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自叙帖 100%コークス

名前の理由-その1

小中高の同窓会に招かれたこともないし、招かれたところで「誰だっけ?」と言われるのがオチの、級友にとってきわめて印象薄い僕だが、もしも「おー、ひさしぶり」などと話がはずむことが万一あるとしたら、その人はきっと「ナカムラ」と呼びかけるだろう。

そう、僕は大学に入るまでナカムラ・タケヒロ(中村雄大)という名で暮らしていた。
(ちなみに父も母も“タケヒロ”と呼んでいた)。

「中村」というのは、いわゆる通名というやつで、金田や張本ならまだしも、こんなあたりさわりのない名前だと韓国人だと知られようもない。
創氏改名にあたっての役所の担当者が中村さんだったからそうなったという噂を聞いたことがあるが、まあ事実かどうかわからない。

名前を中村から尹にしたのは、大学に入学してからのことなのだが、それについて話す前にひとくさり。

僕が大学に入学したのは1989年4月のことで、専攻は哲学科だった。東洋哲学を学びたいと思ったのだ。
バブル経済に世の中が浮かれまくっていた頃、巷ではネクラ(根暗)やネアカ(根明)という言葉が流行っていた。
そんな時節においては哲学なんぞ学ぼうなどネクラの最たるものだった。

おまけに高校の教師には「就職先なんてないぞ」と言われたけれど、グローバリゼーションを迎えたいまと違い、どだい在日コリアンが日本の企業において就職するのは、よほどの高学歴でもない限り難しく、哲学を学ぼうが学ぶまいが関係なかった。

ネクラな上に将来も暗い。
それでもなお哲学を選んだのはなぜかというと、バブル経済が本格的に始まる前の86年あたりから突入した第一次思春期のせいだった。

万年思春期という話もあるが、第一次においては、盗んだバイクで走りだすことも、校舎の窓を壊すこともなかったものの、自分の生まれ育った環境というものにどうも馴染めないというか、サイズの合わない服を着ているような感覚が拭い難いまでに増してきた。

己の実力で獲得したわけではない経済力によって、よい暮らしをしていることに幼少より身の丈の合わなさを感じていたものの、その一方で富を十分利用した生活を堪能し、驕る気持ちも厳然としてあり、そのさもしい性根のシナジー効果に内心辟易としていた。

そこに居直って、「一期は夢よ ただ狂へ」コースでもよかったんだろうけれど、『史記』や『平家物語』を読んだ身に明らかだったのは、栄耀栄華というもののあまりの短さで、狂の一字に酔うには、頭でっかちでありすぎて、開き直りもそこからの逸脱もできなかった。

この身の不全感を精神によって克服すべく、ひところ仏教関係の書に入れ込んだ。
中でも禅に興味をそそられ、「将来は禅の坊主にでもなるか」と思い始め、いろいろと本を読んだり、良い師はいないものかと探してみたのだが、グルと呼べる人はどうにも見つからない。

そうこうするうちに王陽明の「伝習録」を読む機会を得て、なおかつ陽明学の左派がどうも禅に近いと知り、しょうがないから大学にでも行って勉強するかとなった。

関西で哲学を学ぼうと思うなら、結局のところ京大へ行くしかないのだが、そんな頭も持ち合わせていなかったので、キャンパスの綺麗さだけが売りの、関西学院という大学に入ることにした。

大学に入学してまもなく、大学の事務に呼び出された。
なんでも在日コリアン系のふたつのサークルが「君に連絡を求めている」というのだ。

ふたつのサークルとは、韓国文化研究会と朝鮮文化研究会で、それぞれ母体が韓学同(在日韓国学生同盟)、留学同(在日本朝鮮留学生同盟)という。

最近、日本にやって来たニューカマーと違い、いわゆるオールドカマーである在日コリアンで本名を名乗る人は少ない。
韓国に関するものが「韓流」などという文言でコマーシャリズムに乗って、日本の市場で競争力をもつなど想定できなかった時代のことだ。この土地で生きるには、出自を隠すことがサイバルの上でのひとつの智恵であった。

必然的に民族名を名乗る学生もまた少ない。
コリアンとしての自覚を得られないまま過ごすことの多い学生に、アイデンティティについて肯定的に捉える機会を提供したい。そういう考えをサークルはもっていた。

