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自叙帖 100%コークス

彼女について私が知っている二、三の事柄

実家の隣には、ドイツ人が住んでいたと前回書いたが、近所付き合いのあまりない我が家には珍しく交流があった。
彼女の名はユターリヒャといい、交通心理学のプロフェッサーだった。

巷間「日本語は物事を曖昧にする言語」と言われる。
かりに日本語の特徴にそのような傾向があったとしても、言語は器である以上、使い方次第なのだなと、僕は彼女と接する中で大いに気づかされた。

ユターリヒャは曖昧さを許さなかった。厳密な手続きにしたがって言葉を話すことをたいへん貴んでいた。

たとえば、何か話をしていて、結語に「まあ、そんな感じがしたんです」などと言おうものなら、

「“そんな感じ”とは、どういう感じなのか?」
「なぜあなたはそう思ったのだ?」

と問いを重ねて来る。

「まあ、そんな感じがしたんです」
「なるほどね。ああ、なんとなく“その感じ”わかりますよ」

などというヌルい会話は許されなかった。

彼女にとって会話とは物事の筋道を明確にすることであり、親密な間柄であっても互いの相容れなさを明瞭にすることを辞さない。

その自我の硬さ、骨太さに、幼いみぎりより硬水を飲み、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの三段跳びの鍛錬を日夜欠かさなかったものかと、ドイツで暮らしていた折りの彼女の姿を僕は夢想するのだった。

だからといって理知の輝きに彼女が全面的に覆われていたわけではなく、ときに自己を肯定せんがための、梃子でも動かぬような論旨を持ち出すこともあった。

しかしながら僕が辟易としたのは、そういうところではなく、「世界に冠たるドイツのすばらしさを述べずにはいられない」という彼女の性向だった。
彼女はドイツのリサイクル状況や工業デザインの洗練具合についてしばしば話した。

前者の環境施策については1980年代の日本とドイツのそれを比べれば、お話にならないほどの差があったし、サステナビリティに関しても、いまだ雲壌懸隔はなはだしい。

後者についてはどうか。
いまでこそオリジナルの自負もあり、中国や韓国の工業デザインを日本のそれのパクリなどと非難する向きも大いにあるが、つい先頃まで、たとえば自動車のデザインなど1950年代、60年代のヨーロッパ車そのままのものが溢れていたことからすれば(トヨタ・セリカなどアルピーヌA110まんまだ)、日独の比、月鼈雲泥の如きであった。

ともかくドイツ・アズ・ナンバーワンのユタリーヒャは、父がボルボを買ったときなど、自動車メーカーごとの事故に関するデータを披瀝しつつ、「なぜBMWを買わなかったのか?」と言い出す始末だった。

あれは1991年だったか。ベルリンでベトナム人がネオナチによる放火で殺された事件があった。
事件の数日後、彼女の家に夕食に招かれた。ドイツのすばらしさを常日頃喧伝する彼女に、「いまのドイツ人にとって、ナチの記憶は過去のものになったのではないか?」と言ったところ、彼女はナイフとフォークをテーブルに置くと、「そんなことは断じてありえない。真実を見失うわけにはいかない」と激しい口調で断固否定するのだった。

彼女の打って変わった様子に驚いた。過去に関しては「徹底的にダメなドイツ」という評価しかなかったからだ。
その激しい語気に彼女は「恥」ということについてある時期考え抜き、それ以後、何か心に期することがあったのではないか。そう感じた。

僕がナチについて意識したのは、ユタリーヒャに出会う遙か前の幼稚園の頃だ。
8つ年上の親戚がミリタリーマニアで、部屋に飾っていたSS(親衛隊)の制服や手を掲げ、足をまっすぐに伸ばして行進する兵士らの写真を見た。

子どもながらそこに禍々しさと恍惚ないまぜの、ともかく迂闊に他言してはならないような気持ちの起りを感じた。

その年の冬、母は僕にシルバーグレーのコートとショートブーツを買い与えた。すっぽりと身体を覆うコートとピカピカ光るブーツ。僕は玄関で誰にも見られないよう、あの写真で見たような動きを真似してみた。

