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通り過ぎた夏の思い出

僕の住んでいる街は坂が多い。
この時節、坂を上り切り、折れて路地に入った途端、鬱蒼と樹木の繁る庭を高い塀で仕切った屋敷から瀑布のような蝉の声が流れ込んで来、耳朶を打つ。
白昼の目を開けるにも一苦労の陽光の中を、誰を呼ばわるでもない音声に出くわすと、不意に思い出すのは子どもの頃の夏休みの思い出だ。

とはいっても、虫取りをしたことがなく、野原を駆け回ったこともない紫外線アレルギーの嫌いのあった僕の夏休みの思い出といえば、もっぱら家に籠っての遊びが主であって、そんな自分にとっては、ときに夏休みの宿題も憂鬱な代物ではなく、嬉々として取り組むべきものだった。

とくに図画工作だ。
高学年になるまで図画工作の宿題は「紙粘土で何かつくって来い」というような適当なものが多く、級友には粘度を丸めて「おにぎり」と銘打って提出したものもいた。

いまなら確実に問題教師として告発されるであろう、不適格な人物が教職についていることも多く、体罰も横行していた。
「おにぎり」といった前衛的なものをつくろうものなら、教師はなぜか自分がバカにされたと思うらしく、拳骨でもって応えていた。

余談ながら、これは当時の気風なのか、ユーモアを解さない教師たちは、己の怒りを発散させる際、揃いも揃って「考えてから行動しろ!」と叱責する人がたいそう多かったのだが、これが不思議でならなかった。
だって、考えていたら行動できないじゃないか! いまの学校でもそういうものの言い方をするのだろうか。

それにしても意味のないことが繰り返され続けると、それ自体が強度を増し、意味を帯びてしまうことがある。

畢竟、「考えてから行動しろ」が獲得するのは、「考えずに言われた通りのことをしろ」ではないかと思う。

さて、僕が手始めに紙粘土でつくったのは、前方後円墳(仁徳天皇陵)だった。夏休み明けに満を持して教師に提出したものの、「なにこれ?」の一言で終わった。

その頃の僕は他人の評価をあてにしないところがあったので、他者の欲望に応えて何かをつくらなかったという点において、よほどいまより純粋だったと見える。

というか、たんにアスペルガー的な素行が出ただけなのかもしれない。
評価は欲しなかったが、不思議だった。「なぜみんなは前方後円墳の美しさに打たれないのだろう?」と、訝しく思った。

往時、ディアゴスティーニの前方後円墳のキットがあればたぶん買っていたと思う。上から眺めてよし。横から眺めてよし。

前方後円墳を見ながら、「高き屋にのぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」と歌ったすめろぎの心持ちを忖度するのもいいだろう。何にせよ非常に洗練されたデザインだ。

そして翌年は、「荒城の月」のモデルとなった岡城の石垣を紙粘土で再現するというたいへん地味なものを提出した。ひとつひとつ石をつくり、それを重ね、打込み接ぎ仕様として再現。これもまた教師のお眼鏡にはかなわなかったようだ。

数年前、みうらじゅんさんに取材した折、彼が仏像マニアを任じていた頃でもあったので、話のついでに「僕は石垣が好きなんです」というと、「いるよね、そういう人。坂東八十助(現・三津五郎)さんがそうで、彼も小さいころから石垣や城の絵はがき見て空想にふけって楽しんでいたらしい。そういうのはね、大人になって目覚めるものじゃなく、不治の病だからやめろと言われても絶対やめられない」と話していた。

そう、吉田松陰先生も仰っているように「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ」心持ちなんですよ。

いまでこそ石垣マニアの存在は世間の認めるところだが、1970年代の小学生にとって、石垣を愛でる仲間を探すのは困難を極めた。

運命的な邂逅は小学3年生のとき訪れた。僕の熱情を理解してくれた人がクラスにひとりだけいた。石原康臣くんという。

彼の名を知ったとき、興奮した。なぜなら徳川家康が大坂の陣の開戦の口実とした、方広寺の梵鐘「君臣豊楽 国家安康」を想起させたからだ。
石原君は僕の当て所のない石垣に向けた情熱をずいぶん熱心に聞いてくれた。

いつしか彼の家でお絵描きにふけ、源頼朝の似絵を写生し、どちらがうまく描けたかを競うといったまでに仲良くなった。がしかし、夢のような日々も束の間、石原君は転校してしまった。

