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雀鬼との再会

雀鬼こと桜井章一さんを知ったのは、いまから10年ほど前だ。
政治家や企業の社長に代わって大金の掛かった勝負を行う代打ち、ようは裏の麻雀だが、その世界で20年間無敗だった人だ。

ひょんなことから縁がつながり、『「育てない」から上手くいく』という本のお手伝いをした。
はじめて取材したとき、インタビュー中に発熱し、膝が震え出した。帰りの電車に乗る頃には、高熱が出た。でも不快ではなかった。
熱源は桜井さんだったと思う。それくらい圧倒的に密度の濃い人だった。

桜井さんはたくさんの本を出しているが、本作はあまり言及してこなかった子育てに関するもので、取材の中で僕はいったい成長や成熟するとはどういうことなのか?を考えさせられた。

成長することは、何かが「できるようになる」ことだ、と思われている。

赤ん坊が笑えば、親も周囲も喜ぶ。這えば「よくできたね」と褒め、立てば「すごいね」と褒める。
初めのうちは、生まれたての生命が存在していることに喜びを感じ、彼や彼女が「何かができる」よりも、ただ生きている表現をその子なりにすることに、思わず祝福したくなって「よくできたね」と褒めるのだと思う。

それは赤ん坊を評価するというのではなく、「まっさらの生命がここにこうしてある。生きていてくれてありがたいな」という感覚がどうしようもなく身の内から溢れてしまったから出てくる表現なんじゃないかと思う。
子どももいない僕が言うのもなんだが。ただ、23歳違いの弟が生まれたときや知り合いの赤ん坊に接してそう感じた。

けれども、いつしか存在しているよりも、「できること」を彼や彼女に求め始める。
「はやく靴を履きなさい!」「こんなこともできないの?」「なんど言ったらわかるの?」と、「できないこと」を日々数え上げられる。できないことは、「いけないこと」だと身体に刻みつけられる。社会の中で要請されることをできないことが、あたかも人間性の問題かのように扱われ、その考えがいつしかしっかりと根を這っていく。

桜井さんいわく、そうしたメッセージが子どもに不安を、そして恐怖を与えるのだという。

「できることばかり注目されているけれど、本当にそれが良いことなのかい?できることを評価されて、それで世の中でトップの位置についたとして、現にそういう人たちを見なよ。無責任で人を人とも思わない奴らばかりじゃないか。そういうことができるってんなら、俺は“できない”ってことを大事にしたい」。そういうことを話された。

とても個人的な経験で、どれほど妥当するかわからない。ただこれまで数多くの人にインタビューしてきた中で、いわゆる「できる人」、社会的ポジションの高い人に会ってきた。

そういう層には、たしかに切れ者はいるけれど、存在自体で魅力を放っている人はあまりいない。
思考のエッジの利き方に関心はする。だが、だからこそ、その直線的で奥行きのなさに訝しい思いをする。その人の目に映じていない事柄の多さに驚くからだ。

さらに特徴を言えば、特に政治家に多いが、首や腰の回旋がままならない人。骨盤が硬くなっているせいか、座ると足が開いてしまう人。生き物のしなやかさが感じられない人が多かった。

できることの怖さは、できないことを恐怖し、その恐怖がよりできない他者を罰するほうに向かうことだ。
自分の怯えに向きあうことをごまかすとき、他人は恐怖の対象になる。守りの姿勢が常態となれば、当然のように身体も硬くなる。

昨夜久方ぶりに桜井さんにお会いした。
「ライターをつけることができないんだ。これ点けてみなよ」。そう言って、ライターを手渡された。

子どもの誤用を防ぐため、最近のライターは着火ボタンが非常に硬くなっている。点けようとすれば、かなり親指に力を入れないといけない。不自然なまでに。

桜井さんはそのライターが点けられない。親指に不自然な力を入れることがどうしてもできないからだ。

牌をもつ際に「手でもってはいけない。もったら次の動きができない。変化を殺す」という感性からすれば、ライターを点けるには、ごまかして、部分の力に頼って「できるようになる」努力が必要になる。