カツカツと玄関に敷いた石を規則正しく刻む音。自らの振る舞いに総毛立った。
それは断片的であれ、ホロコーストについて話す時の大人たちの嫌悪に満ちた顔つきからなにがしかを察知していたからこその反応だろう。

小学校に入ってから、意識的にナチに関する文献を読むようになったが、ずっと避けていたのは、レニ・リーフェンシュタールの作品だった。
近年書評を書くために見ざるを得なかったのだが、幼いときの感覚があながち誤っていなかったことを確信し、それだけに「ゴールデン・ボーイ」を思い出し、怖気を震ったものだ。

東京に来てからは、ユタリーヒャと会う機会もめっきり減った。彼女について思い出すようになったのは、クラウス・コルドンのベルリン三部作、とりわけ最終作の『ベルリン1945』を読み、主人公エンネがユタリーヒャと同じく、1945年に12歳で敗戦を迎えたと知ってからだ。

『ベルリン1913』『ベルリン1933』『ベルリン1945』は、どれも大人から子どもまで読めてしまう平易な文体で綴られ、一度ページを開くと、活き活きとした描写に目が離せないほど引き込まれる。

だからといって、一気に読めてしまうようなわかりよい話ではなく、ときに息を詰めて走り抜けるように読まざるをえないところもあり、そんなときは苦しさのあまり、思わず本を置いてしまい、コーヒーを沸かしたりして、読み終えるまでに何度も気持ちを落ち着かせる必要があった。

おもしろいが悲しい。悲しいけれど悲しい気持ちにだけさせるように悲しく描いていない。

主人公、エンネは叔父であるハンスの恋人だったユダヤ人のミーツェからこう聞かされる。

「ハンスが死んだとき、あたしはとても恥ずかしかったの。(略)あたしは恥ずかしさと怒りから抵抗運動に加わったの」

悲しませようと書かれてはいない。
けれども「恥ずかしさと怒り」というくだりを読んで、どうも堪えきれなく文字が滲んでしまったのは、「恥と怒り」という身体のうちに激しい感情をこもらせてしまうほどの周りで起きている暴力の惨たらしさと、人は痛めつけられ過ぎると本当にダメになってしまい、進んで自尊心を手放し、痛めつける側にまわってしまう。そんな現実に打ちのめされたせいかもしれない。

ユタリーヒャの周囲にも痛めつけられ過ぎた人たちがいたかもしれない。あるいはザビーネ・ライヒェル『目に見えない傷痕』やヘルガ・シュナイダー『黙って行かせて』に綴られたようなことを身近に聞いたかもしれない。

現実は一筋縄ではいかないのは、過ちに塗れた現実を改変する処方箋は「勇気をもって立ち上がる」ではないところだ。 コルドンは作中人物にこう語らせる。

「暴力を終わらすには暴力がいる。必要悪だってわけだ。だけど、ルディさん、それじゃあ暴力は終わらないぜ。暴力はつづく。スターリンとともに。赤のルーケと共に。世界を幸福にする方法をちゃんと知っているのに、それを暴力で解決しようとするすべての人間と共に」

希望と共に生きなければ、到底生きては行けない局面もある。
けれども、生きのびた私の希望が誰かの生きる望みを挫きもする。 この連鎖を断ち切るのは、本当に困難なことだ。

レイシズムに満ちた言説が横行するようになった昨今、ユタリーヒャに聞いておきたいことがある。
僕はそんなふうに思うようになっている。

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雑報 星の航海術

MAMMO.TVについて

今日は僕がインタビュアーを務めている「考える高校生のためのサイト MAMMO.TV」について書きたい。

というのも、このところ「MAMMO.TVを読んでますよ」という声をネットで、あるいは直に聞く機会が増えているからだ。2001年にスタートして以来、「読み手に求められている内容になっているだろうか」と悶々としたこともあっただけに、読者から感想を聞くのはとてもうれしい。

サイトを主宰されている古藤晃さんは、かつて河合塾の名物講師として鳴らした方で、「受験勉強だけが人生ではない」との至極まっとうな考えから、若者に向けて情報発信サイトを立ち上げられた。
サイトを見れば一目瞭然だけど、広告がついておらず、それで10年もやり続けるなんてすごいとしか言い様がない。