その姿勢とプライバシー保護を謳う大学当局との話し合いの結果、大学が学生にまず意思を確認した上でコンタクトを取るという段取りがとられていたというわけだ。

それまで僕は在日コリアンのコミュニティとまったく無縁で暮らしていたので、そういう接触に新鮮さを感じた。

韓国文化研究会と朝鮮文化研究会、それぞれのサークルの先輩たちとのファーストコンタクトは、昼ごはんを食べる中で行われたのだが、僕が興味をもったのは、後者のほうだった。

日本人の多くに馴染みのない組織だろうけれど、僕にとっても最初はそうだった。
朝鮮文化研究会というのは留学同(在日本朝鮮留学生同盟)と関係した組織だと先述したが、留学同とは、いまの日本では徹頭徹尾ネガティブな印象しかない朝鮮総連の下部団体で、組織的に言えば、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を支持する立場にあった。

日本人拉致事件の発覚を機に、決定的に評価の低落した北朝鮮だが、89年当時の僕の印象はといえば、かつての大韓航空機爆破事件やラングーンでのテロなどがあったこととから、よいイメージを持ちようがなかったし、過去において総連で活動家をしていた父の話を聞くにつけ、「民主主義人民共和国」を名乗ることは噴飯ものだという考えを持っており、その点についてはいまも変わらない。

だけど朝鮮文化研究会に集う人たちは、一党独裁どころか天皇制のパロディにも見える親子独裁のグロテスクなありようと、その権力維持に奉仕するイデオロギーについて、はっきりと反対の意を示していたし、それについて自由に論議していた。
あとで知ったのだが、そうした姿勢は「行き過ぎた自由」として、上部組織や他大学の人たちには快く思われていなかったようだ。

比べて、韓国文化研究会の人たちは、韓国支持の立場と思いきや、かすかに残っていた社会主義に対する憧憬からか、意外にも北朝鮮の体制に理解を示していた。

それは当時の韓国が軍人のクーデタによって樹立された政権であったという背景もあるのだが、イデオロギーに対する距離の取り方からすれば、北朝鮮を支持する団体の下部組織に連なる朝鮮文化研究会のほうがニュートラルに努めようとしていた。
これは組織の図表を見ただけではわからないことだった。

何より僕が朝鮮文化研究会のメンバーに好感をもったのは、「あそこの店の何がうまい」とか「どういうタイプが好みなのだ」とか、「藤波と長州についてどう思う」だの、かなりどうでもいい話の積み重ねの中で、互いのことを知っていくプロセスが重んじられたことだ。

主義主張ではなく、人と人との交わりの中で生まれる何を大事にしようという気風が部室にあった。

コミュニケーションに主義や制度の言葉は必要ない。自らをそれらの言葉に委ねない。
そうした大事さを知らせてくれたのが、朝鮮文化研究会という場だった。

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レビュー『アンアンのセックスできれいになれた?』

アンアンのセックスできれいになれた?』北原みのり著(朝日新聞出版社)

文化人類学の講義を始めるにあたって、講師は話の枕としてか、先ごろ発売された「アンアン」を話題に取り上げた。その内容は覚えていないが、彼が口にした特集タイトルだけは鮮明に覚えている。

「セックスで、きれいになる」。1989年春のことだ。

当時の僕は覚えたてのセックスに埋没はしていたものの、自分の行なっていることが「きれいになる」につながるとは到底思えなかった。
きれいさよりは、快楽が問題だった。

むろん自分だけの快楽を求めるようなセックスなど論外という認識はもっていた。「相手のことを考えないセックスはマッチョさの証であり、時代遅れだ」という考えくらいは持ちあわせていた。

だが所詮は考えに過ぎない。
19歳の自分のセックスは幼いものだった。自分の思う快楽を恋人から引き出す。

つまりは己の抱く妄想を当てはめる以外の何物でもなく、恋人の身体が何を欲し、感じているかについて尋ねることもなければ、想像することもなかった。
現実にセックスをしておきながら、女性の性について、身体についてまともに考えてはいなかった。「セックスできれいになる」に対置する言葉を男は、というより僕はいまなお持っていない。

それだけにいまにして思うのは、「セックスで、きれいになる」という言葉の切実さだ。
それは観念越しではない、セックスと欲望について語ろうという意気込み以外のなにものでもなかったのだ。

本書は作家であり、女性向けのセックスグッズを販売している著者が1970年の創刊以来、「アンアン」が折に触れて言及してきたセックスの取り上げ方の変遷と時代の推移とを読み解いたものだ。