理解者を失った僕はやさぐれてしまった。もともと楽しくもなかった学校はいよいよもっておもしろみを失い、己の趣味を貫く一点においてなりふり構わぬようになった。

たとえば家庭科の時間に、枕カバーをつくることとなった。修学旅行に持参するのだという。各人が自分で考えた図案をちくちく縫うこととなった。

僕が選んだ図柄は、屋島の戦いにおいて那須与一が平家の求めに応じて、海に進めた馬から矢を放ち、みごと扇を射落としたシーンであった。

自分としては会心の作であった。
だが、実際に使ってみたところ、緋威の鎧の草摺と袖の部分がちょうど頬を刺激し、たいそう夢見の悪いものだった。

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コーヒープリンス1号店に行ってみた

新大久保のホットスポット、コーヒープリンスに行ってきた。

韓国のドラマのモチーフを再現した店だそうで、かねてコーヒープリンス詣でをする人がいると噂に聞いていたのと、お台場のデモの翌日でもあるし、街の雰囲気ともども感じたいなと思っていたら、タイミングよく友人のKさんに誘われたので、そそくさと出かけた。

まずは新大久保駅前の変わりっぷりに驚いた。
「確か数年前までは延辺料理屋が数軒あっただけの場末感漂う通りであったよな」などと訝しんでいると、僕のそばを女性3人組がうふふきゃっきゃと通り過ぎるや、「あ、パッピンスの店だ。食べたい!」と嬌声をあげる。
パッピンスとは韓国の氷菓だが、さても人口に膾炙したものであったかと驚く。

街の色はたしかに韓国のそれだった。通りの両側はチャン・グンソクをはじめとした俳優陣、少女時代、KARAグッズを揃える店と韓国料理屋が交互に軒を並べていた。

店はどれも洗練さに欠いている。が、グッズをあれこれと漁る女性の熱気と人いきれが「そんなことはもはや重要ではないのだ」と語っているように感じた。
この久しく感じなかった街の活気。何かが剥き出しになっている。

そんな気配を感じつ、コーヒープリンス1号店のあるビルのエレベーターに乗り込み、3階を目指した。

店に入り、Kさんと編集者のYさんのいる席に着く。男性客は僕のほかひとりのみ。
「コーヒープリンスに男性ひとりだけで行くのは、アウェイもいいところだ」と聞いていて、それを最初に耳にしたときは、女性の多いカフェでもケーキ屋でも平気で行くから問題あるまいと思っていたのだが、合点がいった。たんに女子が多い店とは質が違った。

店内の雰囲気を表すならば、さしずめ“むぉん”だろう。何かが現在進行で煮詰まっていく感じ。
彼女らはじかに見はしないけれど、明らかにそれぞれにお目当てのウェイターがいて、確実にロックオンしている。男の子たちはしっかりとした体つきをしている。

早番と遅番の交代時間なのだろう。ひときわ美男のウェイターがスタッフに向けて、胸の前で両手をひらひらさせて「おつかれさま」と韓国語でいったとき、店の大半の女性がそのポーズをスキャンするかの勢いで熱い眼差しを注いでいる様子に笑った。

あえかな息の漏れに濃霧がかかるんじゃないか。
ありていに言えば、この空気の名は性欲だと気づいた。驚いた。いつの間に、韓国の男性がそんな対象になったんだろ?

僕が感じた空気性欲説を言うと、Kさんと編集者のYさんはかぶりを振った。

聞けば、さっきまで隣席にいた女性は静岡からやって来、韓流にはまってから不順だった生理が定期的に来るようになったという。
しかも、件の女性は韓流スターにはまった理由は結局のところ「抱かれたいから」と言ったそうだ。ビンゴ!

なんだかわからないけれど、立つ瀬がないような心持ちになって、「日本の男性(自分を含む)の何が問題なんですか?」とさらに尋ねると「何もかも!」とKさん。

コーヒープリンスにいると、酸欠のようなちょっと上ずった気持ちになってうまく話せない。ビールでも飲もうという話になり、河岸を変えた。

10年くらい前、フィリピンやコロンビア、ロシア、中国人と思しき街娼のお姉さんたちが立ち並んでいた通りは韓国料理屋でぎっしり。街の面貌は変わっていた。

サムギョップサルを食べながらさらに話をする。
曰くK-POPの男性がジャニーズ系と決定的に違うのは、身体だ。胸板だ。チョコレート腹筋だ。

店内で流れる映像はK-POPの有名どころが一同し、パリで公演したときの模様らしい。客のほとんどが女性で東洋趣味やオタク系ではない。
白い肌のラテン系や褐色の肌をしたアフリカ系のフランスの女性が僕の知らぬグループの歌う歌詞を口ずさみ踊っている。
瞠目すべきは、彼女たちの浮かべる表情は、明らかにセックスアピールに感染してのものだった。