だからといって、点けられないことが正解ではない。
どこまで自分をごまかさず、自分に努めることができるか。またしても、そう問われたと感じた一夜だった。

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名前の理由-その3

大学生になって、僕は初めて女性と付き合った。これまで交際した中で唯一の在日コリアンだ。
兄にずっと言われていた「どうせおまえみたいなブサイクな男は見合いでもせな、女の子と付き合われへんやろな」という呪いの言葉を払拭することができたわけで、これは人生を画する一大事件だった。ラオウよろしく天に拳を突きあげたいくらい。

彼女はコリアンの密集地である生野区の猪飼野と称される地に住んでいた。最寄りは鶴橋駅だった。
初めて街に足を踏み入れたとき、カルチャーショックを受けた。

アホ丸出しのことを言うが、僕は街というのは自分の住んでいるようなそれが標準的、つまりは日本全国津々浦々に見られる光景なんだろうと、なぜか疑うこともなく思っていた。
たとえばメインストリートはアスファルトではなく敷石であるとか。後年、東京に来て代官山に来たとき、まるで違和感がなかった。つまり、それだけ世間知らずだったのだ。

いまでは生野界隈はコリアンタウンなどと言われ、テレビや雑誌で取り上げられる際は、済ました顔をしているし、ここに店を構えたお好み焼きの風月なども、おしゃれな風味で全国に店舗展開している。

だがしかし、駅頭に立った僕の鼻を襲ったのはニンニク臭であり、それはコリアンタウンといった横文字の催す語感から甚だ遠い、隠し立てしようもないくらいに剥き出された朝鮮人街であった。

1980年代末葉、デオドラントグッズも商品化され始め、生活の中から立ち上がる匂いが臭みとして忌避されるようになった時節に同調して生きてきた僕にとっても、猪飼野の街の佇まいは異様に感じられた。

路地を行くと旋盤の立てる音と熱を帯びた鉄の発する臭い、工場の排水と生活臭とが煮詰まったような匂いを放つ川に張り付くのは、トタン屋根の長屋だった。

そのときの僕の街の印象を正直に言えば、「ゲットーじゃん!」であった。(住民のみなさんごめんなさい)

彼女は細民街の外れに住むお大尽の娘だった。
彼女は街の子たちとは街の言葉を話し、それにふさわしいくだけた態度をしたが、僕と話すときとは色合いが異なった。僕はそれをおもしろいと感じた。

街の言葉は大阪弁というベースに何かスラングめいた、符牒めいた言葉をまぎれさせているような、そんな膨らみを感じた。
それは日本人がタンベ(煙草)、パチキ(頭突き)といった朝鮮語を知らず取り込んでしまったような、そんな言葉の操られ方にも似ていた。

彼女の家の表札は日本名で、彼女自身も家庭の中では日本名で呼ばれていた。
しかし、街の子たちは、彼女を韓国名で呼んだ。(そう、仮に彼女の名を美樹とすれば、家ではミキ、街ではミスといったふうに)

僕らは互いに韓国名で呼び合った。さりげなく、ぎこちなく。

僕の性分なんだろうが、恋人に限らず、例外をのぞき、友人についても名を呼び捨てにできない。
とりわけ恋人には決まって「◯◯さん」という。そのままの名を呼ぶことに座りを悪く感じてしまうためだが、彼女に限ってなぜ名を呼ぶことができたのか。ぎこちなさを消すための距離の取り方だったのだろうと思う。

地域の公立小学校では土曜日の放課後、在日コリアン児童を中心に「民族学級」が設けられていた。言葉や歌舞音曲を通じ、コリアンとしての自覚を促そうというもので、彼女はそこでボランティア講師をしていた。

