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ワンダーランド駅で

久方ぶりに「ワンダーランド駅で」を観た。

この映画を知ったのは数年前。友人宅を訪ねたとき、彼は煙草をくゆらせながら最近観た中では「ワンダーランド駅で」がお気に入りだと言った後にこう続けた。

「考えてみると、そう悪くないもんだよ、孤独っていうのはね…、孤独とは何と優雅で穏やかなんだろうと思うよ」

ワンダーランド駅ですれ違う男女の物語。
ふたりの恋が始まるまでを描いているようにも見えるけれど、たぶんそれだけじゃない。

フィルムの中に描かれたストーリーを追う中だけには現れないような、妙に余韻の残る映画だ。
余韻というのは、言葉にすると陳腐だけど、孤独の持つ妙味だ。

孤独を埋めるために人の優しさと理解を得ようと努める無邪気な人たちが本作には現れる。
知らず知らずのうちに彼ら彼女らは「何か」を求める。 それが何かはわからない。 愛でも信頼でも承認でもあるような「何か」だ。

見返りを与えてくれる“誰か”は誰であっても構わない。 孤独を埋めてくれるのならば、誰でも構わない。
その構わなさの間口の広さが期待への応答として錯覚できる。それを運命の人と呼ぶのだろう。

けれども孤独は寂しさだけとはつながりはしない。 孤独の持つ静けさは、穏やかさでもある。

穏やかさは保とうとして保持されるものではなく、私の静けさの中で保たれるもので、それは壊れやすく弱く見えるから、積極的に評価されることはない。

心に宿る孤独さから自己の理解を求めることは、間違ってはいないが、 間違っていないだけに曰く言い難い何かを感じる。

孤独の穏やかさで得られた充実感を誰かに伝えたい。これは承認というような一方的な理解を求める行為ではなく、 つながり、橋を架けたいという思いが根底にあるはずだ。 架橋の良さは、互いが行き来できるところにある。

ワンダーランド駅は寓話に出てきそうな名前にも思えるけれど、 ボストンに実在する。

そこはいろんな人が行き来する。 そういう場所で出会うべき人同士が出会う。
その出会いは“そう”としか言い様がないのだから、 わざわざ運命と言わなくてもいいだろう。
幸いとはそういう図らずも舞い降りる時のことを指すのかもしれない。

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美しい日本語のその理由

「おまえのお祖母さんは、昔お嬢さんだったんだぞ」

父はなんどかそういったことがある。
ふだん無口な父が酒を飲み、珍しく饒舌になってはしゃいだ折りの話なものだから、てんで相手にしていなかった。

ホラにしか聴こえなかった訳はそれだけではない。
祖母は字が読めず、炊事洗濯などの家事が一切できなかった。口の利き方も乱暴で、どうしたって「良家のお嬢さん」に見えない。

そうやって判断する僕は、ずいぶんこまっしゃくれた子どもだった。

なにせ両親の意向で進学塾に水泳、習字、算盤と週5日の習い事に通い、知識と教養を身につけることによって、一人前の、つまりは日本社会に参入できるだけの近代市民に成ることを期待されていたのだ。
その目からすれば、祖母をはじめとする親戚の日本社会の階梯秩序に参与しない振る舞いは野卑であり、ひっきょう朝鮮的なるもの=野蛮として映じて当然だった。

だから親戚一同の介する法事が苦痛でならなかった。
祭祀は儒式で行われる。ベルトリッチの『ラストエンペラー』で幼い溥儀が初めて文武百官の前に姿を表すと、広場に居並ぶものが三跪九叩頭をするが、ああいう類いのものだ。

床に額ずく行為を終えた後、食事をする。何を生業にしているのかわからない叔父たちが酒で顔を赤らめ、猥雑な話に盛り上がり、「将来、おまえは何になるんだ」などと絡んで来る。

法事に参加できるのは男のみで、叔母たちは台所に引っ込んでいる。膳を運ぶ手伝いをしようものなら「男がそんなことするな」と叔父らに叱られる。

当時の僕にとっては、これらすべてが“土人の習俗”に思えてならなかった。
男たちは祖母を上座に胡麻油と唐辛子の効いた料理に舌鼓をうち、僕は強い刺激しかもたらさない味に淡いを感じず、舌打ちをする。