セックスを語るという革命の時節

「この国の女たちは、セックスに何を求めているのだろう」。
著者が冒頭、そう述べつつ紐解く「アンアン」の船出はひどく華やかだ。
フランスの女性誌「ELLE」の日本版として発行された背景もあり、巻頭を駐日フランス大使の祝辞が飾り、執筆陣は澁澤龍彦に三島由紀夫、また数々のクリエイターたちが結集して制作していた。

「それまでのファッション誌といえば、洋裁を専門的に勉強した人たちによる型紙付きの実用的なものが中心だった」中で異色の雑誌だった。

カウンタカルチャーがまだ熱気を帯びていた時代、「アンアン」もまたドラッグ、反体制、ウーマンリブといった現象を好奇心の赴くまま、自由への希求を示すものとして取り上げた。

とりわけセックスに関して積極的だった。クリエイターのカップルから読者、妊婦、さらには未婚の母を選択したことでバッシングを受けていた加賀まりこのヌードが誌面を飾った。「返本率は40%ちかく」だったというから、この斬新さに読者はついてこれなかったろう。
しかし「それでもアンアンは惑うことなく、力強い女のヌード、男のヌードを見せ続けていた。それはまるで革命の旗を振り続けるかのように」。

何を目指す革命であったか。ウーマンリブ誕生の経緯が革命の気運を代弁しているだろう。学生運動の時節、共に戦う仲間であった女性に期待されたのは、男の後方支援であった。

「男のためにおにぎりを握ることが『私たちの戦い』だった女たちが、難しい『革命用語』ではなく、自らの言葉で『私』を主語に語り、『女』であることを見つめ、声をあげはじめていた」。

「『女』であることを見つめ」たとき、浮かび上がってきたのは、企業に勤めたところで、「女性は25歳定年が当たり前の社会」であり、結婚以外にサバイバルの手段がほとんどなかった実情だ。

セックスの違いによって社会に進出する術は制限され、男とのつがいによって命脈を保たれる自分を見つめるとき、「私たち自由な存在なんだ」の叫びは、セックスを自らに取り返す行動として現れる。

セックスは誰かに決められるものでもなく、また自分自身でもはっきりと確定できないような、もっと奥行きがあるものではないか? だからこそ「アンアン」は<今年はレズビアンを体験してみることに決めました><結婚とSEXは関係ないでしょ>といった挑発的なテーマに取り組んだ。

主語のないセックスから「私」のセックスへ

80年代に入ると「アンアン」は欲望についてより積極的に語り出し、「これまでになくはっきりと『SEXしたい』と言いはじめる」。
日活ロマンポルノでデビューした美保純をはじめ、セックス業界で働く女性たちの声をすくい上げた。著者曰く「自分の延長線上にいる女として知ろう」としてのことだ。

なぜセックス業界で働くことが他人事ではなかったか。
1986年、男女雇用機会均等法は施行されたが、実態は均等とは言い難かった。後年、渋谷のアパートで殺害された「東電OL」が入社後、湯のみを洗うことを業務としてこなし、男性社員に比べて昇級に明らかな差があったように、能力を評価されることなく、お茶くみか結婚かという選択は、均等法施行以後も命脈を保っていた。

男性の期待する性を軸にした生き方を強いられる。この自覚は当然、セックス業界への共感へと向かうだろう。

抑圧されることなく生きたい。自分の身体を、セックスを主体的に生きたい。その思いが結実するのが89年「セックスで、きれいになる」というわけだ。

著者はこう指摘する。「『セックス』が新しかったのではない。『きれいになる』が、とんでもなく新しかったのだ」。

すでにセックスの情報は数多くあった。しかし、「誰のためでもなく、自分のために」語る媒体だけはなかった。
大学在籍時にAV女優となった黒木香は「セックスで、きれいになれるの?」という編集部の問いにこう答える。

「運もマラも自らの手でつかむといった野心にも似た闘争心」が必要だと。

つまり、「きれいになる」とは、あなた好みの容姿を目指すのでもなく、自分の身体を慈しみ、全的に認めることそのものと言えた。

90年代に入っても「アンアン」の勢いは続いた。<頭がよかったり、ファッションセンスのがいいのは自慢できるのに、SEXが上手なのを堂々と誇りに思えないのはなぜなんだろう>と問いかけ「女から誘う」ことの当たり前さ、快楽を味わうことの喜びを謳う。

愛という経路を辿る欲望だけが正しい?