それにしても年末からいまを見越したように上原善広さん坂口恭平さん七尾旅人さんに取材し、震災後は飯田哲也さん河野太郎さんに話を聞けたのは、とてもラッキーだった。

取材数はもう300人に近くて、それぞれの方に思い出はあるけれど、先日、川本真琴さんの曲を耳にして、寝癖のついた髪で現れたときのことを不意に思い出した。

川本さんのデビュー曲「愛の才能」を聴いたとき、「これは橋本治のいう“スカートをはいた男の子”の歌じゃないか?」と感じた。

“スカートをはいた男の子”というのは、性同一性障害なんかではなく、僕なりの理解でいえば、

「自分が女であることが自明とされていることに関して、そんなのちっとも自明じゃないし、そういう自分をめぐる一切合財の問題を“やーめた”とも言えないところにいることはわかって、でも現実に追い付かれたくなくて、駆け出して、疾走しているあいだだけ問題を追い越せるみたいな感覚」

を保持している少年のことで、それを確信したのは「1/2」だった。

かわりばんこでペダルを漕いで お辞儀のひまわり通り越して
ぐんぐん風をのみこんで そう飛べそうじゃん

このフレーズに感じたことを川本さんに尋ねてみた。
すると彼女は「男とか女の立ち位置に関するルールというのがわからないんです」と言い、「あながち自分の見立ては間違ってなかったかも」と思ったものだ。

サイトが始まった2001年当時、僕にはライターとしての実績はほとんどなく、おまけに口下手であり、インタビューイを盛り上げたり、ウィットに富んだ質問もできない。(それはいまも変わらないけれど)。
ともかくインタビュアーの適性に欠いていたわけで、そんな人間をよく使おうとしてくれたものだ。

コミュニケーションに難点がある自分を知っていたから、質問の精度で勝負するしかないと思い詰めていた。
だから取材前は大宅壮一文庫に行き、取材対象者の発言を片端から調べ、著作があればすべて読み、質問を50個くらい考え、取材の場をシミュレーションした上で臨んだ。

精度というのは、たとえば「何度も聞かれている凡庸なことを尋ねない」「相手がこれまで考えたことがなく、即座に応答できないような質問をする」 といったものだ。

前者については、いつも尋ねられている内容を改めて話さなくてはならない人の気持ちを想像すれば即座にわかるように、退屈きわまりないからだ。
それに、もしも聞き慣れた内容を確認するためだけに取材をするならば、僕は相手の時間を一方的に奪っていることになる。

後者については、「即座に応答できない」からといって嫌味な質問を無遠慮にぶつけるという意味ではない。(ちなみに僕は一度だけ週刊誌で取材記事を書いたことがあるけれど、時事ネタを追う現場では「相手の嫌がる質問」をしなくてはならず、それが大変苦痛だった)

「即座に応答できない」というのは、いわばリターンエースを決めにかかるようなものだ。
特に学者や政治家など特定の見解を口にすることに普段から慣れていて、レコーダーの再生みたいに滔々と話す人がいる。そういうときにハッとさせるような、相手の想定を裏切る質問をひとつだけでもするように心がけた。

笑いが起き、和やかな(あるいは緩いと表してもいいが)応答で時間が流れていくことからすれば、話がふっつりと途絶えてしまう事態の発生は、まごついた、居心地の悪いことかもしれない。

けれども言い淀んだりする中で紡がれる言葉には、滑らかな口ぶりから零れてしまう、伝えようとする気持ちが十全に込められるのではないか。そんなふうに思った。

その頃、僕が仕事に限らず思っていたことがあって、それは「人は偏在して生きざるを得ない。だから、いかに奪わないかの工夫が必要なのだ」ということだった。

取材をするとは、相手に貴重な時間を割いてもらっているわけで、それが収奪にならないためにはどうすればいいのか。

初めて出会った者同士が時間を共有した場で、両者とも思いもよらぬ言葉がそこに現れたのなら、とても創造的な時間になるのではないか。

そのために必要なのは、質問の精度だと思っていたのだが、あるときそれだけではダメだと気づかされた。MAMMO.TVの初期に登場いただいた現代美術作家の森村泰昌さんにお会いしたときのことだ。