不機嫌そうな僕のもとに祖母がやって来、何やら話すのだが、韓国語と日本語が絶妙にブレンドされた独特の言葉で、何を言っているのかわからない。
押し黙った僕の髪をしきりと撫でる祖母だが、内心言葉の通じない辺境に流された気分だった。嗚呼、なんという嫌なガキだったろう。

祖母が亡くなって10年経った1997年、ちょうど働いていた小さな新聞社でリレーインタビュー企画を担当していた。
その頃、「新しい歴史教科書をつくる会」という組織ができ、意気軒昂であったことから「歴史認識と日本人」というテーマで様々な見解をもつ識者の方々に意見を聞くコーナーを企画した。
色川大吉さんや櫻井よし子さん、鈴木邦男さん、吉田司さん、村井吉敬さんといった方々に登場いただいた。

そういう仕事をする中で、はたと気づいたのは、「大文字の“歴史”について知ることは増えても、いま僕がここにいる原因になっている祖父母について何も知らない」ことだった。

亡くなった母方の祖父母、親戚とは後に書くこともあろうが、やんごとなき理由で縁がなくなっていた。そこで僕は父方の親戚に聴き取りを行うことにした。それには長兄がよかろうと夏の盛りに京都を訪ねた。

叔父はアルバムをいくつか用意してくれていた。叔父が明かしてくれた祖父母の来日の背景はこういうものだった。

祖父と祖母は一緒に日本へ来たのではなく、日本で知り合った。
ふたりとも1930年代初頭に渡日したらしい。
祖父は水呑百姓の貧乏人であったが、祖母は金持ちのお嬢さんだった。

ここに来て「金持ちのお嬢さん」のキーワードに「またか」と思い、「これは尹氏の都市伝説なのか?」と怪しんだのだが、叔父に渡されたアルバムをめくって驚いた。

白黒の古びた写真に写っていたのは、祖母の親族で警官やスーツ姿の人たちがいた。
植民地時代に治安維持ならびに行政に携わることのできた人というと、ありていに言えば「親日派」であり、年代にもよるだろうが、地主をはじめとした富裕層だと聞いたことがある。

「当時の親日派といえば、売国奴の響きに近しいもので、そう誉められたことじゃなかったんだろうな。親日派の走狗の末裔か」などと苦笑いしつつ、アルバムを繰っていると、叔父がいう。

「お祖母さんは昔、“買物に行くときはお付きの人と一緒に行った”と言っていたよ。それなりの良いところのお嬢さんだったみたい。実際、お祖母さんの妹さんは女学校に行ってたしね」

叔父の話を聞いて、忘れかけていた記憶が蘇った。

1981年、生まれて初めて韓国へ行った。
前年、朴正煕大統領が暗殺され、全斗煥がクーデタを起こした。光州事件もあり、南北関係も緊張しており、政権の帰趨については予断を許さない状況だった。

日本に帰国後、父は「いやぁ、捕まるんじゃないかと内心ひやひやしていた」と漏らした。
父は若い頃、朝鮮総連の専任活動家であったから、反共が国是の軍事政権であれば逮捕拘束もありえるのではないかと思っていたという。それなら家族を連れて行くなよという話だが。

韓国を離れる前にソウルに住む祖母の妹、大叔母の家を訪ねた。
出迎えてくれた大叔母の祖母とのあまりにそっくりの容貌に、いつもの祖母を思い出し、少しうんざりした。大叔母は僕にこう言った。

「こんにちは。はじめまして。よく来てくれましたね」

大叔母の家は、鉄扉を開けると前庭が広がり、そこに陶製のキムチの甕がいくつか据えられており、昔ながらの韓国の住宅だった。

彼女の挨拶の言葉を家内のどこで聞いたか思い出せない。
家の様子を詳細に思い浮かべようとすると「こんにちは。はじめまして。よく来てくれましたね」の言葉がたなびくように表れる。想起された景色の中にその言葉の涼しい音色が溶け込んでいく。

僕はこの年になるまで、あれほど美しい日本語を聞いたことがない。
風貌は祖母に酷似しているが、話し方、立ち居振る舞いがまるで違っていた。身のこなしのひとつひとつが優雅だった。