だが、転換は97年に訪れた。突如、「アンアン」は<愛あるセックス>こそ最高なのだと言い始める。
アジア通貨危機、山一證券の倒産、東電OL事件が陸続と起きた。とりわけエリート社員の「転落」は、時代の荒廃を物語る格好のエピソードとして扱われ、被害者である彼女は死後もなお貶められた。

性を謳歌することの危険を察知したのか、「アンアン」は「愛のないセックスは自分を惨めにするだけ」と断言し、曰く<愛される体質になる><恋の奴隷になりたい><「男に愛される体」のつくり方>などと言い募るようになる。

愛という経路を辿る欲望だけが正しい。
そして、2000年に入ると「今年こそ、“恋愛の勝ち組”を目指すぞ!」と、他人の欲望を生きることの効用が熱心に繰り返されるようになる。

援助交際や家庭崩壊、年間3万人を超える自殺者、リストカットといった話題がメディアを賑わせる中、セックスの位置づけもまた変化していった。
「セックスは簡単にできるが、でも、セックスで幸せになれるわけじゃない。出会い系で女子高生たちが社会問題化していくなか、『セックス』は気持ちよい自由なものではなくなっていった」。

幸せになりたいのであれば愛されなければならない。愛のないセックスでは満たされない。愛を失わないためのセックスが必要だ。そのため「アンアン」は具体的にこのように指南し始める。

「射精後のペニスを『お口でキレイにしてあげ』ましょう」。

さらにはエッセイストにこう言わせもする。
「“女であること”を実感でき必要とされる最後の砦がセックス。そこで存在確認をしてみたされないと、女としての自分が揺らいで不安になってしまう」。

セックスはいつしか不安定な自己の承認を得るための手段であり、伸びやかに欲望を発露することは、痛々しさと捉えられるようになっていた。

セックスを自分のものにする自由

愛のないセックスは自己を損なう。セックスでは心は満たされない。そのような考えの一端を象徴するのが飯島愛かもしれない。

07年夏、著者のもとを飯島愛が訪れた。「本格的な女性向けアダルトグッズショップをやっていきたい」という考えを彼女は披露したという。しかし、それは実現されることはなく、彼女は逝った。

著者曰く彼女がつくったバイブは色がなく、「すべて黒と灰色と白だった」という。色合いのなさに飯島愛のセックス観が表れているように見える。
比べて飯島愛が「これ、すごいカワイイ!」と反応したものがあった。
それは「I LOVE YOU」と記されたポストカードだった。

セックスが痛みしかもたらさない。そんなふうに傷ついている世代がいる。それに呼応すれば、「男に愛されなければ無価値である」というメッセージの強化につながるかもしれない。

「女の人は、もっと自由でいられればいいのに、と思います。自分のためにセックスしてほしいと思います」と著者は言いつつ、このような言明がもはや「古典」であって、若い世代に響かない言葉になっているかもしれないと漏らす。

たしかに自由でいるためにはタフさが必要で、「自由でいられればいい」と口にすることは、この先の時代において孤絶感を募らせることになるかもしれない。

けれども著者はいう。
「『私だけの孤独』も、言葉にすれば、共感しあえることが増えていく。(略)『私のセックスはね』と、語ることが、セックスを自分のものにすることなのだと思う」

「セックスを自分のものにする」とは、孤独であっても私の孤独さを他人の考えに容易に委ねないことだろう。孤独さを「愛されないと無価値である」といった審級の言葉に占有させないことだろう。

創刊時から考えれば、「アンアン」の現状は迷走しているように見える。
しかしながら「愛のないセックスをしようが、後悔をすることがあっても、私のマンコを愛する力を女が失わない限り、言葉は消えない」かもしれない。

展望は相変わらず見えない時代の中では、誰もが手探りで語るほかない。
「アンアン」の発するセックスについてのメッセージは、今後も読み手の様々な感慨を喚起するだろう。それが希望になるかどうかはわからない。

だが、「この国の女たちは、セックスに何を求めているのだろう」を示す座標であり続ける限り、ひとつの灯明であるかもしれない。

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骨まで愛して

1987年晩秋、母が入院することになった。

僕が生まれて以来、幾度か入退院を繰り返していたが、最後の退院を機に隔週くらいのペースで自宅から通院する方針に切り替えていた。
一回の診療は4、5時間かかるというもので、体力の衰える膠原病の身にとってはつらいものだったろうが、そこでほぼ10年ぶりの入院の必要を告げられたわけだ。

