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サドゥーについて

今日は箸休めの話をひとつ。

インドの人口は約12億だそうだけれど、数千万人規模でサドゥーがいるんじゃないかと思う。サドゥーというのは、ヒンドゥー教の行者で家をもたず、結婚をせず、生涯を旅に暮らし、行を通じて神に近づこうとする人たちのことだ。

サドゥーのてんこ盛り

行という文言に惹かれる人は役小角を、神に近づくことに憧憬を抱く人は、アッシジのフランチェスコを思い浮かべるかもしれないけれど、高野聖や毛坊主に近いんじゃないか。

何が言いたいかというと、欲得に対して距離を置くというポーズが本当にそれらから離れているわけではないということで、たとえば彼らに銭をせがまれたことがあるのだが、断ったり、「そんなにはあげられない。まけろ」と言ったらば、怒り出すサドゥーがいた。

こちらからすれば、神に近づこうとも思えぬ業突く張りなのだが、そう言おうものなら、「自分のものを出し惜しみしているおまえこそが欲に囚われているではないか」という迫り方をしてくる。
そこにはあっけらかんとした欲の肯定というよりも、処世の上での業じみたしがらみを感じた。

布を巻きつけた半裸、あるいは全裸の彼らを街中でよく見かけた。
当初は、塵埃を避けることなく、身を欲望渦巻く都市に置くとは、そうとう心胆を練らないと行をするにも困難ではないかと思ったのだが、彼らは街角にたむろし、チラムでマリファナを吸ったり、水浴をしたり、観光客に喜捨を迫ったり、都市を満喫しているようだった。

足を上げる行を続けるサドゥー

ちなみに僕がインドに行った前年の90年までは、「地球の歩き方」によると政府直営のマリファナ販売所があったようだ。どういう理由からかわからないけれど、91年からは廃止された。
だから、いちおうマリファナの所持は禁じられていたようなのだが、それも守られていない模様で、警官の真ん前でもサドゥーらは車座になり、マリファナを回しのみし、甘い匂いを周囲に漂わせていた。

五体投地を続ける。片足や片手を上げ続ける。爪を伸ばし続ける。そんなサドゥーをたくさん見かけた。
苦行を生涯己に課す姿に「えらいもんだな」と思いはしたが、むろんその「えらい」は立派というよりは、「難儀な人もいてはるもんやなぁ」に近い。

心身の困憊の極みまで苦行を徹底的にやりこんだブッダは、苦行を通じて悟りに至る道を一切否定した。ブッダの理屈によれば誤った方法で正しい結論を求めることは到底不可能なことになるはずだ。

サドゥーの苦行についておもしろい意見を聞いたことがあって、それは「止め時を失ったから止められなくなった」というものだ。なるほどと思う。

手を上げ続ける行では、血の通いが悪くなり、半ばミイラ化したような枯れ木のような細い腕になる。
そこまでの状態になれば苦痛も感じないかもしれないが、その中途ではきっと痛みを感じたろう。「なぜこんなことをしなくてはならないのだろう」と思ったこともあったろう。

日毎に募る痛みを凌駕したのは、「これをすることに意味があるはずだ」との堅い思いだったろうか。
だが、それは意思の強さに見えて、内実は苦痛それ自体に意味を求める鈍感さと怠惰さだったかもしれない。魂の覚醒とは程遠い、いっそう深い眠りへの道ではなかったか。

もっと平易に言えば、断念する勇気を欠いただけのことかもしれない。

「おもい」を表す漢字に思・惟・想・憶など多々あるが、念は中でもベタついた質感をもっている。
「おもいつめる」といった凝らし方を表すのにうってつけの文字で、だから断念とは、リアルタイムからずれた思い込みや妄想をすっぱり断つ意味であり、悔いを残しつつ諦めるのとは違うだろう。

だから念を断つには新しい地に向かう勇奮が必要なのだ。
そう、「犀の角のようにただ独り歩め」とブッダが言ったように。

サドゥーを見て思うのは、俗世間から半ば離れた存在だという僕からの距離の遠さよりも、俗世に渦巻く欲望や思惑を極端な形で体現している、身近過ぎて直視したくない存在だということだ。
欲得へのこだわりや、そのこだわりを否定することへの囚われも、実感という妄想に重きを置くことにおいては、同じ穴のムジナだ。

こだわりは欲という己の実寸を離れた欲望、欲得、欲念であるからして、それが達成されたとしても飢えが癒えることはない。もともとが現実にはない膨らみを帯びてしまった想像上のものなのだから。

本当にありもしない妄想を前提に、それを否定する行をしたとて、妄想との格闘が延々と続くばかりで、個の修行は完成されることはない。

安易な否定も肯定もせず、どのように生を全うすべきか。彼らを思い出すたびに、そんなことを思う。

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人生はすりこぎ、か?