民族的な自覚なぞ、とんと持ち合わせない僕だったが、彼女に誘われて講師をすることになった。といっても、子どもたちの遊び相手をするだけのものだったが。

民族学級には、日本人の児童も参加していた。彼らは普通の学校生活では、あまり勉強ができないという評価をされていたのだが、なぜか韓国語を覚えるのに熱心だったり、農楽の練習にも積極的だった。
何かというとまとわりついてくるのだが、そうして触れ合って遊んでいるうち、ふと「家に帰っても誰もいない」と問わず語りのものいいに出くわし、民族学級という場がいろんな子どもたちの受け皿になっているのだなと思ったものだ。

土曜日の放課後、その教室にいるあいだは、普段の学校生活で日本名を名乗っている子も韓国名を名乗ることになっている。そういうきまりがあった。

あるとき、子どもらがふざけあい、「やめろよ、平山」「呉本のほうが悪いんやろ」といった具合に、つい普段の交友関係そのままにしゃべり出した。
ベテランの講師は「情けない」といった面持ちをしつつ叱った。「ここの場と時間はそういうためにあるんではない」と。

その日のミーティングで、僕はベテラン講師にそれについての違和感を伝えた。

子どもたちのリアリティは金でも呉でもなく、平山なり呉本なりに宿っている。なぜそれを頭ごなしに否定するのかと。
そういう否定の仕方が正当ならば、彼らが平山なり呉本として肌や耳や目で感じ、総身で培っている感性は本来のものではなく、是正の対象でしかないのか。

「せめて民族学級の時間は、日本名ではなく、本来の名を名乗らせてあげたい」と、その講師は言った。

詰問するつもりもなかったので、彼の弁を聞いて、僕はそれ以上言わなかったのだが、「名乗らせてあげたい」という思いは、どれほど子どもらの機微、心の襞に寄り添っているのか。

自覚は導かれるものであって強いることはできない。ましてそれに正解があるわけでもない。

子どもたちは年に一度、小学校内で歌や踊りのお披露目をする。
普段の付き合いとは異なる姿を同級生の前であきらかにすることに、彼ら彼女らは高揚とそして、かすかな怖れを抱いているようだった。
その振幅の中で、擦過傷をいたるところで負っていくだろう。

人は痛めつけられ過ぎると、本当にダメになってしまう。仕立てられた自尊心のために取り返しのつかない傷を負うのは愚の骨頂だ。

「膝を屈して生きるくらいなら立って死ね」と酔いに任せて放言した先輩がいた。その人は卒業後、就職活動にあたって日本名で通した。
後年、僕は本当に就職差別というものがあるのかどうか試してみないとわからないと思い、本名でエントリーした。

彼が膝を屈したとは思わない。僕が志操堅固であったわけでもない。

本来の名を名乗らないとは、誇りがないからとは限らない。
引かずとどまらず生きていく上で、仮初の名を掲げることもまた生きる智恵にほかならない。

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日帰りツアーで刮目したこと

先日、旅行会社の企画した日帰りツアーに行ってきました。

なんでも「りんごと梨もぎ取り食べ放題&約2kg入る箱に詰めて土産に持ち帰れる」上に「キャベツ・サツマイモ・人参・ナスなど高原野菜を詰め放題」。
さらに地元の肉屋の直営店で牛・豚・さくら肉のしゃぶしゃぶ食べ放題だという。しめて約8000円。

こういうツアーに参加したことがないので、行楽のシーズンだし、ものは試しでポチッと予約ボタンを押したわけです。
 行きのバスはノリノリでした。3時間あまりバスに揺られてりんご園に到着。
バスから降りるや、わーいわーいってなもんで、りんご園に乗り込み、ひとつふたつともぎ始める。その時点の僕は、りんご園で採った果実を詰めて持って帰れるとてっきり思っていた。

だから、40人あまりの団体客の背後で農園主が「ひとつずつ採ってください。食べ切れないから」と制するようなことを言うのをさほど疑問に思うことなく、聞き流していたわけです。