いつものように質問を考え、取材に臨んだのだが、インタビューが始まってしばらく経つと森村さんは、質問をしようとする僕を遮った。

「あなたが私についてたいへんよく調べていただいたのはうれしいです。でも、取材というのは質問を重ねていくだけのことではないはず。落語に枕があるでしょう。話のきっかけは天気の話だって何でもいい。そこから次第にほぐれて話が運ばれていくような手順というものがあるでしょう?」

僕は緩やかな離陸ではなく、ハリアーのように垂直離陸をしていたわけだ。

初めて会った同士が信頼を取り結ぶには、「いろいろ考え練ってきた考え」を投げるだけではなく、「この人と話すのは楽しいな」という気分がその場に醸成されなければ、胸襟は開かれない。

森村さんのアドバイス以来、僕は「落語の枕」を念頭に置いて取材に臨んでいる。

実際はといえば、「今日はいい天気ですね。明日も晴れみたいですよ。……じゃあ質問させていただきます」
といった具合で、ぎこちなさには変わりないけれど。

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無陰翳礼賛

故郷の神戸の特徴は、山と海の隔たりが場所によっては3キロほどと、ひどく狭いところにある。

沿岸から東西に走る六甲山系を見ると、彼方に屏風をしつらえたような案配で、紅葉の頃など、芦屋の浜あたりから振り上げれば、紅蓮と朽葉、緑が眼を占め、「なるほど錦繍とはこういうものか」と感じること請け合い。

この構図を古代の人が「ムコ」と読んだのかもしれない。一説によれば、ムコ(向こう)が武庫に転訛し、近世に六甲という字が付されたという。

神戸と言えば観光地として有名だが、ガイドブックで紹介されるのは、勝海舟による海軍操練所設立以後の、近代化された港町としての足跡。あるいは「株式会社神戸市」と呼ばれた時代の産物が大半を占めている。

投網をうって網にかかった獲物を情報とするなら、そんなものは現地に足を運ばずともそこら中に溢れている。
僕らは網目をすり抜ける何かに直に触れたくて旅をする。

街中を目的なく歩く中で現れた路地や坂、寺社仏閣の配置のされ方、流域ごとに変わる地名。そういったものに目が留ったとき、足下の地層を割って土地の記憶がむくりと身を起こす気配を感じるはずだ。
だから、神戸を訪れる人がいれば、土地の孕む蠢動を念頭にそこかしこを歩いて欲しいものだ。お勧めの教本は、たとえば万葉集だ。

大伴旅人は歌う。
妹と来し 敏馬の崎を還るさに 独し見れば 涙ぐましも

柿本人麻呂はこう詠む。
珠藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の先に 舟近づきぬ

敏馬とは、現在の芦屋の浜近くを指したというが、芦屋とはそもそも葦の生える湿地帯をいうのだから、現在の行政上の地図にぴったりと沿うわけではないから、おおまかに神戸あたりの海浜と思えばいい。

いまでは自分の住む街や後背地について、スターバックスやショッピングモールからの距離で考えてしまいがちだけど、そんな産業施設の配布された座標系の上を生きているわけではない。

想像力による解像度を上げていけば、—そう、イームズの「power of ten」みたいに!—行政区分やビジネスによってつくられた平面的な情報とは異なる深度ある情景に出会えるはずだ。

子どもの時分、車がびゅんびゅん通る国道沿いに立てられた「有馬道」の在り処を示す石碑に痺れまくっていた。
それを見るだけでご飯がおかわりできるくらいの心持ちだった。

石碑は古代から都人に知られた有馬に向かう道を記念するものだったが、僕にとっては、失われたインカ道を炙り出すようなサインに見えた。
地中に刺さった石碑の根は旅人や人麻呂にいまなおつながっているように思えたし、いまだにそう思えてしまって仕方ない。