当時、日本人でも女学校に通う人は稀だった。
大叔母の言葉は、学校の中で身につけられたものであったろうが、それは教科書やNHKのキャスターの話す平板さを標準にしたものではなく、折り目正しさを踏まえつつ、「よろしくてよ」「ごきげんよう」などと言ったり、「今日、あんみつ屋に寄って行かないこと?」などと話していたのかと、うっかり連想させるような振れ幅のある話しぶりだった。

そうして僕は気がつくのだった。祖母が家事をうまくできなかったのも当たり前だと。
周囲のものが世話してくれたのだから、自ら行う必要もなかったのだ。

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成島柳北について

幕臣、成島柳北が好きだ。
柳北をふと思い出したのは、先週熊本城に行った際、天守閣から四方を眺めるうちに、「そういえば鎮台兵が熊本城に籠城していたのだな」「田原坂はどちらの方角か知ら」と思ったことと関係している。

山田風太郎の小説では、柳北は騎兵奉行なのにやたらと落馬し、パリに遊学しても遊郭通いに熱心だった人物として描かれている。
惰弱で卑俗な人だったかというと、そうでもないようだ。

実際、幕府初の近代式編成を行った陸軍「伝習隊」を指導するため、 フランスから来日したシャノワーヌ大尉やブリュネ大尉(戊辰役に参戦し、「ラストサムライ」のモデルになった)にとても慕われたというから、洒脱だけではない骨の持ち主だったのだろう。

その風貌からも何となくうかがえるけれど、風雅を知る聡明な人柄だったようだ。

5年前の夏、国会図書館に連日赴き、明治7年に刊行された柳北主幹の「朝野新聞」を調べていた。

日本のジャーナリズムを立ち上げたのは、栗本鋤雲や福地源一郎をはじめ下野した幕臣が多数を占めている。
柳北も幕府瓦解後、文部卿のポストを用意されるもこれに応えず、隠棲していた。

彼が新聞業界に足を踏み入れたのは、 徳川慶喜の小姓だった某が落魄。市中で乞食となった姿を見かけ、愕然としたことがきっかけだったという。

当時、僕が朝野新聞の記事を調べていたのは、柳北が「西南戦争」に関して報じていた「西報」についてだった。(のちにこの調べものは、『唯今戦争始め候。明治十年のスクープ合戦』に反映されました。とてもおもしろい本です)

西南戦争の重要性は、日本近代最後の内乱ということだけではなく、その後の戦争報道のあり方を決めた意味でも象徴的な事件だ。

新聞各社は当時最先端の通信技術であった電報によって速報性を確保し、現地に記者を送り込んだ。
いまでもそう大差のない報道スタイルがこのときにほぼ確立した。

ちなみに記者よりも更に前線で情報を収集する人を「戦地探偵人」という。後の首相、犬養毅は若い頃、慶応大学の学費を稼ぐため、西南戦争時に郵便報知新聞の戦地探偵人を行っていた。

さて、柳北はといえば、メディアがこぞって戦地報道に全力を投入している頃、九州へ向かうどころか、京都に腰を落ち着けた。

そこでのんびりと暮らしながら 「探偵人の○○によれば」といった風聞や「西郷軍の兵士の手記」からの引用と称する出所怪しい記事を書き飛ばす。はては「官軍の将校が戦死した」といった誤報をけっこうやらかしている。

それでいて芸妓遊びに余念がなく「嗚呼、いまの京都には風情がない。昔はよかった」とか「なんだか毎日退屈だなぁ」といった雑感、暇ネタをしきりと書いている。 さぞ末広鉄腸はじりじりとしたろう。

過熱していく戦争報道を横目で見ながら、あまりに超然としている柳北の人を喰ったような態度。マイクロフィルムを繰りつつ僕は笑ってしまった。 誤報は意図的ではないかとさえ思えてきた。

ときに思い出したかのように詳細な地図入りの熱心な記事を書くのだけれど、
それが「講釈師、見て来たようにものを云い」な感じに見えて仕方ない。

彼には戦争報道のセンスがなかったように思える。しかし、それだけではなかったかもしれない。

前田愛のものした柳北の評伝などを読むとわかるのは、柳北は江戸の育んで来た文化をこよなく愛しており、それを一切価値なしとして破砕していく近代文明と覇道を予感させる政府のありように非常に違和感を持っていたということだ。
実際、明治8年、新聞紙条例、讒謗律が既に成立しており、柳北も明治9年、言論弾圧により投獄された。