みっつくらい採り、ふたつほど食べた時点で、農園主から梨も出されたので、それも食べてみようと、手元に残ったりんごをリュックに入れようとしたとき、農園主が近づき、「ダメダメダメ。そういうことされたんじゃダメだ」という。

はて?と思い、「これ、詰めて持って帰っていいんですよね?」というと、彼はそれに答えず、りんごを僕から取り上げた。

どうやら詰め放題は、ここではなく別の場所で行うらしい。
つまり、採ったりんごはここで食べ切るというシステムだということを、僕は理解していなかったのだ。

そこで農園主に「じゃあ、それもここで食べますよ」と言ったら、彼は「いや、そういうことするならもういい」と手を振って拒絶した。

それからの僕はさきほどまでのウキウキもどこへやらで、ズーンと落ち込んでしまった。

その後、駐車場前のひなびたマーケットでどうがんばってもりんごが4、5個しか入らない箱を渡された。あらかじめ揃えられた虫食いのあるりんごや梨を「詰め放題」できるという趣向なのだった。

なるほど。団体客を迎えた農園主が当初から腕組みをしつつ、なんとなく監視するような顔つきで、まったくウェルカムな感じではなかった様子に合点が行った。あそこのりんごは価値が高いので、あまり食べて欲しくないものだったのだな。

歓迎されてはいない存在としてハナから見られている内容がツアーの道行きだということに、「なんかもう帰りたい。布団にくるまりたい」と思うくらい気分が落ちた。

昼食はパーキングエリアに隣接した食堂に、さまざまな団体客が詰め放題にされる中、食べ放題のうたい文句の肉を鍋に入れるや、たちまちにして大量のアクが出放題の肉の鮮度具合に、板尾創路よろしく「ナンセンスなんじゃい!」と言い、テーブルをひっくり返したくなったが、そうするのも大人気ない。

早々に食事を切り上げ、駐車場前に設えられた屋台の珈琲ショップで珈琲とアイスパフェを注文した。

心中、渦巻くのは「何なのだろう、このやり口」だった。

昔、伊豆や熱海に家族で旅行に出かけた際の、ホテルや観光施設の食事や対応に感じた「適当にあてがっておけばいい」というサービスにそっくりだった。

前世紀では、そういう観光地のホテルでは食事中にハワイアンショーが行われたり、やたらでかい浴場に魚の泳ぐ水槽なんかが据え付けられていて、まったく意味不明なことが多かった。
どこかに出かけてお金を使うこと自体がイベントとして成り立っていた時代ならではの「ぞんざいさ」を物語る風物詩として過去のものだと思っていたら、南信州にありましたよ。

各地の観光地の寂れには、こういった商法をしていた店が淘汰されたことも含むだろう。
そういう意味では、この日帰りツアーの因業さは、昭和の頃とまったく変わらない商法をそのまま流用することで、旅行会社のビジネスモデルのひとつとして仕立てていることであり、そのことに気持ちが沈んだ。

「どうせ詰め放題とか下品な文句に釣られてんだろ?文句言うなや」と言外の蔑みを、客と旅行代理店、農園だのレストランだのとのあいだに挟んで企画が成り立っているんだと知れた。(だから、野菜詰め放題スポットにいたっては、あらかじめビニールにでかいキャベツが入れられていて、「決してそれを出さないように」人参や玉葱を詰めろと言われても驚かなくなっていた)

陰鬱な気持ちになる中、珈琲を啜ると「あれ?」と思うくらい美味い。パフェに入っているりんごジャムは手製らしく、底に敷かれたコーンフレークもシスコーンやケロッグではなく、歯ごたえがあって美味い。
誰目線かわからないけれど、「ちょっと君、東京で店をやってみない?」って言いたくなるくらいレベルが高かった。珈琲とパフェに気持ちを救われた。