コーヒープリンスだけじゃない。新大久保の通りに感じた気配は濃淡あれどやはりセックスだ。
それもかつてのヨン様ブームを牽引した中高年層ではなく、原宿あたりにいる子と変わらない若い層が醸成している空気だ。

なぜその欲望が日本人男性に向かわないのか?と改めて思ったが、その問いがすでに的を外しているのだろう。
ここに至っては、日本の女性が懸想の対象を日本人のみとする発想そのものが古いのかもしれない。

いまだに男を立てることを求める層が少なからずいて、傷つくのが嫌だから優しくリードして欲しいという、結局のところ一周まわって「僕のことを立てて欲しい」と願う世代がいて、ひとりの人間として見られることもなければ、ひとりの生身の女性として求められることもない。

怒りと失望と諦めが彼女たちの胸底にあるのかもしれない。
つまり、問答無用に求められる実感を欲していて、彼女たちは野生の身体に望まれることを能動的に求めているのではないか。

そう、しなやかな身体があればいい。
もう男女の関係に心理の突き合わせだの慮りだのはいらない。
能書きを彼女たちは求めていないのかもしれない。

となると、これはすぐれてジェンダーの問題ではないか?

そこまで思ってはたと気づいた。
あら? 僕は身体髪膚、所作、言葉遣い。これらを限りなくジャパナイズしてきたわけだけど、その努力はどうなるのと。
父や兄のように日本社会が暗黙のうちに措定する穏当さからはみ出すと、たいへん生きづらい目にあうと学習した成果は奈辺に落着するか。

日本の女性が現状の社会の枠内で培養された身体など求めていないとすれば、なんと僕は自らにコルセットはめるようにして窮屈に生きてきたことか。

「これまでの努力は何だったんですかね?」とKさんに聞くと「無駄だったんじゃないの」とあえない一言。撃沈。

現況、「人の迷惑を考えろ」だの「空気を読め」と、既成の社会の間尺に合わせて馴致されることを良しとする傾向がいよいよ高まっている。

新大久保に蝟集した女性たちは、そういうことにうんざりしているが、それをイデオロギーや主義にこと寄せて語りはしない。しかし、行為でそれを示しているように思えた。

帰路、「拙い日本語で激しい愛の言葉を囁かれるのがいいのだよ」と聞いたので、機会があれば試してみようと思った。
しかしながら、結局のところビジュアルがソン・ガンホのような厳つい自分には、身の丈にあわぬ噴飯ものの所業だろう。

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百貫デブ!

例年になく涼しい日が続いたかと思えば、夏に入る前に気象庁に予告されていた通りの酷熱が襲う。
「8月でこんなに暑かったら12月はどないなるねん」と古い漫才のボケのひとつも言いたくなる。

先日、奈良の東大寺へ取材に出かけた折、休みを利用し大阪は難波に繰り出した。書店で立ち読みなどして涼んでいると蒼井優の『今日もかき氷』に目がとまった。

すべてのパーツに面取りを施したような甘い丸みを帯びた蒼井優のことを好きな御仁も多かろうが、あいにく僕は沢尻エリカやジーナ・ローランズのようにエッジが利き、仁王立ちが似合い、かつ握力の強そうな人が好きなので、むろん『今日もかき氷』は蒼井優目当てではない。

かき氷に目が釘付けになった。

そういえば、毎夏恒例となっている赤坂の一ツ木通りにある甘味処、松月を訪れ、宇治抹茶金時白玉のせ練乳がけを食べる行事を今年はまだ果たしておらなんだと思い至った。

ひどく蒸していた日であったから、氷でも食べよう。それに折角関西まで来たのだから、ここは少し趣向を変えて中国スイーツの涼味など乙でよろしかろうと、糖朝に足を運んだ。

