいな扱いを受けたが、抗議する気力もなく。というより、いっぺん髄液を抜かれたらわかると思うが、テキメンに気力、体力が下がる。

ボクシングや格闘技をかじった人ならわかるだろうが、顔を殴られると多少痛みがあっても、頭にカッと血がのぼって、「この野郎!」みたいな、相手に向かっていく上での発奮材料になりもするが、内臓を叩かれると途端に一切のやる気が蒸発し、「僕、もうおうちに帰りたいです」みたいな気分になる。髄液検査にはそれくらいの破壊力がある。

髄液を抜かれて以後、悪寒から一転、身の内が煮えたぎるように熱くなった。燃えるんじゃないかと思うくらいに。

あまりのことに看護師に「熱くてたまらない」と訴えたら、彼女は「わかった」というでもなく部屋を出、しばらくすると水でびっしゃびしゃに濡らし、一切絞りもしないデカいバスタオルを数枚もってくるや、おもむろに僕の身体に直接ビターンと張り付けた。その上で扇風機を回し始める。

しばらくすると当然ながら水が寝間着、シーツを濡らし不快な上に、異常に冷えてくる。再度、看護師を呼んで「寒いです」というと、「さっきは熱いって言ったくせに」とぷりぷり怒る。

看護師も医師もドアの扱いはドアらしく「ドン!」と勢いよく、明かりのスイッチのオンオフはそれにふさわしくバチッという音を鳴らさなくてはならない、と生真面目に思っているのか、すやすやと寝入っていてもドアの開閉音やスイッチを入れる音でいちいち目が覚める。

4人は入れるであろうけっこう広々とした病室の端っこにいた自分からすれば、ドアもスイッチも5メートル先くらいにあるのだが、おもしろいことに医師や看護師の立てる音とハッとして見たときの映像のズレが甚だしい。

遠くにあるなりの音として全然把握されておらず、ときに小さなドアノブが異様な大きさで眼の中に広がったりして、ちょうど「イージー・ライダー」に出てくる幻想的、というかLSDによる幻覚シーンそのものみたいに空間のねじれる感じが病室全体に行き渡っていた。

そういう感覚の変容も「そういうものだろう」と思うのみで、ひたすら毛布を巻きつけて寝るしかない。
激烈な熱が多少下がって高熱くらいになってからというもの、僕は毎日泣いていた。

帰国予定の飛行機ももう逸してしまい、行方しれずになってしまった自分だが、親に心配をかけているということは、あまり気にならず、それよりもインドくんだりまで来て、何も見つけることができず、こうして病院に入って、水を飲み、わずかに粥を啜り、点滴をうたれ、安閑と暮らしている身が悲しくなってきた。

路傍で痩せさらばえた姿で亡くなった人。手足がねじくれて直立できず、四足歩行しているがゆえに犬と見間違えた人のすれ違いざまにこちらを見たときの眼。手足がなく道を転げまわるようにして移動していた人、バクシーシを求めてわらわらと集まる蓬髪の子供たち。
生きる苦しみと老いる苦しみ、病の苦しみと死の苦しみ。あらゆるところで苦しみに縁取られた人の姿を見た。

生まれた瞬間から熱した鉄板の上で素足で立つよう宿命づけられ、炙られながら生きていくことが人生にほかならない。悲惨であることが決定されてしまっている生のありようというものがある。人はそれでも生きる意味があるのだ。本当にそうなのか。もし、そうなら悲惨さをどのように肯定したらいいのか。2ヶ月近く経とうとしているインドの旅路で皆目見当がつかなかった。

ただでさえボンクラな頭なのに、さらに熱ではっきりと考えることもできない。
だから泣くしかなかった。泣いていても無惨とわかっている生に意味があるのか?という問いが離れることはなく、それが脳内に収まっているのではなく、「イージー・ライダー」的幻想として、つまり病室内で問題というやつがとぐろを巻いて、曖昧ながらはっきりとした映像として知覚できた。
高熱がゆえの幻覚だったといえば、それまでだが、そいつはよくわからない形で地を這ったり、天井を飛んだりしているのだった。

熱で目が開けるのもしんどいときでも、僕はそいつを意識の片隅に捉えて、ふん縛ってやりたい気持ちだけは萎えていなかった。

日の陰りから夜の帳が落ちてきたことのわかったある日。入院から10日は過ぎていたろうか。

日課というか秒課というか絶えず頭を離れない、「この生老病死の苦と生きることをひしいでいくような、剥き出しの暴力だけが現実としか思えないような現世で、それでも存在することに意味があるのか?」に思いを凝らしていたときのことだ。

突如、ドンっという音が鳴り響き、僕を揺さぶった。音の源みたいなものが僕の頭頂を猛烈な勢いでこじ開けるような感覚を覚えたかと思うと、暗かった部屋に光源のはっきりしない光が行き渡った、そして、それから言葉が降ってきた。

「苦痛に身を開いて生きよ」

僕は号泣していたように思う。熱に浮かされ、無理な状態で脳を働かせ続けたがゆえの幻覚に過ぎないとしても、一切の迷いを晴らすような光が身を包んだ瞬間はたしかに僕にとってこの上ない現実だった。

翌日から熱が下がった。

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頭の中がかゆいんだ

存在とは何か。生きるとは何か。
インドくんだりまで来たのだから、答えらしきものが見えるかと思ったが、その問いはいっそう濃く重くなるばかりで、僕からまったく離れず、悩みが霧消し、身が軽くなる気配はまるでなかった。

「如何に」「どのように」といったノウハウで当座のやり繰りどころか人生のすべてをまっとうすることを、「存在すること・生きること」だと捉えている向きには、それらは鼻で笑われるような青臭い疑問だろう。