さて、ツアーはといえば、謳い文句と落差ある内容をなるべく考えさせないようにするためか、やれパワースポットのある寺だなんだと連れまわした締めとして中途1時間ばかり立ち寄った温泉で湯を浴びることになった。何を供応したいのかわからない施設だなと思ったら、案の定、第三セクターだった。

帰りの車中、僕は自分の落ち込んだ理由は、コミュニケーションが誰ともまるで行われていないことにあると気づいた。
最初の農園主は、最初から僕らを招かれざる客と思っていた。

僕のように誤解してりんごを採る人の多さにうんざりしてそうなったのかもしれない。
「フルーツ狩り・詰め放題」のコピーを額面通り受けったことによる行動だったが、僕はそれを旅行会社の説明不足に求めない。

ただ、コミュニケーションはそのつど訂正すれば、新たな局面が切り開かれていくはずだが、そこを彼は「いや、そういうことするならいい」と会話を断ち切った。

ツアーの何もかもがディスコミュニケーションに貫かれていた。それがパッケージツアーというものであって、その枠の外に出ることはあらかじめ個々の客には期待されていないのかもしれない。

でも、僕はあのときコミュニケーションを諦めるべきではなかった。
「いや、そういうことするならいい」の農園主の後に「なぜです?僕は誤解していたかもしれませんが、ツアーではこの農園ではいくら食べてもいいとされています。それをなぜあなたは阻止するのですか?」と。

「客としての当然の権利」とか、そんな大上段の物言いではない。齟齬があったら訂正すればいい。そのために言葉があるんじゃないか。当たり前のことを試みるべきだった。
だってあんなにダサい環境の中で美味しい珈琲やパフェをつくる人がいて、彼らだって諦めてないんだ。

コミュニケーションを諦めちゃダメだ。
そのことに気付かされたお代が8000円だとしたら、それはそれで安いものかもしれないなと思った。
でも、「行ったほうがいいよ」と決して勧めないけど。

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名前の理由-その2

「どっか見学に行った?」と入学早々のキャンパスでは、おもしろそうなクラブやサークルに関する話が友だちのあいだで交わされる。

いまはどうか知らないが、当時はテニスをしないチャラいテニスサークルが乱立しており、いろんなところから入会に誘われる中、僕がまっさきに体験入部したのは、体育会の合気道部だった。
開祖・植芝盛平のような動きが再現できるカリキュラムがきっとあるんだろうと思っていたのだ。

精妙な術理を極める武術というのは、「できねば無意味」という一点において、弟子が師を否定することもある。
実力がものをいう世界であり、本来ならば体育会のノリだけで当座をしのぐことに血道をあげるやり口と真っ向から反対の、クリエイティブな行為に溢れているはずだ。

しかし、私が体験入部した大学の合気道部は、「武とは何か?」について研鑽する機会もなく、求められたのは先輩が来る前に廊下に案山子よろしくずらりと並び、上級者が通るたびに「押忍」とか「おつかれさまです」と言わなきゃならない、合気の技とまったく関係ない行事に通じることだった。

練習になるとひどさはレベルアップし、空気を読んで技にかからないといけない、かかったフリをしないと先輩後輩の関係が成立しないという、心技体を練る稽古から一億光年は離れている内容に、これまたバカバカしさを覚え、一週間もしないうちに行くのを止してしまった。

代わって、よほどの格闘技通しか知らないであろう全日本体術連盟のサークルに入った。(マニアしか知らないことを前提にさらに書けば、北斗旗の試合で黒の道着で両手ぶらりのノーガードでくねくね動いてはバックハンドでKOを決めていた選手のいた組織です)

脱力から瞬間的に緊張することで打撃力を高めるといった、いまなら自分の体感とまったく相容れない理屈をもとにした格闘技だが、筋トレや走り込みをせず、短時間で相手を仕留めることを心がけているところが性に合った。意味のない根性とか努力、忍耐が大嫌いなんです。