入院の前日の夕食時、母は「こんど入院したらもう帰って来れないかもしれない」と言い、唐突に泣き出した。最後の食事は確かチンゲン菜のホワイトクリーム煮だった。

高校の授業が終わると、一日置きくらいのペースで僕は見舞いに行った。
母はうれしそうに、決まって僕に「売店で何か買ってきたら」とお金を与えた。僕は無邪気にジュースや菓子を買いに行った。
そのときの自分の一連の行動は、いま思うと信じられない。
体内に水がたまり心臓や肺を圧迫するということで、一日の水分摂取量が制限されていた母の前で、喉を鳴らしてジュースを飲んでいたのだから。

個室から僕を見送るエレベーターまでの距離が母の一日の歩行のほとんどだった。
彼女の日を追うごとにゆっくりとしていく歩みにあえて衰えの兆しを見なかったのは、いまにして思うと「いずれよくなる」という現実を直視したくがないための根拠のない予見越しに容態を見ていたせいだろう。

年が明けて1月15日、病院に呼び出された。
胸にたまっていた水を抜いたところ、腹部をはじめ全身にむくみをもたらせていた水が胸に一気に集まり、心臓を圧迫。一時、心臓が止まり、意識不明となった。

幸い意識は回復したが、この一件で「高度な医療」の内実の一端を垣間見た気がした。
それは「全体に水がたまっているのだから部分の水を抜けば、そりゃそこに水は押し寄せるだろう。そんなこともわからなかったのか」と、呆れる思いが半分。
残りの半分は、医療に絶対のセオリーがあるわけではなく、手探りの作業であり、蓋然に満ちた行為であるはずだが、なぜか医師と患者といった関係性の中では、それが浮かび上がらないらしいということだった。
信頼というものはこちらの勝手な思い込みで成り立っているのだと気付かされた。

ともあれ、1月15日を境に母の立って歩く姿を見ることもあまりなくなった。
それから一ヶ月近く経った2月10日、僕は高校の修学旅行で信州に出かけた。前日、母を見舞った。「元気でね」と言葉を交わした。
14日、帰宅すると、旅行中に母が個室から集中治療室に入ったことを聞かされる。

さっそく父とともに病院に向かった。
酸素マスク越しに母は「大丈夫か?」と尋ねてきた。てっきり僕らのことを聞かれたと思った。

帰りの車中、父は「あれは“自分は大丈夫なのか?”という意味だろう。あんなことを尋ねたのは初めてだ。悲しいけれど、ママは覚悟しているのかもしれないな」

なお、我が家では巌みたいな顔したむくつけき父をパパ、シヴァの妃パールヴァティーよろしく憤怒相をたたえることもある母をママと呼んでいた。どのツラ下げてという感じだが。

修学旅行の疲れもあり、早めに食事を済ませ、風呂に入った。いつもはそのまま髪を自然に乾かすのだが、なぜかその夜に限って、僕はいつでも出かけられるようにドライヤーでセットしてから寝た。なぜかわからない。

そして、夢を見た。誰かが向こうに行ってしまいそうになる。非常ベルのようにけたたましくどこかで電話が鳴り響いている。

兄がドアを開けて飛び込んで来た。と同時に目が覚めて起き直った。「病院から電話があった。ママが危篤だ」

兄の車に乗って病院へ。一足先に到着した父とともに集中治療室に入ると、医師から「たいへん残念ですが、あと30分もすれば心臓が止まります」と言われる。心臓図の波形は次第に弱くなっていく。

兄はいつぞやに書いたように、母の死に目を避けるべく、「親戚に報せなきゃな。ちょっと家に戻るわ」と去ってしまった。

父は号泣しながら母の耳元で「おい!千恵」と呼ばうと、意識のない母の目尻から涙が溢れ出した。

本当に30分すると心臓が止まった。予告された通りに終わりが、そして看護師がやって来、母の病院着を脱がせると清拭を始めた。

自宅の居間に安置された母は、いつの間にか微笑みをたたえていた。
言葉を交わせない彼女を前にすると、あまりの手持ち無沙汰に僕は意思の疎通をはかりたい思いに駆られ、彼女の額に自分の額をくっつけてみた。