さて今回は、生まれた街について書くはずだったたのだが、ずいぶん前置きが長くなってしまった。
改めて言えば、僕は神戸の魚崎という街に生まれた。5分ほど歩いた川沿いに、谷崎潤一郎の倚松庵があった。

13歳で引っ越した先は岡本といい、新築した家は戦中、高射砲の築かれていた急勾配の山頂近くに位置していたが、奇しくも麓には谷崎の鎖瀾閣が移転されようとしていた。

ここでも谷崎との巡り合わせがあったのだが、あいにく彼の小説とは無縁であり、その頃しきりに読んでいたのは平井和正か大藪春彦だった。
長じてからも手に取ったのは『台所太平記』くらいのもので、それほど彼に思い入れがなかったのだが、つい先頃『細雪』を読んでみたところ、滅法おもしろかった。

以前、知人に自分の育った環境についてしゃべったら、「それは『細雪』のような環境ね」と言われたことがあって、今回読んでみて「なるほど」と、その言い様が腑に落ちた。

『細雪』には、「シュトルツというドイツ人の一家」やロシア人が登場するが、新居の隣には、クライバウムさんというドイツ人のほか、名前を失念してしまったがラジャという小さな娘さんのいるインド人、あとはベルギー領事やスイス人、アメリカ人が住んでいた。

住宅街というよりは、曲輪のような一郭に10数軒の家が並ぶだけの静かなところなのだが、ときおり「おまえ、いまのジャンケン、後出しやぞ!ずるいわ」と遊び興じる子どもの声が聞こえ、そういう子が金髪碧眼だったりしたので、引っ越し当初は驚いたが直に慣れてしまった。(このあたりは『アドルフに告ぐ』っぽい)

後に高校に入ると、区域に中華街の「南京町」があったことから、クラスに必ずひとりは中華学校出身の華僑がおり、教師もドイツ系アメリカ人だとかフィリピン系イタリア人だとか多種多様な民族、国籍で構成されていた。

比べて在日コリアンとの付き合いはといえば、通学時にチマチョゴリを着た学生とときおりすれ違うくらいのもので、まったく「同胞」の友達はいなかった。

父はかつて朝鮮総連の専従活動家であったが、組織の腐敗と「民主主義人民共和国」の表看板とは相容れない体制にほとほと嫌気がさし、組織を離れた。
そういう経緯があるからなのか、在日コリアンのコミュニティから距離を置き、交流をもたなかった。

ただ引っ越した先にアライさんという在日コリアンの実業家が屋敷を構えていて、特に面識はなかったが、彼が唯一身近にいたコリアンだった。

話はそれるが先日、楳図かずお先生のお宅を勝手に見学させてもらったが、マンガを立体にしたような、ファンタジックなお家だった。


アライさんのそれもマンガから抜け出たような“白亜の豪邸”で、前を通るたびに、「きっとこういう家に住みたくてがんばってきたんだろうな」と思ったものだ。

鉄格子の大きな門扉の脇にはアヌビスのようであり、ケルベロスにも見える像が対で置かれ、さらにクドさを怖れもせず三越に置いてあるような、どでかいライオン像がでんと据えられ、門から奥をうかがうと、パティオに向かう廊下にエミール・ガレめいた照明が取り付けられ、さらにはサモトラケのニケ!やアングルの「泉」を立体にしたような彫像が奥に鎮座している。

模造だろうがなんだろうが構いはしない。その痛快なまでの成金趣味にむしろ爽やかさを覚えた。

噂では、アライさんに飛び込みセールスや新興宗教の勧誘を試みた人は、前口上を遮られるや、「まぁ難しい話はええから、うちの庭を見ていきなさい」と自慢の空中庭園を見させられた後、「どや? ええやろ? わかったらそれでええ」と、営業トークはおろか折伏、福音を説く隙も与えられず、ことごとく帰されたという。

父はアライさんのゴージャスてんこもりの趣味を低くみていたが、僕は自宅にあるイタリア製ベンチ式のシューズクローゼットやフランスから取り寄せたというシャンデリアやアール・ヌーヴォー調のソファが、和洋折衷の間取りに配置されているところに、死にたくなるほどの野暮さを感じていたので、(和風モダンとか居酒屋のメニューみたいな趣味はホントに勘弁して欲しい)アライさんのような臆面もなさ、野蛮さに好感をもった。