体術を始めて早々、「東京で試合があるから出てみないか」と言われ、「何事も経験だ」と遠征したものの、会場に着いてはじめて自衛隊との交流試合だと聞かされ、少年工科学校と防衛大学のごつい学生にボコボコにされた。
わざわざ殴られるためだけの1泊2日の旅路で得た感慨と言えば、「自衛隊ってやっぱスゲェな」というアホみたいなものだった。

さて、その後の学園生活は、日本拳法部に出稽古に行き、顎の肉の一部がえぐられるという経験をしたり、ボクシングジムに通い始めるなど、格闘技バカまっしぐらとなるのだが、その一方で僕は先述の朝鮮文化研究会に行くようになった。

朝鮮文化研究会の先輩に初めて会った時、彼らはサークルの趣旨として「在日コリアンとしての自覚を促す」云々と言っていたけれど、その後、部室に遊びに行っても、前口上通りの有意義な話など一切聞いたことがなく、ハマショーとかB’zとか趣味の悪い曲のかかる中、缶コーヒーやチキンカツ定食を賭けてチンチロリンに興じるという、およそ民族心の自覚と発露にほど遠い光景が連日繰り広げられていた。

でも、僕にすればこれまで、いわゆる「同胞」と呼ばれる在日コリアンと密に接触したことがなく、こうして目の前にいて、他愛のない話で「ふへへ」とだらしなく笑っている場に居合わせることは、約60万人いるとされた在日コリアンの数字や統計だけではわからない、息遣いに触れる体験であり、それは存外悪くなかった。

友人たちに「最近どこかのサークルに行った?」と尋ねられると、「朝鮮文化研究会だよ」というようになったが、決まって「なんで?」と聞かれるようになる。
それもそのはず、いまみたいにカフェや電車の中でたまたまそばに座った人が東方神起について熱く語る光景に出くわすなど、想像もつかなかった時代だ。

朝鮮半島に興味をもつ人は、根本敬か学術関係者のようなマニアであり、「中村」といった、きわめて日本人っぽい名をした人物が朝鮮文化研究会といった、そもチョーセンという語感からして、スレスレな感じのサークルに顔を出すとは、“?”以外のなにものでもなかったのだろう。

そこでかつてダウンタウンの「ごっつええ感じ」のコント「トムとマイク」みたいな会話が繰り広げられる。「オレ、ほんまは日本人ちゃうねん」と。

なぜ?と尋ねられるたびに「実は〜」と答えることが面倒になり、僕は学籍の登録名を中村から尹に変えることにした。

民族心の発揚という立派な名目からではなく、「面倒臭い」という身も蓋もない理由から、あっさり名を変えた。

そのことに抵抗はほとんどなかったものの、他の在日コリアンにとって必ずしも容易なことではないことが、他大学の朝鮮文化研究会に顔を出している学生らと話をするうちにわかるようになった。

彼ら彼女らにとり本名を名乗るとは、賤視を引き受けることと同じであり、それはなにほどか覚悟を必要とするものだった。本名を名乗れない心の内を涙ながらに語る子もいた。

ある子は「名前を名乗れない雰囲気がある」と嘆き、周囲も彼女に同情を寄せていた。

旧植民地の流民の子だ。だからといって、この地上に差別されるために生まれたわけではない。
貶めにかかる眼差しをわざわざ真に受けて、ビクビク生きる必要などなく、誇りをもって強く生きていかなくてはならない。

ひとくさりそんな話がされた後での「雰囲気」発言に、僕は鼻白んだ。

挫かれた誇りを取り返すために、現実とやらが強いる価値を跳ね返す思想が意味をもつこともあるだろう。
でも、それはお経よろしく唱えれば効力を都合よく発揮してくれるものではない、護符みたいに貼っておけばいいものでもない。

身体張って体現しなければ意味がない。雰囲気程度、自分の身体で突破してみせなくては、現実は何も動きはしないだろう。

どだい、僕は誇りというやつを軽々に口にする徒輩が苦手だ。コレクターアイテムじゃないなんだから、誇りなんて「もとう」と思ってもつものでもなければ、「私は◯◯人であることを誇りに思う」などと自己申告する類のものでもない。