社会に出る直前にシモーヌ・ヴェイユの『工場日記』を読んだ。
恐らくは運動神経がよくなく、事務作業などを始末する要領もかなりよくないであろうヴェイユが持病の頭痛を抱えつつ、プレス工場で働いた期間について綴った日記だ。

僕の労働に対する印象は、この本で決定的になったところがあって、それは単純な価値観を疑わず、それが要する考え方を身に付けないことには始まらない。そうして慣れて「仕事ができるようになった」と周囲に評価される頃には、精神がくたくたに疲弊するというもので、いずれにしたって世の中に出りゃすり減って、小突き回されるのだ。そんな予見に戦いた。

そう、「とん平のヘイ・ユウ・ブルース」が絶唱するところの「俺はすりこぎにされちまったんだよ」以外に道はないんだと思うと、暗澹たる気分になった。

そして、実際蓋を開ければ、不安に思った通りのことが起き、自分の身の置所のなさをかこつにあたっても、往時ロスジェネという取り回しのいい語もまだない頃であれば、自身の陥っている事態を構造から説き明かすことができず、すべての原因は己の無能さであり、畢竟「人生はすりこぎだ」の思いを強くしていった。

派遣労働の苦境は構造の問題であることが見えるにしたがって、「所詮人生はすりこぎだ」と単純化することはなくなった。
しかし、うっかりするとすりこぎにされちまう可能性は十分にあるとは思っている。

すりこぎから脱せる人とそうでない人がいる。両者を分けるのが才能や努力というものだ。

こういう考えになんとも収まりのつかない気持ちになる。振り返って自分の足跡を見たとき、それが才覚や努力の賜物と見えることがあるというだけで、成功するにせよ失敗するにせ本当の本当の理由はわからない。

というか、成功や失敗がある時代の価値体系に沿うことであるならば(いまさら僕が四書五経を覚えて科挙の試験対策に勤しんでも成功は勝ち得ないだろう)、それらを人生上の大問題かのように扱うのは、針小棒大というものだ。

そして、もし死に至るほどのしくじりを失敗というなら、すべての人間はいずれ失敗することが予め定められている。すべてが失敗に帰するならそもそも成功も失敗もない。

成功を目指す才能や努力には意味がない。

才能の開発や努力それ自体に傾けられる時間は稔りをもたらすことはなく、ただ冗長性を生むだけだ。
この先延ばしされた冗長的な教育に価値を置く期間のうちに、人はすりこぎにすっかり変えられる。

「素質」という語に注目したい。素質とは、「生まれつき持っている性質」であり「将来すぐれた能力が発揮される」とみなされる「可能性」のことだが、このふたつの考えの結びつきはとても興味深い。

可能性とは、「あらかじめ備わっている能力が発揮される」様子を示している。つまりは潜在した事実のことだ。

素質という概念は、時間的に先行しているはずのものが、現在に既にあることを示している。生まれつき持っている性質がそのまま能力の可能性ならば、私たちがなすべきは、冗長的な時間の中で成功を手に入れるための知や情報、資格といったアイテムの収集ではなく、「持っているものをそのまま発揮する」だけだ。

素質の発揮を阻害するものは何か。これについて考えることが、すりこぎにさせられてしまうことから脱する道なのではないか。

僕の住まう近隣の商店街に魚屋がある。親子で経営しているのだが、「本当に魚が好きなんだな」と感じられて仕方ない。

金を払い、いまどき珍しく経木でくるんだ魚の身を受け取り、つり銭を渡されるまでのやり取りの中に、僕はどこか海の豊穣さを前に随喜の表情を浮かべる漁師たちとのつながりを彼女たちの背後に感じる瞬間がある。

僕は魚を買っているのではなく、海から生じた歓喜のつらなりに対価を払っている気分になる。
仕事というのは、扱っているものの売り買いではなく、実に商品以外のものを授受しているのではないか。