オリーブオイルにガーリック、ごま油に塩、かき氷には抹茶と僕の中の相場は決まっている。躊躇うことなく小豆抹茶ミルク氷を所望した。

今日日のかき氷はパウダースノーのような微細な氷やフレーク感を増した砕き方に趣向を凝らすなど、店によって様々な工夫があるが、糖朝のかき氷はそれらと違い頗るシルキーな舌触りで、実に驚いた。

どうやらココナッツミルクを凍らせたものを削っているようだ。小豆も砂糖控えめで煮ており、しかも冷たさに痺れた舌を休めるべく仙草ゼリーが底に見え隠れする。心憎い。

一杯を食べた後、給仕を呼びとめた。むろん「シェフを呼んでくれ給え」と手練のほどを賛辞するためではなかった。

僕は器を手に取りこう言った。

「おかわりください」
「“おかわり”でございますか?」

ウェイターは訝しんだ。
確かにかき氷はわんこそばじゃないけれど、あまりにうまいからしょうがないじゃんか。

 

二杯目を平らげ、余韻に浸っていると、満々と張った腹に気付いた。嗚呼やんぬるかな。またもやってしまったと臍を噛む。今年こそはTシャツの似合うぴりっとした体型を目指そうと思っていたのに。

僕は滅法甘いものが好きだ。だからすぐ太る。太りやすい体質であるのは、もともと肥満体だったというのもある。

どれくらい太っていたかというと、突き出た腹で足下が見えない。一年を通じて股擦れが生じるため、オロナインH軟膏は欠かせない。ベルトは腰回りを赤道とすれば、黄道の傾斜をもって腹をめぐっていた。

あれは小学校6年生の台風が接近していた初夏の頃であったか。放課後、つるむ仲間の少ない僕には珍しく、教室に残りクラスメイトらと遊んでいた。

巷間、子どもが騒ぐと雨が降るというように、低気圧が近づくと心中が不穏となり落ち着きを失う。
気怠さを晴らそうとする胸の内の騒ぎに心が乱れる。そんな経験を誰しもしているだろう。

気散じに級友らは女の子に冗談を飛ばし、ちょっかいをかけていた。ふざけることを以て親密さをはかろうとする友人を羨ましく思った。嬌声が湿度を帯びた教室に渡る。

もの憂いさのあまりの重さに押されてか、ふだんあまり積極的に人と関わることのない僕は、なぜかその日に限って、意中の子に向かって、友だちが口にしていた同様の冗談を言ってみた。

すると彼女はさっきまで見せていた様子と異なり、きっと向き直るやこう言った。
「うるさいなっ。百貫デブのくせに!」

気がついたら僕は教室を飛び出し、駆け出していた。やがて雨が降って来、目尻から滂沱と流れる涙は、顔を叩く雨とともに口に流れ込んだ。

百貫デブのくせに!がリフレインする中、僕はひたすら走った。

自分の記憶の中では、往来にさっと飛び出し、全速で駆けたということになっているが、おそらく人から見ればのそりのそりのジョギングだったろう。

なにせ肥満体だから。素早く動けるはずもない。

その日を境に痩せることを決心した。物忌みもかくやというほど、一切の甘いものを断ち、中肉になるまで体重を落とした。

もう体操座りをしても腹がつかえて手が膝にかからないなんてない。転んでも真っ先に腹を打つこともない。軽快に走れるって素晴らしい。うははははと獅子吼したくなった。

がしかし、一度身体についた癖はそうそう直るものでもないのか。高校生になると再び体重が増加し出した。膝を悪くし、運動ができなくなったことも一因にあったろう。

けれども、あのときの情けない僕とは違う。もう二度と誰にも百貫デブなんて言わせねぇよ、絶対。
「心に掛けぬお前の祈念を 永遠の俺の心よ かたく守れ」てなものである。

そこで敢行したのは、朝はまったく食べず、昼はほとんど食べず、夜はサラダのみという食事で、2週間で7キロ、1ヵ月で14キロ落とした。
どうということのない微風に身体がなびくようになったので、さすがにこれ以上はまずいと減量を止めた。ちなみに、このときの急激なダイエットのせいで妊娠線ができてしまった。

中年になると骨盤が硬くなり、腹筋が衰え、内臓が下垂し、腹が出る。別に僕は平子理沙みたいになりたいわけではないけれど、年をとったことを理由に弛緩を追認するようにはなりたくない。

越王勾践は苦い肝を嘗めて雪辱を心に期したという。僕は甘いものを味わいつつ、彼女の言い放った「百貫デブ」に時折どやされ、苦い思い出を浮かべてダイエットをする。時折方向性を間違えて美脚体操なんかもやってみる。