アライさんは、きっと谷崎の『陰翳礼賛』の感性など解しないかもしれない。手に入ったものを子どものように自慢したがる無邪気さを微笑ましく思う。

しかし、その根底には素手で戦ってきた人の凄みが湛えられていたことを後年になって知った。

1995年の阪神大震災から数日後、夜中にカラスが鳴くなど不気味な夜が続き、山が崩れるかもしれないと住民が不安になっていた頃、アライさんはどういうルートを辿ったわからないけれど、大きなブルドーザーを手配した。

万が一の事態が起きても、物理的な問題は物理的に解決する。そこに僕は彼の影を宿さない精神の清潔さを見たのだった。

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目覚めに向けた走りについて

最近、ランニングを始めた。
といっても、ほんの2日前のことなので本当に直近の話だから、この先続くかどうかもわからないのだけど。

きっかけはいま読んでいる『BORN TO RUN』という本に影響されてのことだ。なんだか無性に走りたくなった。しかも、文中で登場したビブラムという5本指に別れた靴も買ってしまった。感化されやすいんだ。

世界で最も偉大な長距離ランナーであるメキシコのタラウマラ族について書かれた本書は、アメリカでベストセラーになったというのだが、そのわりにたいへん読みにくい。
著者がとにかくはしゃぎすぎなのだ。

しかし、重要なことがいくつか書かれていた。
そのうちのひとつに、アメリカのスポーツ医学の中には、人間の身体は走ることに向いておらず、身体に悪いという見解もあるという。そのためだろうか。踵を地面にうちつける際の衝撃に耐えるため、メーカーは一時期、エアクッションなどさまざまに工夫された高機能シュースの開発に余念がなかった。

ランニングで膝、アキレス腱、踵を壊す人が多い→もともと走ることに人体は向いていない。
結果から原因を求めているように見えて、その実、ある結果から別の結果を求めることにしかなってない。こういうものを検証といっていいかどうかわからない。

ともあれランニングによって怪我を抱えていた著者は、タラウマラ族の噂を聞きつけ驚愕する。
なにせ3日間400キロ以上を休まず走り続けるようなランナーもいるというのだから。しかもナイキの最新のシューズではなく、ごく薄いサンダルを履いてだ。

江戸時代の飛脚が一日160〜200キロを走ったというから、タラウマラ族の走行距離もたぶん事実なんだろうと思う。

現代の一流アスリートでさえ不可能な距離を走破するとは、にわかには信じられない。白髪三千丈の類いの話だろうという人もいるだろう。

でも、いまの自分程度のレベルから推し量って、人間の可能性を見積もるのは不遜というものだ。

たとえば、甲野善紀先生が以前、サイトでも言及していた明治時代の剣客、中井亀次郎だ。

中井は空の醤油樽を背負って、山に登り、急勾配の崖の斜面にそれを転げ落とすと同時に醤油樽を追い、かつそれを手にした棒で叩きながら下まで駆け下りたという。ほんの100年くらい前にそういう人がいた。

ちなみに幕末に来日したペリーの日記を読むと、当時の日本人の身のこなしを「軽業師のようだ」と記述している。身体を徹底して使う文化の中では当たり前のことが、いまでは不思議に思えることがたくさんある。

自転車に乗った経験も乗っている人を実際に見たこともなければ、とうてい漕ぎながら、倒れずに、それでいて左右に曲がったりすることなど想像もできないかもしれない。たぶん僕らは先人の身体のレベルを自転車に乗れない感覚でぼけっと見ている。

僕はずっと身体というか心身というか、この身のあり方が不思議でたまらなかった。

その不思議さは、総論すれば「生きるとはどういうことか?」という問いに収斂するのだけど、あまりにその問いの間口がデカ過ぎて、そいつにどうアプローチしていいかわからなかった。