ひんやりとしていて、すこし硬い感じ。何かが在るんだけど、無い感じ。
何が無いかははっきりわからないが、もはや無いものがここに在るという感じが悲しいくらい確からしく感じられた。

葬式が終わり、斎場で炉から出て来た母の肉が掻き消えている姿を認めたとき、「無い」ということのもたらす不穏さに心がくしゃくしゃと丸められるように感じられた。
長年のきつい投薬により、骨がほとんど原型を留めずボロボロになっていたことに衝撃を受けた。

よくいままでがんばってきたね。
そう思うと同時に、彼女の抱えてきた虚ろさを何ひとつ理解しなかった自分に気付かされた。

母という役回りを除いたときの、ひとりの女性としての姿を僕はまるで知らなかった。知ろうともしていなかった。

確かに在ると思っていたものが無くなったのだが、彼女が在ったときから、彼女が培い、刻んできたものを知らなかった。
何かはとうに失われ、そのことを僕が知ることは永遠にない。もう何が無くなったのかすらわからないのだ。

ただ、彼女の病の起因が夫婦の対の関係によってもたらされたと感じていた僕には、死によって彼女は開放されたにも見えた。

四十九日の法要の朝、父は禿頭をカミソリで丸めていた。
僕はその気合の入れ方が母の気持ちと呼応していないように感じ、演出めいて感じられた。

法要後、墓が除幕された。脇に墓碑があり、そこに「我が最愛の妻 千恵 ここに眠る」云々と刻まれていた。
その衒いのなさ、むきだしさ、イノセンスさに僕は恥ずかしくなった。その愛というものが彼女の生を重くしたかもしれないのに。

霧雨の降る中、僧侶の読経も終わり、骨壷を納める段となった。
父は跪いて壷を墓前に置くと、やにわに蓋を開け、骨片を取り出すと人目をはばかることなく、それを口中に入れ、食べた。
僧侶は酢を飲んだような顔つきをした。

さっきまでの苦笑いを僕は改めた。
「それほどまでに愛していたのだな」との思いに打たれたわけではない。
父の愛は歪んでいたかもしれない。自分の考え、思い、感情の寸法に他人を縮めていく行為が到底、愛だとはまったく思えない。

ここに来ての父の振る舞いは「病膏肓に入る」とも言えるが、彼の本気の裏に張り付いたものがたとえ愚かしさであっても、愚かしいものであるがゆえに、それを俯瞰で眺めて笑うことはできない。

シャリシャリと骨を噛み砕く音を聞きながら、そんなふうに思った。

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愛という名のもとに

先日、『困ってるひと』の著者、大野更紗さんにお会いした。
いわゆる闘病記が進行する病への抵抗の物語なら、『困ってるひと』はそういう類いの書ではない。

医療や保険という制度を明確な敵としてターゲットにするには、僕らはあまりにもそれらの問題の側に与して生きている。

だから自身と関係ない病理としての社会を描くことなどできない。
目前にある現実を生きるとは、難渋するほかない社会をそれと知らず生きているということでもあるからだ。

『困ってるひと』は客観的な立場などという幽霊のような視点からではなく、難を生きる中で綴られた書物であり、読み手は大野さんが自分の肌に文字を刻んだものを写し見ている気にさせられる。

書評や感想には、大野さんのユーモアを讃える言辞が多い。
僕は思う。難を転じて笑いに換えるのは知性のなせる技というが、呪詛に換えることなく通過させるにあたり、それがどれほどの孤絶の中でもたらされたものかと。
出版不況といわれる時世にあって12万部も刷られているというが、分断された状況をかこつ人たちの思いが背景にあるようにも思える。

大野さんは自己免疫疾患系の難病である皮膚筋炎、筋膜炎脂肪織炎症候群などに罹患されている。おそらく日常の暮らしの中で、僕にとってはどうということのない所作であっても、それを行うにはひどく困難なこともあるだろう。そう想像された。

想像の外にあることに関しても、想像するほかない。

比較にもならないが、自身の経験からいえば、かつて髄膜炎を患った頃、歩くことも立つこともできなくなり、どうということのない階段を上ることが千日回峰行に匹敵するかに思えたことがあった。千日回峰行やったことないけど。