私の胸中のこの喜ばしさを伝えたい。
交換の始まりは、そうした思いを伝達する行為=仕事から始まったのではないだろうか。

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逃避行

ニューデリーの旅行代理店のオヤジはたしかにこう言った。

「そこの若いの、ジャパニーよ。如是我聞。イタリア人はナポリを見て死ねと言うらしいじゃないか。インドでそれを言うならば、さしずめシュリナガルであろう」

オヤジにはthird generation of Koreans living in Japanという概念がわからないらしいので、僕をジャパニーと呼ぶ。ヨーロッパでもアメリカ、タイでも同様の反応だったが、まあそういうものだろう。

船側に商人が海賊のように乗り付ける

それはさておき、オヤジ一押しのシュリナガルであったが、入境規制が布かれていたものの入ってしまったのだから、それはいいとしておおいに閉口したのは、地元の商店街がモスク焼き討ちに対する抗議として一斉にストライキに入ったことだ。満足いく食材が手に入らなくなった。

パンフレットには、湖に浮かぶ優雅なハウスボートとそれなりに豪勢な料理が紹介されていたが、実際に出されたのは朝は紅茶と10センチ角のトースト。昼も同じ。夜はチャパティと豆のスープ。従業員は「仕方ないね」と肩をすくめるばかり。

2月のシュリナガルは寒い。そもそもこんな季節に避暑地に来たことがおかしいといえばおかしい。
当時の僕はアホみたいにボクシングをやりこんでいたせいで腹筋は割れるなどマッチョな体型で、たぶん体脂肪率もかなり低かったと思う。脂肪が少ないと冷えに弱い。食事を取らないと覿面にそれが現れる。薪のストーブは焚かれてもそれだけでは身体の芯からは温まらない。

温かい紅茶にどかどかと砂糖を放り込み、ミルクを入れて腹の足しにしようとするが、利尿作用が高まるだけでいっこうに腹はくちくならない。

僕は食い意地が張っているので、お腹が減ると途端に倦怠感が募る質だ。そんなアンニュイな心持ちのところに連日のように来襲したのが物売りだった。

ハウスボートに「甲子園球児のエースの連投か!」「わんこそばの継ぎ手か!」とツッコミたくなるくらい、次から次へと物売りがカヌーで乗り付けては部屋にやって来る。ホテルのほうも咎めはしないので、持ちつ持たれつの間柄というやつだろう。

「よく見ろ。これは本物のサフランだ。日本で買えば高いぞ。おまえには安くしておく。これでサフランライスをつくればいいじゃないか」「インドへ来たからにはパージャーマーとクルタを買うべきだ」と口上をそれぞれが述べる。パージャーマーとクルタというのは、インドの民族衣装のひとつで、パジャマの語源と言われる。

インドの代表的な衣装、パージャーとクルタ。

どうせなら日本に帰国してからでなくいますぐサフランライスが食べたいし、衣装では腹は満たされない。僕はにべもない態度で「いらない」とひたすら言い続けた。

インドの商人はけっこうグイグイ来る。1ミリでも勝機あるいは商機があると思ったらオールブラックス並の勢いで突進して来る。
インドに着いた当初はその攻勢にやられっぱなしだったが、次第に相手の顔色をうかがうことがコミュニケーションのやり取りではないらしいと気づいてからは、「いらない」と素直に言えば、相手は渋々引き下がることを知った。ただし、相手を根負けさせるくらいしつこく言わないといけないが。

連日のようにやって来た商人をかわし、僕はひとり街へ出て、食料を求めた。
商店もレストランもどこも扉を閉ざしていたが、中に一軒香ばしい匂いをさせている店があったので、表をほとほとと叩いた。若い男が出てきたので、「食べ物をわけて欲しい」と言ったところ、チャパティを数枚わけてくれた。

日曜日にシュリナガルに入り、はや4日経っていた。
紅茶をがぶ飲みしつつ手に入れたチャパティを食べていたら、ホテルの従業員が「今日夜半に何か軍に動きがあるらしい」と教えてくれ、ラジオを貸してくれた。

拙い英語力しかないが、従業員がラジオの放送を伝えるところによると、「明日はモスクの焼き討ちから一週間であり、礼拝日である。ふたたびムスリムと軍とのあいだに衝突が起きる可能性があることから道路封鎖が発令された」という。