まして、誇りをもてる条件を数え上げて、「〜を知っているから」「〜をしているから」といった、根拠ならぬ言い訳によって支えられるようなヤワなものでもないはずだ。

たぶん誇りは、他人がある人の佇まいや行為にうっかり見出すもので、当人が手を挙げて「私、もってます」みたいに言えるものとしては存在しない。

侮りや蔑みに対し、おもねらず、卑屈にならず、一歩も退かず、かといって相手と角逐するためだけに自分を費やさない。
そこが問われるときに、そうあれる自分であったとき、他人はその人に誇りを発見するかもしれない。

身体を張らなきゃいけない局面で「できねば無意味」なのが、誇りが指し示そうとしていることなんだと思う。
そんなたいそうな思いで本名を名乗ったわけではないけれど、後年、いろいろと試されることにはなった。

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かかとのお手入れ

最近はあまり行かなくなったけれど、コスメや化粧品のコーナーをいろいろ見るのがけっこう好きで、以前は友だちの買物についていっては、新製品のラインナップをしげしげと手にとったりしていたものです。

僕がだいたい関心を払っていたのは、肌のしみ対策とフットケアで、それらがここ数年来の課題なわけです。

血眼になってアンチエイジングを目指しているわけではないにせよ、やっぱり肌の衰えは気になりますよね。
岡村靖幸の「ぶーしゃかLOOP」を見た時、復活にうれしく思う反面、頬のラインが下がっていることに「んー」と思ったのです。
“青春ってワンツースリージャンプ!”の岡村ちゃんのそんな姿をあんまり見たくないじゃないですか。

まぁ、うまい年の取り方なんて、そんな都合のいいものはないと思いつつも、永作博美や平子理沙なんか見ていると、やれんじゃないのか?と思ったりするわけです。なんのライバル心なのか。

話を戻すと肌についでの、かかとの問題です。
以前なら冬に荒れることはあっても夏は問題なかったのに、サンダルを常用するせいか、困ったことに夏もかかとがガサガサになりだしたんです。

ボディショップのペパーミントスクラブじゃどうも対応できなくなったので、風呂入るついでにヤスリでガシガシ削ると、たしかに滑らかになりはしても、一週間もすると靴下を履く際にひっかかりを感じるようになる。
なんとかならんものかと思っていたわけです。

そんな折、フットケア界隈でよく耳にしたのは、ベビーフットのすぐれものぶりの噂で、それにしようかと思いつ、今回、実際に手に取ったのはカイカイナイトという木酢液でした。

「森林研究所」という一本気さを物語るような社名にまずそそられ、ついで小林製薬のセンスにも通じる「カイカイナイト」という命名にやられました。
もとは水虫用に開発されたそうですが、口コミでフットケアにも良いということが知られているようですね。

この「カイカイナイト」のパッケージ。レトロというにはあまりに野暮というか、田舎でときおり見かける金鳥の古い看板にも似た雰囲気で、中身も専用靴下と輪ゴム、ビニール袋、樹液という素朴さで奇を衒ったところがひとつもありません。

靴下を履いた足をビニール袋に入れ、樹液を注ぐこと90分。
樹液を臭いと感じる人もいるようですが、僕にとっては、むしろ食欲をそそられるスモーキーな香りでワインなぞ飲みたくなるものでした。

90分経って足を出すと、秋田名物「いぶりがっこ」よろしく見事に茶色に足が変色しておりました。

カイカイナイトに浸してから一週間。
経過報告に写真もアップしようかと思いましたが、足裏の剥離しかけの皮膚がちょっと鱗みたいで、グロ映像っぽいので止すことにします。
が、皮膚の剥がれた後にピンク色の足裏がところどころ顔をのぞかせているので、効果のほどが楽しみです。