宗教か哲学か進む道を迷ったが、そのふたつをいわば体感で捉えられるものが武術だと直感した。

がしかし、身の回りの武術はことごとくスポーツ化したもので、回数をこなすだけのものでしかなく、意味のない気合いとともに行われる練習がどうしたところで古の侍の身のこなしに近づけるものではないと早々に気づいた。

それに「生きるとはどういうことか?」の疑問に応じる武道性を標榜する精神とやらも、「我慢」「克己」という問いを封じ、体感を鈍磨させるものでしかなかった。

悶々と悩む中、ムエタイに出会った。ムエタイのいっさい能書きをいわないにもかかわらず、すばらしく強いところに打たれ、武術を諦めてキックボクシングを始めた。10年ほどキックを続けたが、やはり武術に対する思いは熾火のように心中にあり続けた。

そういうときに池袋の西武コミュニティカレッジで出会ったのが先述の甲野先生で、「なるほど。古の技というものはこういうものであったかもしれないな」という経験をし、たいへん感激した。その日を限りにキックボクシングをすっぱり止めた。

人との出会いが人生を開くというが、以来、心身問題に取り組んできた先人の知見に触れることができた。
野口整体の野口晴哉の著作を読んだり、整体にかかったり、剣術を学んだり、心身との深い結びつきで人の存在について考察している精神科医の名越康文さんに出会ったり、著作まで出すこととなった中国武術の韓氏意拳と邂逅することができた。

だからといって僕はストイックなわけではなく、オーガニックや甲田メソッド、禁糖を試みたり、最近ではロルフィングを受けたり、豆乳ヨーグルトをつくってみたりと、わりと天然生活っぽいこともしている。流行に弱い側面は充分にある。

いろんなことを経験してきて思うのは、いまの暮らしの中では、感じる力が不当なまでに抑圧されていることで、知識と情報をもとにした思考の総和が世界に等しいと思われていることだ。

世界は常に既定の外にあり、刻々と移ろうただいま現在の姿は感じる中でしか出会うことができない。
その当たり前の事実を見失うことをもって成熟と呼んでいたりする。それは眠りに就くこととどう違うのだろう。

僕はできれば目覚めていたい。
目覚めているつもりで新たな深い眠りにうっかり就いている人を見ると、自分もそうかもしれないと思う。

背筋を正すことでしか、そう、まさに身体の規矩を感じる中でしか、自分のありようなどわかりはしない。
そのことを忘れずにいたい。

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偏愛

1963年頃、父は勤めていた会社を辞めた。国籍の違いを理由とした待遇に腹を据えかねてのことで、退職後、ただちに起業した。
社会の既存の経路に従って進む査証をもたない在日コリアンの同時代人は、金融や土建、飲食、芸能などにおいて生きる道を模索した。

スサノオのごとき性分の父もまた上記のいずれかを選んでもおかしくなかったのだが、前職の経験を生かし、洋菓子の包装紙などを卸す会社を起こした。

岩肌に目鼻を穿ったような風貌の男がピンクのリボンやかわいい包装紙を扱っていたのだ。神戸にはパン屋や洋菓子店が多かったせいもあったとはいえ、不釣り合いなことこの上ない。
ともあれ「大きいことといちばん」が好きな父らしく、社名を「ダイイチ」とつけて、新たな暮らしを始めた。

1966年、ビートルズがやって来た。
敗戦後に急場にしつらえられた社会の形は、いま一度再編成される気運もあったようだが、父にとっては、世相はともかく、活況を続ける日本経済の尾をとらまえることに必死であった。そんな時節に兄は生まれた。

兄は3、4歳にもなるとひとりでバスや電車に乗っていたそうだ。しゃべり出すのも歩き出すのも早く、そこに利発さを認めた両親は行く末に期待をもった。

小学校1年生のテストでは、「白の反対は?」「右の反対は?」などといった設問の並びに「白ではない」「右ではない」といった答えを書き、0点をとった。
そういったエピソードを両親は後年、笑って明かした。我が子の発想を「ユニークさ」として流してしまえる余裕がその頃にはまだあった。