柳北からすれば西南戦争とは文明の本質を問うことのない、ただの覇権争いでしかなく(薩軍の掲げた「新政厚徳」の何たるかはついぞ明らかにされなかった)、およそ関心の向かうところではなかったろう。

山田風太郎が『警視庁草紙』の終盤で駒井相模守と川路利良警視総監との文明をめぐる議論を書いたのは、柳北を思い浮べ、彼の恬淡に何かを見出したのかもしれない。

僕が西南戦争の報道記事を読んで感じたのは、メディアの西郷に倦んでいる様子であった。
維新の最大の功労者と目された人物が薩摩という旧時代の枠組みをついぞ破れないことへの鼻白む思いと、為政者の尻馬に乗っての放言半ばするところが行間に滲み出ていた。

城山の陥落にあたって、犬養毅はこう報じた。
「天既に明け、戦全く止む。諸軍喧呼して曰ふ。我西郷を獲たり、我獲たりと、而して西郷の首果たして誰が手に落つるを知らざる也。(中略)国家の旧功臣が死せるの日に悲しまざる可からず」

「賊平定」の一方で西郷の首は不明とする報道が続いた。西郷の死の二日後、柳北はこう書く。「天に西郷の星有て地に西郷の首無し」。この記事をきっかけに「西郷は生きている」とする「西郷星」伝説が生まれる。

薩賊、国賊と権力の規定するままに嬉々として報じて来たメディアはこんどはこぞって西郷星を取り上げる。
賊と規定した眼差しを疑うこともないままに、フォークロワに事寄せた英雄視然とした論が述べられるようになる。

明治の頃からメディアの特質、というよりも宿痾は変わっていない。
そう思うと柳北の韜晦に見える姿勢は、事象を対象化することの罠について暗黙のうちに語っているようにも思えるのだ。

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祖母はシャーマン

京都は北大路といえば羅城の外であり、往時であれば鬼の棲むところであったろう。
父方の祖母が北大路に住んでいた。

いまではずいぶん開けきれいになったが、幼い頃、盆と正月に祖母の住まうアパートを訪ねれば、近くにあった大学の窓が常に破れたままであり、いつまで経っても手当てされないところに落魄の匂いを嗅いだ。

祖母と母はたいへん仲が悪かった。
祖母には「かわいい息子を取られた」という思いが強烈にあったようだ。

息子の息子たる僕からすれば、どの角度から見れば父のことが「かわいく」見えるのか皆目見当がつかず、そんな見方があればぜひ特許を申請したいくらいなのだが。げに贔屓目というのは恐ろしい。

両者の軋轢が本格化したのは、母が膠原病になったことを受け、祖母はいたわるどころか「身体の悪い嫁などもらうものではない」と詰ったことにあった。

だから盆と正月の帰省は、プロレスでいえば前田日明VS佐山聡みたいなもので、ギスギスしたガチンコが毎度繰り広げられていたのだが、父はといえば妻の味方になるどころか、祖母を庇うというマザコン丸出しだったから、そりゃ母もムキーってなりますわね。

さらに問題は、祖母は数多い孫の中で僕のことを異様に可愛がったことにある。祖母が目を細めて僕を撫でたりしようものなら、母の相貌は歌舞伎の隈取りもかくや!というほど、たちまち嫌悪に彩られ、僕はその形態変化によって「怖気を震う」という表現を体感で知ることができるようになった。

そんな母であるからして、僕と祖母との話が少しでも弾もうものなら、母は父や祖母にわからないように、僕の股をそっときゅっとつねる。

「和気あいあいとしてんじゃねぇよ」ってなものだろう。

そこで無愛想な顔をすると、今度は父が苛立つ。大魔神みたいに怒る。幼くして僕はダブルバインドの何たるかを知った。どないせぇっちゅうねん。

祖母と母、互いに直接会話をしないまま息の詰まる時間が過ぎ、ようやく帰り支度を始める段になると、祖母は決まって仏壇に供えていた干菓子をくれた。
干菓子には線香の匂いが焚き込まれており、およそ食欲をそそるものではない。

それよりも気になったのは、仏壇には阿弥陀如来なのだろうか。金色を背景に青や朱で描かれた仏画が飾られていたことだ。
菓子に手をつけかねたのは、鼻を衝く香が薫じられたこともあるが、毒々しい姿の仏に捧げられていた供物を敬遠する思いがあったからだ。