すでに夜間外出禁止が布告されていた。そんな中、ただでさえひもじい思いをしているのに、この上道路封鎖令まで出てしまっては、物流はストップするし、街から外に出るチャンスを失う。
紛争多発地帯における道路封鎖というものがどのレベルの緊張状態なのかわからないが、これ以上物流が滞ったらトーストさえ手に入らなくなる。僕の行動の基本は食欲だった。

“I want to run away”
なんでもっと英語を勉強しておかなかったんだろうと、内心途方に暮れながらそう従業員に言ったところ、湖の向こう岸まで運んでくれる人をあたってみると請け合った。

明け方、ターバンを頭に巻き、髭を蓄え、ついでに黒々とした眉毛もつながった男が現れた。男は「危険なんだから、それくらいは当たり前だ」と日本円で1万円程度を要求した。20円もあれば十分な食事が取れるからかなりの額の要求だが、交渉の末、5000円程度にまけてもらった。

ボートに乗ると上からゴザをかけられた。男はパドルを漕ぎ、ボートは静かに岸を離れた。
明け方の湖上は思っていた以上に寒かった。身を隠さなくてはならないということは、この時分の出境が違法な行為であるということであろうけれど、その違法がどういう根拠によっているのかわからない。判断のしようもないが、寒さに震える反面、この奇妙な脱出行にわくわくしていたのも正直なところだ。

ボートは幾度か橋をくぐった。橋にさしかかると男は「静かにしていろ」と合図をした。ゴザの隙間から上を覗くと、検問所が設けられ、インド軍の兵士がライフルを掲げていた。ときおり兵士が何やら男に声をかけた。語気鋭く聞こえ、ヒンドゥー語で言うところの誰何であろうかとビクリとしたが、「今日はどこへ行くんだ?」とでも言った内容だったか。特に問題なくボートは進んだ。

兵の中にはシーク教徒がいた。彼らは髪の毛を切らず、それをターバンに巻くが、兵士であってもその戒は守れていると見え、シーク教徒の兵らはグリーンのターバンを巻いていた。「しかし、それではヘルメットが被れないではないか。では絶対にパイロットになれないということか?」と、高まる緊張の中で不釣合いな素朴な疑問が湧いて出た。

どれくらい時間が経ったのかわからないが、とりあえず向こう岸に着いた。男はグッドラックというでもなく、無言で去っていった。

ボートから降ろされた街の名は覚えていない。バスに乗り大きな街に出た。たしかジャンムーと言った。

その頃になるとガイドブックをあてに行動することはなくなり、でたらめの英語と直感で行くべきところを定めていた。「おそらく長距離バスの起点になるところはあそこだろう」と見当をつけ、見知らぬ街を歩けば、そこに必ず行き着いた。

サモサをつまみつつ、発券所でデリー行きの夜行バスのチケットを買う。
バスの屋根には荷物だけでなく、座席に乗りきれない人間までが積み上げられ、サスペンションというものがもともとないかのように路面のショックを直に伝える明らかに過荷重の車体は、つづら折りの峠を越えた。

カーブを曲がるたびに車体は大きく傾く。切り立った崖の下にはときどき転落した車を見かけた。運転手はブレーキを踏む走法があまり好みではないと見え、エンジンをぶん回し、ときに反対車線を走りつつ先を急いだ。先を急ぐ一方、運転手の気まぐれで挟まれた休憩時間では、1時間以上食事を取り、乗客のブーイングでやおらハンドルを握り直すという塩梅であった。

明け方バスはデリーに着いた。何時間経ったのか。あるいは数日経ったのかもしれない。まったく覚えていない。

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島影は見えず

人前でしゃべることが不得手だ。
2年前に立教大学で行われた「21世紀の幸福のかたち」というタイトルで催されたシンポジウムになぜか招かれ、大手企業のCSR担当とか著名な文化人が名を連ねる中、一介のライターが参加したわけで、数百人の聴衆からすれば「誰やねん」って感じだったろう。

完全にアウェイの状況で15分のスピーチとパネルディスカッションに参加することになったのだが、しかもヘーゲル研究で知られる長谷川宏先生の後に話さなくてはならなくなった。
さまざまなプレッシャーから結局のところ、用意した原稿を顔を伏せて読み上げるだけに終始してしまった。