自分がいてもいなくても関係なく進行していく世界からひとり括り出されたとき、満腔を怨の一字が浸すように思えた。それに関して大野さんはストイックだ。

他者の生き難さへの想像の、我が身以外の源泉は母だ。
母もまた膠原病の一種であり、自己免疫疾患系の全身性エリテマトーデスを患っていた。現代では完治できない難病だ。彼女は常に倦怠感、微熱に襲われ、骨粗鬆、光線過敏に見舞われていた。

治療薬であるステロイドの副作用から精神的に不安定になったことが、母をして僕の首筋に包丁で峰打ちをさせたものだろう。

僕が生まれた直後に母は病気になった。
膠原病の発症は原因不明とされているが、過日書いた通り、結婚生活のストレスが限度を越えて、彼女に病をもたらしたものと睨んでいる。

父は自分の思った通りに物事が運ばないと全身を震わせて怒る。高天原で暴れるスサノオよろしく、彼にとっては些細なこととして看過できるものなど何ひとつないのだ。結婚生活は快闊だった母を次第にびくりびくりとした心持ちにさせたろう。

たとえば冷蔵庫にいますぐ使わないなものが入っているとする(そのための貯蔵なのだが)。そういうものが増えて行くと、中には賞味期限の切れたものも出て来るだろう。

清潔好きというよりは、自分の観念で現実を刈り込むこと以外の世界が信じられない父にとっては、期限切れの食物がストックされているということは、彼の信奉する「修身斉家治国平天下」という儒学の宇宙論への挑戦でしかなかった。

いやしくも家庭をもり立てる(斉家)身ならば、賞味期限を過ぎたスジャータを看過するなぞ何事であるか!(修身がなっていない)という話になるわけだ。

たった数ミリグラムの内容量しかもたない「褐色の恋人 スジャータ」は一大ページェントに発展し、いまや彼の宇宙論の進行を妨げる敵とみなされ、時は来たとばかりに銅鑼は打ち鳴らされ、吹き流しは翻る。

そのクライマックスは決まって大晦日に訪れ、演目は冷蔵庫の中身をめぐっての一幕。怒号のはてに一切合財が捨てられる顛末になっていく。
幼い頃は、この騒動に右往左往していたが、いつしかカタルシスに向けて祝祭の色合いを帯びて行くことに気づくと、本気で制止することもなくなった。

観念や考えの理解を強いることは始終行われていたが、言葉を交わす中での共感や共鳴はあったか。

話せばわかる。
この言葉に得心した経験が僕にはない。僕になかったが母にはあったのか?

想像してみよう。
女性とまともにつきあったこともなく、赤貧の中で参照すべき家族のロールモデルも持ち合わせていない男がそれでも高度経済成長期のファミリー形成熱に煽られて結婚し、経済的に上昇することを家庭の幸せと定めたとき何が起るか。

持ち前のバイタリティに任せて仕事をすることが家庭を守ることに思えたか。
だが、それは自分の性格の偏りをいっそう強調することに力を注ぐ道行きであり、その偏向に母はひしがれていったのではないか。

恐ろしいことに、父はそれを愛だと思っていた。いや、いまもなおそう思っている。
あるいは母もそれが愛というものだと思っていたかもしれない。

「これを愛とせよ」というものが愛であると。

正確にいえば、そういうものとして受け取る努力をしていたのかもしれない。
ときは結婚というものが、女性にとって死活をわけるサバイバルの主たる道だった頃だ。それを愛と呼ばずして何とて到底自分の人生で出会ったことのない、規格外の男と暮らすことができようか。

底意地の悪い目で見ていると思うだろうか。
だが僕には、母が病という形で「愛」と呼ばれるものの、その受け取り難さを総身で表現していると見えてならないのだ。

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雑報 星の航海術

行き過ぎた性教育とやら

ときにこのようなタイトルに即したことについて書くとブログが荒れるということは重々知ってはいる。

だが、彼の吉田松陰先生も仰っているではないか。

 かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

奴がれは大和ではないので、ここを鶏林あるいは青丘と読み替えていただければいいのだが、いずれにしたって「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも」ですよ。

東京都立七生養護学校の性教育を過激だとして「都議から不当に非難された」裁判において、東京高裁は1審を支持し、原告・被告双方の控訴を棄却した。至極最も。

事の発端は、七生養護学校の知的障害をもつ生徒同士が当人の好奇心の赴くままに行動したためか、セックスをしたことに始まった。
これを受け、教員や保護者らが協議を重ね、独自の教育プログラムを開発した。