そしてときどき帰り際に父が祖母に言うのだった。
「拝むのもたいがいにしときよ」

 

祖母はシャーマンだった。
そのことを知ったのは、祖母が亡くなって10年経ってからだった。

母の死の半年後、永遠のライバルを失ったことに意気消沈したものか祖母も後を追うように逝った。
祖母の死から10年。なぜ祖父母が日本に来たのか知りたいと思い、親戚に聴き取りを行っていた。その話の途中で露見した。

祖母の息子、娘たちは、彼女の神懸かりになっての卜占を恥ずかしいことと捉えており、周囲をはばかりあまり明かしていなかった。

韓国には巫堂(ムーダン)と呼ばれる祝巫がいる。日本でいえばイタコ、ユタにあたるだろう。

祖母は生粋の巫堂だったわけではない。40歳を越えたある日、突然「神の声」が聴こえるようになったという。それから京都に漂泊していた巫堂のもとで修行し始めた。

6畳一間で障子のほかに壁はない極貧の生活の中、彼女に訪れた「声」は何を囁いたのかわからないが、ドラマティックに言えば大本教の開祖、出口なおの帰神にも似ていると言えるし、ありていに言えば根本敬の提唱する「電波系」かもしれない。

ともかく祖母は占いをたつきの一部とし始め、叔父の話すところによれば、「両手に包丁をもち、輪舞しつつ、最後は包丁を投げた」というから、カルチュム(剣舞)に近いものだったのだろう。
本来は剣をもって舞うところ代用品として包丁を使い、踊りつつトランス状態に入って行った。

クライマックスで包丁を投げるといった、忘我に神を見るエクスタシーも叔父には、「また投げよるわ。ほんま危ないなぁと思っていた」というおよそ文学的修辞を介さない感慨しか与えていなかった

霊感によって神を感知した祖母の言葉に周囲が感染していく。そんな厳かさは微塵もなく、民間の巫堂にふさわしく、雑多猥雑な雰囲気の中で行われたようだ。僕が見た仏画も本来の阿弥陀如来とは違った、雑密に近い立場から描かれたものだったかもしれない。

もとよりシャーマニックな荘厳さもスピリチュアルな清浄さも祖母の生きる空間には絶無だった。
雨が降れば辺りはぬかるむ、いわゆる不良住宅地である長屋の密集する朝鮮部落は被差別部落と隣合わせに位置した。

話は逸れるが、京都は部落解放運動が盛んだったが、差別も厳しいという印象がある。一度、母方の祖父母の住むKという町に向かうべく、タクシーに乗ったところ「Kには入りたくないから町の入り口で降りてくれ」と言われた。

生まれながらに貴いとされた上御一人がいる限りは、生まれながらに賎しいとされる人たちが措定されるのだ。

父の証言によれば、隣接する部落の人が一度、界隈に牛を連れて来、その場で捌くのを見たことがあるという。仕事から帰って来た人たちが集まり出し、酒を飲み、肉を食べ始めた。

鉄火場も開かれたようで、僕は炭の炎にてらてらと光る顔が夕闇の中に浮かぶ様子。博打に興じ、喋々喃々と話す光景を思い浮べる。
きっと男たちの飲んでいた酒は、祖母の濁酒だったろうと想像する。

祖母は卜占のかたわら濁酒をつくり、売っていた。警察が周期的にやってきては、密造酒の入った瓶を割る。
毎度「止めてくれ」と祖母は哀願し、警官の腰に巻き付いたが、酒は無惨に路地に広がり、しみて行く。祖母は哭いた。

そして翌日から祖母はまた酒をつくり、踊り、神の声を伝えた。
占いはと言えば、それなりに当ると評判だったようだ。

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熊本探訪

 7月10日から12日まで熊本を訪れた。

熊本といえば、坂口恭平さんを初代総理大臣とする新政府がこの3月に誕生したわけでw、もっとも日本で熱い地と言えましょうて。

新政府の根拠地であるゼロセンターに宿泊し、坂口さんの活動について聴き取りを行った。

このブログには、このところ七尾旅人さんや坂口さんの名が頻出している。

彼らはメディアを舞台にした、ラリーのごとく飛び交う言説—それは多くの場合、装填した知識を照準あわせて撃てば正解に到ると信じられている代物ーをよそに、移動しつつ思索している。
いや、正確に言えば、移動と思索がわかれていない。どういうことか?