そんな苦い記憶があるだけに、ワークショップ「生きるための文=体」の行われた14日は捲土重来と心を決め、起床とともに、心中にはZ旗が翩翻と翻った。「各員一層奮励努力セヨ」という構えで臨んだわけだ。

以前なら話すべき内容の一字一句を記憶し、それを諳んじるように進めたろうけれど、今回はそういうことは一切しまいと考え、いままさに起こりつつある事柄に身を投げ出そうと考えた。そのため流れだけをメモしたものを手元においてスタートした。

だがしかし、漕ぎ出した船は数分後には不穏な動きをはじめ、10分過ぎた辺りの話がまだ沖合に出たばかりの頃に、完全に方角を見失った模様で、風は凪いでしまい、島影も見当たらない状態となった。水夫も火夫もみあたらない。

「もういっそ入水しようか」と思う瞬間がいくども訪れた。このまま行くと、曙のようになるなと思いもした。

「完膚なきまでに」を文字通り体現した見事な大の字

でも、どこかで「切羽詰まった状況って嘘がつけないもんだな」とおもしろくも感じる自分も確かにいた。

普段の暮らしなら、自分にとって都合のいい理由を並べ立てたり、他人任せにして自分を客観の立場に追いやることもできるけれど、他ならぬ自分が自分から離れることのできない瞬間の訪れにおいては、自分のありのままが問われ、その場でできること以上にできることはないという端的な事実を否応なく突きつけられる。

自分のありようというものがただ問われる。そういう瞬間に立ち会えたことはすごく幸せなことだった。

漂流中。

僕のワークショップは、受けたからといって文章が書けるようになるとか、そういう類のものではなく、「文章を書くという行為とは何か?」「それを通じて何が見えてくるのか?」を眼目にしているけれど、一方的に何かを教えるという性質ではなく、むしろ自分には何が見えているのか?が問われてくる時間だなと思わされた。

終わった後、左脳の部位だけが痛むというこれまで経験したことのない頭痛を覚えた。

苦しかったけれどおもしろかった。
これを糧に次回はもっと苦しくおもしろい時間にしたい。

お越しいただいた皆さん、ありがとうございました。来月25日に2回目を行うのでまたご参加ください。

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招かれざる観光客

シュリナガルはインド最北部に広がるカシミール地方の州都にあたり、美しい湖水を山々が取り囲む風光明媚な地だ。

州の中で最も大きな街は、イスラム教徒が多数を占めている。地勢と宗教の事由からパキスタンとインドが領有を主張し、たびたび紛争が起きている。そんな地だ。

そういった事実を91年当時の僕は皆目わかっておらず、暢気にシュリナガル空港に降り立った。

ただ税関を通過するあたりから「なんかへんだなぁ」と感じていたのは、あまりにも職員がウェルカムな姿勢ではなかったからだが、どだいインドに来てからというものの、虎視眈々と商機を狙う媚態微笑はあっても、ホスピタリティ溢れる笑顔に迎えられたこともなく、「これがインド基準なんだろう」と、自分の内に湧いた違和感を努めて流すようにしていた。

そう、インドに来て僕は他人の顔色をうかがうことの無駄さを知り、また「近代自我というものはフィクションではないか?」の思いを強く抱くようになった。互いの心の生み出す軋轢や内面の葛藤など幻じゃないかと思うようになった。

たとえばだ。

インドでは列車に乗る際に誰も順番を守りはしない。それは別に良いのだが、乗り降りが同時に行われるので、そこかしこで諍いが毎度のように始まる。だったらルールを定めれば、衝突はなくなりそうなものだが、そうはならないようだ。そこには関心が向かないようなのだ。

日が経つにつれ、そうした光景をただ見て「なぜだろう」と傍観しているだけでなく、自分も列車の乗り降りの只中に身を置くようになると、我勝ちの剥き出しさ加減を抑制する術が、よほど特殊な技であるかのように思えてきた。そうなると、他人の振る舞いにいちいち葛藤を覚えなくなる。

自分の期待に応えない人物の登場に「なぜあの人はあんな行動をとるのだろう」というような、心中が違和感で彩られた内語で埋め尽くされるような機会がどんどん減ってき、自我に根をはった懊悩なんかつくりものめいて見えてきた。

そう思えるようになってきたあるとき、いつものように乗客と降客とが、狭い通路で海流が入り混じるように激しくぶつかり合いながら行き交っている最中、薄汚れたアルミの鉢を片手に、細い杖をついた盲人がやって来た。