そして、アンチ・エイジングに終始しないジンテーゼ・エイジングなるものがあろうかと夢想するのだ

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センスなのか、マネーなのか。

バックミンスター・フラーの共同研究者であったK氏に聞いたことがある。

フラーは折に触れてこう言ったそうだ。
「センスを選ぶのか。それともマネーを選ぶのか。両立はありえないのだ」

そしてK氏に会ったとき、彼は僕にこう言った。
「インテリジェンスを選ぶのか? それともクリエィティビィティを選ぶのか?」

インテリジェンスとは「あれとこれは同じだ」と名指すことに勤しむ有り様。
クリエィティビィティとは「あれとこれは同じなのか?」 と問い続けること。

クリエィティビィティは、ただちに既成の職業に直結しない。
つまりはすぐさま現金化されることはない。だが生涯かけた仕事に、生業にはなりえるだろう。

そしてまたフラーは若者に向けてこうも話したそうだ。
「あなたが目的地へ行きたいのなら、それに対し直角の方角を行きなさい」

「急がば回れ」の回頭は直角の方向であるならば、彼は人生訓としてではなく、物理的な事実を示そうとして、そう言ったことになる。
これは直線という代物が、実は宇宙に存在しないのと同じ意味なのかもしれない。

「最短距離」と聞くと物理的な事実を表していると思いがちだが、「2点間を結ぶ最も短いい距離」とは概念上でしか成立しない。
ようは人間にとってだけの事実であって、世界の事実ではない。

地球から月へ打ち上げたロケットは、最短の直線運動で目的地へ向かうように見えるが、人間の認識に関係なく実際の運動は螺旋を、つまり連続的な曲線を描いている。

風と海流を読んでAからBへ向かう船の航路を見下ろすと、「|」ではなく「Z」の航路を海洋に描いている。

重要なことは、最短・最大・最速で目的地を目指す「現在の動き」は、目的地に向かう進路としては常に誤っていることだ。
しかし、そうでないと目的地に最短で辿り着けない。

対象はなんら変化していない。
観察する者がどこで何を見るか?によって見え方が異なる。

ところで政治、経済の分野では、昨今最短、最速の判断が正しさを弾き出す上で肝要だと喧伝されている。
だが、人は常に誤ることでしか目的に達せないことを忘れている。

「観察者はどこで何を見るか」を勘案するセンスが最も蔑ろにされている。

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労苦の果て

「苦労は買ってでもしろ」というけれど、僕はそれに懐疑的だ。
苦労などしないで済むならそのほうがいいと思っている。

苦労と呼ばれるもののうちで経験される侮り、痛苦がその人の柔らかい部分を根本的にダメにしてしまう場合が多いと思われて仕方ないからだ。

けれども苦労した結果、成功を手にした人に限って、なぜか労苦をよいものとして称揚しがちだ。
それは本人が「苦労を重ねたからこそ成功した」と思っているからだろうけれど、話を子細に聞くと、当人の認識している「苦労」以外の何かによって功を成したことも多い。

結果から原因を求めると、いちばん実感の求めやすい苦労につい目が行ってしまって、そういう意味では人はやっぱり認識できることしか認識できないのだなと思う。

さて、前回も書いたように、祖母は日本へ来たことで、韓国で味わう必要のない辛酸を嘗めてしまったわけだが、なぜお嬢さん育ちの彼女がそんな選択をすることになってしまったのか。

その疑問を長兄である叔父にぶつけると、頭をかきつつ、「いやぁ、勉強が嫌いだったかららしいよ」と返した。
勉強が嫌いで日本へ渡るとはこれ如何?