いまとなっては、個性というものがこねくり回され過ぎて、協調性と独自性の二路線を同時に踏まえるといった、もはや誰が体現しているかわからない代物として尊重、あるいは敬遠されているように思うが、当時、個性という語は、いまほど人口に膾炙してはいなかった。

個性の伸長があるとすれば、いい学校に行き、勉強ができることで発現強化されるものであり、それによって立身出世はかなう。少なくとも父はそう信じていたようだ。

赤貧の中に暮らし、社会に参与できなかったという思いを抱く父は、不遇をかこつ身からの回生策として、僕らにふたつのことを折に触れて言い聞かせた。

「知識と教養を備え日本社会から尊敬される人間になること」
「圧倒的な力をもって自己の身幅を確保せよ」

ひとつめは社会の階梯に従った生き方を、ふたつめは階梯から身を遠ざけ、独自の道を行くことを意味した。

兄の聡さは、後者において発揮されるべきものだったと思う。父もまたその資質がありあまるほどにありながら、兄の本来持っていた個性を上書きすることに努めた。

頭の回転の早さは、物事の秩序だった手順をまだるっこしく感じるだろう。だから整理整頓が苦手にもなろうし、それに苦を感じることもあるだろう。

あれこれと発想が浮かぶと、腰がむずむずする。動きたくなる。ひとつところにいてじっとすることに当然耐えられない。ときに時間を忘れて外を駆けまわる。親や教師はそれを不真面目さ、落ち着きのなさと受け取った。

おそらく、どれもこれも身体が然らしめる現象なのだが、秩序に馴染むことを教育、啓蒙とする見方にすれば、兄のような振る舞いは学習能力に欠けた、将来を憂うべき子どもだった。
また、たかだか整理整頓が苦手だということが徳目に欠けたことであり、人生上の大問題のように取り上げられ、叱責された。

その感情の発露は、神話的であり、人間世界の秩序をはみ出すようなあり方をしていながらも、父は秩序に寄って行く生活を人としての成長のあり方と考えていたのだ。兄は父の錯覚には乗れなかった。

社会に用意されたスケールに従ってのみ我が子を測定するようになったとき、兄は勉強ができない上に社会生活をまともに送れない。そういうように次第に判じられていった。

とりわけ母にその傾向が強かった。高度成長時代の動向に合わせ、貧苦に喘ぐ暮らしから市民的で快適な生活への登壇を人生上の喜びと捉えるところがある人だった。

母にしてみれば、自分の思い描く生活に配置できない兄にうまく愛情を注げなくなったものか。兄に比べてものわかりのいい、従順な僕を偏愛した。親戚や友人のあいだで交わされる子どもに関する話題は、突き詰めれば「弟に比べて兄は…」というものだった。

先頃のブログでも書いたように、ときに包丁の峰打ちなどの過剰な表現を伴う母の愛情は、完全に兄をスポイルし、損ない続けるものだった。

1988年2月、僕が生まれて間もなく膠原病になり、17年間に渡る闘病生活を続けていた母が亡くなった。

集中治療室に呼び出された父と兄、僕は医師から「たいへん残念ですが、あと30分で心臓が停止します」と告げられた。

直に死ぬと明かされ、それが間もなく到来すると知らされたものの、眼前にこうして寝ている人が死ぬということがまったく想像できず、もはや何が悲しいのかわからないが、とにかく滂沱と涙が流れた。嗚咽した。

「親戚に報せなきゃな。ちょっと家に戻るわ」

兄は心ここにあらずという面持ちを浮かべ、白茶けた声でそう言うと踵を返し、逃げるように去った。そのときの彼の声の表情をいまだに忘れることができない。

兄は母の最期を看取ることを避けた。それは愛憎であるとか、わだかまりであるとか、わかりやすい言葉でにわかに片付けられないものだ。ふたりの間に横たわる感情の澱がここに来て、そのような形をとらせてしまった。

今生での別れに悔いはなかったか。
兄に対しそう思う時、悔恨があるとすれば、そのような思いをさせてしまった片棒を自分も担いでいることに気づく。

兄とはもう15年ほど会っていない。母が亡くなってから四半世紀経つ。
あれから僕らは母の死について一語も交わしていない。