<如是我聞>
ASIMOの開発にあたっては、当初積載したコンピュータによる計算と歩行をリンクさせようと試みたところ、初めの一歩を踏み出すまでに数時間を要したそうだ。

前方に広がる空間に段差はあるか。傾斜はどれくらいか。障害物はあるか。あらゆる可能性を計算した挙げ句、ようやくロボットは一歩を踏み出した。
技術者たちは情報を収集し、計算してから歩いている。人間の歩行をそう捉え、そのモデルをロボットにあてはめようとしたが不首尾に終わった。

そこでコンピュータを外し、人間の骨格に限りなく近いモデルをつくったところ、歩行はすんなりできた。

足首、膝、股関節は稼働領域が決まっている。確定した構造は、稼働域内で動く。それがスケールとなって外界を計算している。構造に導かれ、一歩を出せば不安定さを安定へと移行させようとして次の一歩が出る。

ここには正解に向けた運動はない。ただ移動の中で妥当な動きが自ずと現れた。

 

いま七尾さんは、被災地と非被災地の別なく全国を旅し、その道程で生まれた曲を歌っている。吟遊詩人たちが土地の物語を歌い、そしてまた歌う中で新たな物語を紡いだように、移動の中で創作を行っている。

そして坂口さんは東京から熊本に移住し、アートワークとして新しい政府をつくった。
これは原発も被曝した住民も置き去りにした政府を倒すための反体制運動ではない。

カウンターは相手あっての行為だ。新政府構想は、おそらく予め達成された革命後の世界に一方的に乗ることで、意識を変革させようとする試みだろう。

現行政府は、多くの生命をすり潰す無為無策を現実的な政治だと思っている。
ならば、現状の政治が規定する現実とは別の現実を構成し直すことで、誰もが生きられる世界を構築する。それが彼の考えだろう、か?

僕はいま注意深く、息を凝らすように彼の活動に目を注いでいる。

7月12日、Twitterで坂口さんはこうツィートしている。
「あなたが働いている会社も、苦労して買った土地も家も、貯めているお金も、税金を払っている国も、みんな幻である。年金なんか払ったとしてももらえる訳がない。税金なんか払っても被災地に提供されない。実像であると思わせるために必死に幻に色を塗っているペンキ絵の世界と僕は付き合っている」

「でもこの社会システムの中で直接的に全てをやめて新しい社会を作るなんて何年かかってもなかなか実現できない。だから、現政府と同じ時間、空間の中に新しいレイヤーを作り出し、新政府というものを発足したのである。それを違うレイヤーでやっているのが路上生活者たちである」

熊本の街を坂口さんと共に歩いた。

メープルシロップの缶のデザインに「かわいい」といい、ラトビアのデザイナーの服に「かわいい」と嬌声をあげるなど、互いがオリーブ少女ならぬオリーブ好き野郎だと知ったことはご愛嬌。

街の案内によって僕の知ったこと。

たとえば、ほかの人には薄汚く見える店があったとする。「実は、よそが真似できない味を提供できる隠れた名店」はgoogleで検索できるだろう。

店のたたずまいは、そこに集う人の思惑や意図を含んで空間の厚み、つまりは雰囲気を醸成している。存在の存在性を発光している。
発光は検索できない。人がそこに足を運び、感知するほかない。

拡散していく存在性、空気、atmosphereに感化され、そこかしこで立ち上がり始める。それが文化だろう。

感知は投網を打つことに似ている。目前の街に自分の感性の網を投げる。すると星座を見出すことができる。僕にしか見えない絵が見え始める。絵同士のつながりが見え出すと、物語が始まる。

そのとき街は、カタログスペックのような情報の集積や描き割のように見えた味気ない景色ではなく、「つながりを見出す」という自己の関わりなくして始まらない出来事となる。

関わりとは積極性であり運動だ。街は僕の足の運びに従って感受される。移動なくして存在しえなくなる。

街の消費情報の座標系に配置されたポイントを渉猟することが生活だと思わされてきた。それが社会を生きることなど長らく思わされて来た。

モバイルを携えても検索できるのは、他人の提供する既知の穏当な情報だけだ。自身が移動体、モビールでなければ見えない風景に満ち満ちている。

不可視のものを見る。それが本来の生活世界というものだろう。