大叔母と違い、祖母は勉強が大嫌いだった。人から何か指図されるのが苦手な性分だったのもあるだろう。

いまも昔も学校というシステムは、問いを立てるためのひらめきを発芽させる場ではなく、既定の結論を集積していくことを目指している。これが祖母の神経を逆撫でに撫で続けたようだ。

ある日、忍耐の限界が訪れた。下校途中に教科書を“ええい、ままよ”と川に投げ入れた。彼女は高笑いのひとつもし、せいせいしたことだろう。しばらくして、はたと気づいた。

「このまま家に帰ったら家人に怒られるな」

そこで祖母は出奔した。

叔父の知る限りの祖母の来日の経緯は、実にこういうものであった。てっきり祖父と連れ立って日本へ来たのだと思っていた僕は、ドラマ性のあまりのなさに拍子抜けした。

帝国の周縁から中心への労働力の移動というトレンドをものかは。女学生の思い立ったが吉日の家出は、玄界灘をあっさり越えた。その健脚快足恐るべし。

それが祖母の表向きの、いわば正史であろうが、稗史のほどはわからない。語られ得るものだけが語られた。

では、彼女の語る正史に名を連ねる祖父とはどこで出会ったか。
祖父は僕が生まれる遙か前に亡くなっており、その人となりも来歴も不明だった。

祖母の来日の経緯を知る以前、僕は祖父の生まれた村を単身訪ねたことがある。オリンピックから3年経った1991年のことだ。

ソウルで生まれ育った祖母と異なり、祖父は慶州北道の寒村に生まれた。村の番地にいちばん近いバスターミナルに降り立ったものの、目指す村に向かう交通手段がない。

とりあえず一息つこうと喫茶店に入ると、隣席の男性が日本語で話しかけてきた。僕は「祖父の生まれたところを見たくてやって来た」と答えると、「名前はなんという?」と尋ねた。

紙にハングルで名を書き付けると、彼は電話帳を持って来、しきりにページを繰り始め、やおら立ち上がり何ヵ所かに電話をかけ始めた。誰かとひとしきりしゃべった後、席に戻ると僕にこう告げた。

「おそらく君の親族と思われる人に電話をした。いまタクシーも呼んだから、それに乗って行きなさい」

このてんこ盛りの親切、いかにも韓国だな。そう思った。

あの優美で、ジャパナイズされたに見えた大叔母にしてもそうだった。
彼女の家に滞在した初日、「食事は何が好き?」と聞かれ、「プルコギ!」と答えたところ、それから二日間、毎度の食事が焼き肉だった。たしかに美味しかった。しかし、限度というものがあろう。

二日目に入り、さすがに肉に飽き、箸も進まない様子の僕を見て、大叔母は「肉が好きだと思ったのに…」と悲し気な顔をした。

「さしも知らじな 燃ゆる思ひ」は秘すればこそ花ではなく、彼の国では満漢全席で示してこそ華なのだ。

ともあれ喫茶店にたまさか居合わせたおじさんの贈与のような好意によって、僕は尹一族の村を訪れることができた。

村にいたる山間の道はまったく舗装されていなかった。車は速度を緩めてしか走れず、ところどころ開いている穴にタイヤをとられ、車体は跳ねた。

山道を上り切ったところで目前に半月の湖が広がっていた。湖のへりに田畑がわずかに広がる、貧しい村だった。

出迎えてくれた一族の男子は、京都にいる叔父連中と同じく、耳まわりを残すのみの禿げ方を全員しており、後ろから見たら誰が誰かわからない。トランプの神経衰弱だったら全部当りだろうなと、そこに僕は一族のDNAを感じた。

尹氏一族の住む村の様子とソウルでの大叔母の暮らしから当時を連想するに、祖父母の結婚は身分違いの色合いが濃く、当時の韓国であれば到底かなわなかったろう。

祖父の来日は、貧しさからの離村であったろう。出自の異なるふたりがどのような経緯で知り合い、結婚にいたったのかわからない。そもそも祖父母の結びつきが、いま僕らが思っているような婚姻であったかどうかもわからない。

ものの弾みの道行きだったと息子らに断片的に語った祖母の来日に関する物語は、額面通りに受け取ることはできない。真偽の程はわからない。それだけが確かなことだ。

自分で食事をつくったこともない。お金を稼ぐ手段ももたない。
生きるための方法を身につけることなく、生身を世間の風にさらした結果、ムダに痛苦を刻むことになってしまったものか。

大本教の開祖、出口ナオは赤貧洗うが如しの暮らしの果てに人知の及ばぬ世界を覗き込み、「三千世界一度に開く梅の花 艮の金神の世に成りたぞよ」と神懸かりの言葉を発し始めた。

貧寒の底をさらう生活をし、「朝鮮人に貸す家はない」と家を叩き出されたりするような痛苦を味わう中、人事の約束でできあがった世界の縁に立ったとき、祖母はシャーマニックな力を目覚めさせたものか。

彼女が初めて語った託宣がなんであったか。知り得るものなら知りたい。