彼は薄いサンダルで床のゴミを踏みつつ、これから降りようとする僕のいるほうに向けて歩いてきた。

列車の床はゴミが散乱というより充満している。
駅ごとにチャイを盆に抱えた売り子が日本語にすれば、さしずめ「チャイはいらんかね」といった口上を述べ、売りに来るのだが、窓越しに求めた客はチャイを飲み干すと、素焼きの土器を窓から外へ投じるか。もしくは床に捨てる。

したがって床は土器の破片をはじめ、ピーナッツのような果実の殻、食べこぼしたものなどで覆われていく。

盲人を見、僕は物乞いかと思った。乞食は別段珍しくない。
だが彼は何か歌うように、唱えるように、そう、高吟とはこういうことかと思わされる抑揚のついた言葉を歩きつつ紡ぎ出していた。吟遊詩人だろうと見当した。

彼は詩を諳んじながら左手の鉢を左右にいる人たちに差し伸べていた。

だが、吟遊詩人がいるのは乗降客でごった返す波の中だ。彼を取り巻く老若男女は盲人の遅々とした歩みに、あからさまに苛立った表情を見せるでもなく突き飛ばし、突っ慳貪な態度を隠すことが一切なかった。彼はうめき声ひとつあげない。

だが、肘鉄砲を食らわした後で、人々はルピー硬貨を彼の鉢にねじ込むのだ。

その光景を見たとき理解に苦しんだ。邪険に扱った代償として金を渡しているのか。それともこれは布施なのか。

「弱者に優しく接する」という文言からイメージされるに相応しい、優しく接するっぽさなど微塵もないが、彼らが生きていく権利。それは明文化など必要としないような、「生き物としてここに生きてある」という事実を決して無視してはいなかった。
「安っぽいヒューマニズムに回収されない強靭な何かが横たわっている」という文句に回収することそのものが安っぽいように思えた。

盲人は相変わらず混雑した車中を抜けるとタラップを降り雑踏に消えていった。
混雑するプラットフォームの隅には、駅に住んでいる家族が何組かあり、チャパティだろうか。生地を練りつつ、煮炊きに忙しそうだった。

レールの上には牛がおり、糞がそこかしこにあった。

プラットフォームを家族と歩いていた老婆はひとり離れ、端におもむろに座るとサリーをまくりあげ、放尿をはじめ、そのまん前を駅員が線路の点検のためか過ぎていたが一瞥をくれることもなかった。

峻険なまでの個の屹立と呼ぶべきか。インド社会の個人と個人のつながり具合がどのようなものなのかさっぱりわからなかったが、結局のところ、目前の景色の意味を探ろうとしても、その持ちだす基準が日本で培ってきた価値観。

つまりは日本という国で育んできた文化的慣習という名の癖からの見地である以上、その意味を探ることは無意味だと次第に知れ、以来、僕は考えることを止めた。

すると、人間と牛と犬と羊の区別がつかなくなってきた。野良牛に野良羊、野良犬、野良人がそこにいた。

話を戻すと次第次第にそのような感覚を覚えてきたところでのシュリナガルでの無愛想な加減に、疑心をさほど抱くこともなくなっていた。

だが、空港で感じた違和は外れてはいなかった。湖水に浮かぶハウスボートのホテルの部屋に荷物を投げ込み、街に出たものの観光地でありながら、あまりに閑散としていた。訝しく思っていたところ、住人が例によって「ハロー、ジャパニー」と話しかけてきた。そこでわかったのは、どうやら外国人の入境規制が敷かれていたらしく、本来ならば僕は入れなかった模様なのだ。どうりで自分以外の観光客を空港でほとんど目にしなかったはずだ。

僕がシュリナガルに入ったのは日曜日。一昨日の金曜、モスクが駐留するインド軍によって焼かれた。ガイドを駆って出た住人は僕をモスクに連れて行ってくれた。

インド軍は独立を目指すゲリラを掃討する目的かはたまたムスリムへの見せしめのためか。礼拝の行われる曜日にモスクを焼いた。
ところどころ黒煙で煤けたモスクを前にガイド氏は、この地方の住む者の憂いについてひとしきり語った。

インド社会のあまり語られない事柄について知って欲しいと熱弁した後で、「ほら」とばかりに手を差し出した。レクチャーにへの対価を求めることを忘れてはいなかった。