内容はといえば、性器の名を織り込んだ「からだうた」や人形を使った身体教育だった。
これが過激だとして都議や新聞が「調査」に入り、「具体的でないと分からないというなら、セックスもやらせるのか。体験を積ませて学ばせるやり方は共産主義の考え方だ」という都議の暴言まで出る始末。

はて、過激の中身とはどんなものかと言えば、たとえば「からだうた」は、こういう歌詞だ。

 あたま、あたま、あたまのしたには首があって
 肩がある、肩から腕、ひじ、また腕、手首があって
 手があるよ(右と左を繰り返す)。
 胸にオッパイ、おなかにおへそ、おなかのしたが
 ワギナ(ペニス)だよ、背中は見えない、背中はひろい、
 腰があって、お尻だよ、ふともも、ひざ、すね、足首、かかと、
 足のうら、つまさき(右と左を繰り返す)、おしまい

何のことはない。自分の身体ってなんだろうということを歌っているだけだ。
人形を使った性教育と言ったところで、「こうすれば子どもが生まれる行為になりますよ」というだけで、きわめてふつうのことを説明するに過ぎない。

精通と初潮を迎えた人ならば、セックスをするのも不思議はないことで、当たり前のことを当り前に教えたら「過激」とは、是如何?

異性、同性を問わず、恋人や妻やパートナー、あるいはそのときしたいと思ってしまった人と行うことが「過激」だとしたら、過激でないセックスをしていない人がいるのだろうか。

吹き上がりと形容しても、そうそう的外れではない都議や新聞メディアの所業は、「行き過ぎたジェンダーフリー」と「過激な性教育」を結びつけ、「ジェンダーフリーは過激な性教育を行うもの」というバッシングを遂行したいがための、ためにする「調査」であったと僕は感じている。(この辺りについては、評論家の荻上チキさんの「七尾養護学校の件について」を参照ください)

ジェンダーフリーを「性差をなくす」運動だと決めつける論調がある。バックラッシュというやつだ。

その手の論者は従来のジェンダーについて疑義を抱く人たちについて、男らしさ女らしさをなくす意図を逞しくする亡国の、伝統を重んじぬ、左巻きの、国を愛さぬ徒輩の、天然自然の男らしさ女らしさを踏みにじる 天に唾する不届きものよと詰る。

なんだかこうして連ねて綴ると、「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この丘に」みたいに長歌じみてしまうが、たぶん非難の根底に関する要約としては間違っていないだろう。

それにしても嗚呼男らしく・女らしくと喧しいことだ。

男と女とでは身体が違う。だから役割が違う。したがって本質的な違いというものがある。
ホップ、ステップ、ジャンプというには、あまりに歩幅のちょこまかした、こけつまろびつの三段論法だが、このように人間の機能から人間のデザインを、本質を決めたがる人がいる。


どうも僕らは、ある特定の社会や文化がもっている男と女の考え方や振る舞いへの期待を「人間の本質に基づいているもの」と勘違いしてしまえる、とても都合のいい考えをもってしまう傾向があるようだ。

錯覚していることに気づけないと、性あるいは性差を強迫的なまでに実体的なものとして取り扱ってしまうらしい。
だから差という距離を測定可能な物理的なものとして安易に捉えてしまう。

男女を直線上の両端として捉えれば、その差は測定可能に表向きは見える。
しかし男女の差はレイヤーの重なりが空間に展開する“何か”の濃度の違いではないか。

僕はインターセックスの友人に「性自認としてはどちらなの?」と愚かしい質問をしたことがある。
彼/女は「いや、本当にわからないんだよね」と答えた。

くだらない質問をしたと僕は顔を赤くした。猛烈に恥じた。

「性とは両極のものだ」と思っているから、そういう質問をしたのであって、そもそもその質問の外に生きている彼/女にとって答えようのない問いだった。
僕は自分の価値観に即したことを聞いただけで、自分の外に広がる未知について蒙昧野蛮な態度で臨んでしまった。

本質を尋ねているつもりで、本質を予め決めてかかっていることは大いにある。
以来、僕は本質とは「名付けられないもの」の別称なのだと考え、本質に迫っていると思える思索が、実は性急な短絡である可能性を疑うようになった。慎重になった。

人間というデザインは、人間の手によってなされたものではないのだから、人間の認識できる局内の機能によって、デザインは決定されない。
常に認識できる以外の何かが私たちを形づくっている。これを忘れたくない。