なぜ?に貫かれた問いは答えを求めないところがあって、答えに思えるようなことも新たな問いだったりする。
延々と問いだけが立ち続ける。そのような試みを無用の長物と思う人は、いつの時代にもいるが、バブル経済の頃はそういう傾向がもっとも高まっていたように感じる。いまでは死語だろうが、本質的な問いを発すると「ネクラ(根暗)」と蔑まれたものだ。

経世済民ともオイコス・ノモスとも関係のない、矮小化された「経済的」とやらがあらゆる領域で顔をのぞかせ、幅きかせる時世にあっては、すでにある現実に沿って生きさえすれば、ローンに苦しむとかはあっても、特に問題のない一生を終えることができた。そのほうが認知コストのかからない経済的な生き方ができるというわけだ。

事実、僕らの前に提示された世は、パンとサーカスの日々だった。「一期は夢よ ただ狂へ」とばかりに。
しかし、閑吟集にしたためられたその歌謡の奏でる断念と異なり、昭和から平成にかけての乱痴気騒ぎには、諦観は皆無だった。現実はのっぺりとした遊興に沸き返っており、それがいつまでも続くと思われていた。

だが、その現実は「私の思う、私にとっての現実」であって、「そうあれかし」という願望と違わない代物だ。
そも願望を現実と取り違えることを妄想というのではなかったか。その区分も確かではない時節だった。

であれば、バブル崩壊後の泥濘を行くような日本経済にあって、従来の右肩上がりの生活設計はとうてい不可能になりはしても、その価値観を体得することをもって認知コストを下げてきた僕の同世代は、そうとう肝を嘗めたことだろう。

長期的に見て、損をしないために「存在とは何か。生きるとは何か」を考えるべきだと言いたいのではない。そもそも損得ではかれる問題でもない。

いつの時代にも本質的な問い、思索を軽んじようとする力が働く。不都合な事実を白日のもとに曝されたくない人にとっては、特定の教えを学ぶことをもって教育とみなす。
効果的な教育によって理解力にすぐれた人は生まれるだろう。だが理解力の特化は判断力のなさを証もしよう。

あらゆる事柄に答えがあると思える人。たとえば、「生きるとは何か」が愚問に思える人は、愚かしくはない答えをもっているはずだ。
だが、もしも生きることについて答えをもっているのなら、なぜその人はいまなお生きているのだろう。

答えとは、問いが視野に納めたプロセス全体を情報の次元を落として簡略化したものであり、つまりは生きることが何かわかれば、生きなくてもいいわけだ。

池に小石を投げ込み、10秒にどのような波紋を広げるか。これを計算するのは不可能に近いような困難な問いだ。
これに答えめいたものがあるとすれば、小石を投げ入れてから10秒間、観察することだという。

存在に対する答えが何かわからないから生きてみる。生きてみるほかない。

インドにいた頃、そのような生の方針みたいなものもなく、ただ安宿の壁に向かってうずくまり、「生きるとは何か」についてああでもないこうでもないと頭を悩ませるだけで、陰鬱な気持ちを晴らそうと往来に出ても、まったく気分は晴れなかった。

あるとき、いつものように雑踏の中を歩いていたら、遠くのものと近くのものの違いがなんだかよくわからないような気分になってきた。
遠くにある建物や人が「遠くにある」という実感をまるで伴わない。遠くも近くもなく、なんだか自分を取り巻く光景が異様に平坦で、芝居の背景画みたいに思えてきた。

そうして鼻の奥が痒くなってき、最初は排気ガスやひどい砂塵のせいだと思い、鼻うがいなどしていたのだが、そのうち鼻のもっと奥、頭の中としか言い表しようのないところに強烈な痒みを覚えるようになった。
隔靴掻痒ならば靴を脱げばいいが、頭はそういうわけにはいかない。加えて微熱が出て、座るのもしんどく、横臥してちっとも気分はよくならない。

原因については、あまり食事もとらず、ただラッシーだけを飲んでいたため、「栄養が足りていないのかな」くらいの認識だった。好物のラッシーすら口に入れるのも厭う気分が募り、仕方がないので街中の薬局でビタミン剤を注射してもらいもしたが、いっこうによくならない。

やがてまっすぐ歩いているつもりで、どうも横に逸れるようになってきた。それを見たバックパッカーのアメリカ人が「どうした、顔色が悪いぞ」と声をかけてきた。そういうものか?とインドに来て初めて鏡を見たら、黄色くもどす黒いという面妖な風貌になっていた。

寝てば治るだろうさと回復を期待したが、数日経ってもよくならない。それどころか呼吸も浅くなり、起き上がることがいよいよつらくなってきた。さすがに病院に行ったほうがいいい。リキシャに乗って「地球の歩き方」に書いていた国立病院へ向かうことにした。

そのあたりから記憶が曖昧だ。露地をすれ違う際、向こうからのリキシャに乗ったイギリス人と思しき男性が声をかけてきた。「どこへ行くんだ」と。僕は座席から身を起こすのもしんどく「病院へ」というと、「インドの国立病院はやめとけ。それよりビレンディン・ホスピタルへ行け。そこはすごく丁寧だぞ」。

僕には「ビレンディン・ホスピタル」と聞こえた。いまとなってはそれがどこにあった病院なのか全然わからない。リキシャの漕ぎ手に「ビレンディン・ホスピタル」というと目をつぶった。病院につく頃には容態が急激に悪くなり、受付に這うように向かい、この期に及んで僕は栄養失調から来る風邪だと思っていたらしく、点滴を打てば大丈夫だろうと踏み、ただアホのように“I want a glycogen”を連呼した。

願い通り、ブドウ糖の点滴を打たれた。その途端、これまで経験したことのないような高熱が一気に出た。たぶん40度を超えた。